北条氏康 巨星墜落篇第十八回


 氏康と氏政が武田信玄の暗殺未遂事件に衝撃を受けたひと月ほど後、またもや驚くような知らせが甲斐から小田原に届いた。
 織田信長の養女が信玄の次男・勝頼に嫁いだというのである。
「まさか織田と手を結ぶとは」
 驚きを隠しきれぬ様子で、氏政が言う。
「かなり前から両家の間で婚姻の打ち合わせが行われていたのであろう。今になって考えると、義信殿が武田殿の暗殺を図ったのは、これと関わりがあったのかもしれぬ」
「義信殿が......」
 氏政が小首を傾げる。
「わからぬか? 武田殿は今川と手を切るつもりなのだ」
「え」
 織田信長が松平家康の後ろ盾となっているのは周知の事実である。その信長が信玄と手を結べば、当然、信玄と家康の関係も深まることになる。
「われらの間には、武田、今川、北条の三家による同盟が......」
「その同盟を大切にするつもりならば、なぜ、織田との婚姻をわれらに知らせて来ない?」
「確かに」
「武田殿は新たな同盟を結ぶつもりなのではないかな。武田、織田、松平の、な」
「ということは......」
「駿河を松平と分け合おうというつもりなのであろう」
「まさか......」
「今川と手を組んで遠江や三河に攻め込むよりも、松平と手を組んで駿河を分け合う方が武田の得になると考えたのだな。なぜなら......」
 なぜなら、と氏康が付け加えたのは、駿河には港があるということである。
 信玄の領国には海がない。甲斐も信濃も山国なのだ。港を手に入れれば、貿易額が飛躍的に増えて、国が潤う。喉から手が出るほど港がほしいであろう。信玄にとっては、同盟を遵守するより、港を手に入れる方が重要なのだ。
「武田と松平を相手にして、今川は国を守ることができましょうか?」
「無理だな。あの男にそんな器量はない」
 氏康が断言する。
「そうですな」
 氏政がうなずく。
 氏康も氏政も氏真(うじざね)に会ったことがある。氏真の器量は信玄にも家康にも遠く及ばぬであろう。
「当家は、どうするのですか?」
「信義を貫く。どれほど形勢が悪かろうと今川に味方をする」
「それでは、われらが武田や松平と干戈を交えることになるのではありませんか?」
「そうならぬことを願っておるが......」
 氏康は歯切れが悪い。


 十一月末、長尾景虎が越山し、厩橋(まやばし)城に入った。
 そうなるであろうと予想していたから、いつでも出陣できるように、氏康は万全の準備をしており、景虎が南下するようなら、すぐさま小田原を出るつもりでいた。
 しかし、景虎は厩橋城から動かず、氏康も小田原に留まった。
 そういう状況で新年を迎えた。
 家族や家臣が次々に新年の挨拶にやって来る。遠くに嫁いでしまった娘もいるから、家族みんなの顔を見られるわけではないが、遠くにいる者も贈り物と共に手紙や使者を送ってくる。
 氏康は子だくさんで、七男五女、十二人の子供たちがいる。長男の氏親(うじちか)のように若くして亡くなった子もいるが、それでも十人以上が存命なのだから、この時代としては稀有なことと言っていい。
 大名にとって、子供というのは、かわいいだけの存在ではない。領国支配の要となる。
 政治的な視点からすれば、子供は多ければ多いほどいい。
 その点、氏康が危惧するのは氏政の家族である。嫡男の国王丸は五歳の幼児で、二人の弟はまだ赤ん坊である。二十九歳という年齢と北条氏の当主という立場を考えれば、決して多くはない。
 いや、むしろ、少ないであろう。
 もっとも、国王丸は長男ではない。次男である。
 十一年前、氏政が十八歳のときに男子が生まれたが、すぐに亡くなった。母は武田信玄の娘である。
 長男と次男は母親が同じで、年齢差が七つだから、その間に何度か妊娠したものの流産してしまったという可能性も考えられる。
 氏政の子供の数や、その年齢に氏康が敏感なのは、自分の健康に不安を感じているからだ。
 年が明けて、氏康は五十二歳になった。
 国王丸が元服するのは、あと十年くらい先だろうが、漠然と、
(元服して一人前になった姿を見ることはできまい......)
 という暗い予感がする。
 氏政が国王丸を伴って挨拶に来たとき、ふと氏康は思い立って、
「国王丸と二人で天守に上っても構わぬか?」
 と、氏政に訊く。
「え」
 一瞬、氏政は驚く。
 突然、何を言い出すのか、という顔である。
 しかし、氏康の頼み事を断るわけにもいかないし、天守に上がるだけなら構うまい、と承知する。
「すぐに戻る。酒でも飲んで待っておれ」
 さあ、じじと行こうぞ、と国王丸の手を引いて、氏康が広間から出て行く。
 二人きりで、といっても、実際には、氏康と国王丸の後ろから、氏康の小姓や国王丸の乳母や女中がぞろぞろとついてくる。
 氏康は何も言わなかったが、いよいよ天守閣に上がるというときに、
「ここからは、わしと国王丸の二人だけでよい。その方らは、ここで待て」
 と命じ、国王丸を抱き上げて、梯子を上がる。天守閣に上がり、板敷きに国王丸を下ろす。
 国王丸が、うわーっ、と大きな声を発して、欄干に駆け寄る。
「あまり、そっちに行くのは危ないぞ」
「うん、うん」
 大きくうなずきながら、ぴょんぴょん跳びはねる。
「国王丸は、いくつになる?」
「五つです、おじいさま」
「そうか、五つか。わしは、四つのとき、おじいさまと物見台に上がったことがある。ここではないぞ。韮山(にらやま)城という、もっと小さな城でな......」
 まだ伊豆千代丸と呼ばれていた幼い頃、氏康には金時(きんとき)という友達がいた。氏康の夜泣きがやまないので、氏康を和ませるために乳母のお福が拵えてくれた人形である。金時と一緒に寝るようになってから、氏康は夜泣きをしなくなった。
 見た目も女の子のようにかわいらしく、性格もおっとりしていて優しいのが幼い頃の氏康で、お福やそばに仕える女房たちからは人気があったが、厳格な父・氏綱は、そんな氏康を苦々しく見ていた。
 ついに、目の前で氏康が金時と戯れるのを見て、
「嫡男ともあろう者が女々しい」
 と腹を立てて、金時を取り上げた。
 氏康は嘆き悲しみ、ずっと泣き続けた。
 その泣き声を、祖父の宗瑞(そうずい)が耳にした。
 事情を知った宗瑞は、氏綱が捨てた金時を懐に入れて氏康に会いに行った。
「おかしいのう。ここに泣いている子がおるようじゃ。おまえの探している伊豆千代丸は泣き虫ではないはずだから、ここにはいないのではないかなあ」
 座敷では氏康がお福にしがみついて、しゃくりあげるように泣いていた。
「泣いているのは伊豆千代丸であったわ。せっかく遊びに来たのに、こんなに泣いてばかりいるのでは無理なようじゃな。足柄山に帰った方がいいのではないかな、金時よ」
 宗瑞が「金時」という言葉を発すると、氏康がハッとしたように宗瑞を見る。
 宗瑞が懐から金時を取り出すと、
「あ、金時」
 転がるように宗瑞の足に飛びつく。
「もう泣いてはならぬ。金時に笑われるぞ」
「はい」
 金時を胸に抱きしめて、伊豆千代丸がうなずく。
「さて、機嫌が直ったところで、じじと物見台にでも登ってみるか」
「うん、金時も一緒にね」
「ああ、そうじゃったのう。金時も一緒にな。では、三人でまいろうか」
「うん、行く」
 韮山城と呼ばれてはいるものの、実際には、砦と呼ぶのがよさそうな小さな城である。
 小田原城とは比べようもない。
 そんな小さな城だから、天守閣というたいそうなものはなく、城の三階部分を物見台として使っているだけだった。
 とは言え、本丸は天ヶ岳の尾根の上にあるので、物見台からは韮山全域を一望の下に眺め渡すことができる。
 宗瑞が氏康を連れて物見台に登ったときには、ちょうど西の空が茜色に染まり、夕陽が韮山の田園地帯を照らしていた。
 四十八年も昔の出来事である。
 にもかかわらず、氏康は、そのときの光景をはっきり覚えているし、宗瑞と交わした会話の内容も鮮明に記憶に残っている。
 一代にして伊豆と相模を征して大名にのし上がり、梟雄(きょうゆう)として怖れられていた宗瑞だが、氏康には、いつも笑顔で接する優しい祖父だった。
「きれいだね、おじいさま」
「うむ。そうじゃな。ここから何が見える?」
「田圃です」
「他には?」
「畑も見えます。川も。それから、お寺も」
「そこで多くの者たちが暮らし、汗を流して働いている。その姿が見えるか?」
「見えません。あ、でも、少しなら見える。人が動いています。牛や馬も」
「あの者たちは、わしを頼りにしてきた。しかし、わしは年を取って隠居した。これからは、おまえの父を頼りにすることになる」
「ふうん、父上を......」
「いずれ父も老いる。わしのように隠居する日が来る。そのときには、おまえが父の後を継ぐ。あの者たちは、おまえを頼りにすることになる」
「わたしを?」
「そうじゃ。おまえを頼りにする。じじから頼みがある。聞いてくれるか?」
「はい、聞きます。おじいさまのこと、大好きだから」
「おまえは金時が好きであろう?」
「好きです」
「金時が嫌だということはするまいな?」
「しません」
「金時が困っていれば、それを助けてやりたいと思わぬか?」
「思います」
「その気持ちを決して忘れるな。伊豆や相模に暮らす者たち、おまえを頼りとするであろう者たちに同じ気持ちで接してやってほしい。わかるかな?」
「わかりません」
「おまえは優しい子じゃ。金時に優しく接するように、誰にでも優しくしてほしい。金時を慈しむように伊豆や相模の民を慈しんでほしい。それがじじの願いじゃ。そうすると約束してほしい」
「......」
「すまぬ、すまぬ。ちと難しすぎたかもしれぬな。日が暮れて、少し冷えてきた。下におりよう。お福に、かき餅でももらうがよい」
「はい」
 氏康が目を瞑る。
 そうすると、四十八年前に宗瑞と物見台で過ごした日の光景が脳裏に甦る。
 あの日、四歳だった幼子が、今や伊豆と相模だけでなく、武蔵や下総、更に、上総や上野の一部まで領する大大名になっている。
(わしは、おじいさまの教えを守ることができたのだろうか......)
 領国の民が少しでもいい暮らしができるように心を砕いてきたつもりだが、宗瑞の時代以上に激しい戦乱が続き、国土も荒廃している。
 それは必ずしも氏康のせいではないが、戦のない平和な国を作るという理想には、ほど遠い。
 そうだとしても、宗瑞、氏綱、氏康と理想は受け継がれ、理想を実現しようと努力している。氏康の目には頼りなく映る氏政にしても、少なくとも努力はしている。その姿勢は、氏康も認めている。
 今の氏康は、四十八年前の宗瑞の立場にいる。
 自分の人生が終わりに近付いていることを自覚しているからこそ、北条氏の理想を次代に受け継いでもらわなければならない。
 氏康は目を開ける。
 国王丸は欄干にしがみついて楽しそうに景色を眺めている。国王丸の肩にそっと手を置くと、
「ここから何が見える?」
 氏康が優しい声音で訊く。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

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