北条氏康 巨星墜落篇第三十九回
二十二
太郎丸と小次郎が冬之助の部屋に行くと、冬之助が茶を飲みながら待っている。
「坐りなさい」
「はい」
二人が並んで腰を下ろす。
二人とも緊張が顔に出ている。
普段、冬之助と接する機会は、ほとんどない。
冬之助は、決まった講義を持っておらず、一般の学生に教えることはない。ごく一部の優秀な学生だけが、冬之助の教えを受けることができる。
それ故、冬之助から指名され、教えを受ける機会が得られた学生は跳び上がって喜ぶし、他の学生たちは、
「あいつは養玉先生に選ばれたそうだ」
と羨望の眼差しを向ける。
実際、冬之助の教えを受けた後に足利学校から旅立った者たちは、いずれも軍配者として頭角を現している。冬之助の教えのおかげなのか、元々、優れた資質を備えていたせいなのか、それは定かではないが、彼らは、
「自分は曾我養玉先生の弟子である」
と胸を張って誇り、そのせいで冬之助の名は大いに高まっている。ある意味、生きた伝説のような存在なのである。
その冬之助から直々に呼び出されるのは太郎丸と小次郎にとっても喜びであり、名誉でもあるが、それが自分たちの才能のせいではなく、二人の父親が冬之助の親友だったせいだということも自覚している。冬之助に会い、親しく言葉をかけてもらい、教えを受ける機会を持てるのは、父親たちからの遺産のようなものなのである。
「二人とも学問に励んでいるようだな。先生たちから聞いているぞ」
「ありがとうございます」
「今は何を読んでいる?」
冬之助が太郎丸に顔を向ける。
「はい......」
太郎丸は兵書をいくつか挙げる。
「うむ、春渓も同じか?」
「はい、同じようなものを読んでいます」
小次郎がうなずくと、太郎丸が口許に笑みを浮かべる。
「何がおかしいのだ?」
「あ......いいえ、別に」
「言いなさい」
「春渓もわたしと同じように兵書を読んでいるのは間違いないのですが、春渓は兵書よりも熱心に仏典を読み耽っているものですから......」
「仏典だと? 何のことだ」
「さっきも『浄土三部経』を読んでいました」
なあ、と太郎丸が小次郎を見る。
「うむ」
小さな声で、小次郎が返事をする。
「なぜ、熱心に仏典を読むのだ?」
「申し訳ありませぬ」
「謝ることはない。理由を知りたいだけだ。軍配者になるのを諦めて、僧侶になりたいのか?」
「そういうわけではなく......」
「遠慮はいらぬ。正直に言いなさい」
「はい......」
小次郎は、太郎丸に話したのと同じことを、冬之助にも話す。それを聞いて、
「生きることの意味、死ぬことの意味、ふうむ、なるほど......」
そう言って、冬之助が黙り込む。
「やめた方がいいのでしょうか?」
恐る恐る小次郎が訊く。
冬之助が険しい顔をしていたからだ。
「何をだ?」
「そんなことを考えたり、仏典を読んだりすることをです。さっきも太郎丸に言われました。軍配者になるのに必要なことではないだろう、と」
「そうかもしれぬ。しかし、わたしたちは軍配者である以前に一人の人間だ。人間として、生きることや死ぬことを考えるのは当たり前のことであろうよ」
冬之助は文机の横にある籠から書物を取り出して、二人に示す。
「あ、『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』ですね」
小次郎が驚く。
「うむ、実は、『浄土三部経』を読むつもりだったが、書庫に見当たらなかったので、こっちを先に読むことにした。まさか小次郎が読んでいたとは」
冬之助が笑う。
「養玉先生も仏典をお読みになるのですか?」
太郎丸が不思議そうな顔で訊く。
「若い頃は、まったく興味がなかった。読むようになったのは、ここ数年だな。自分が年を取ったのもあるし、親しくしていた多くの者たちが死んでしまったのもある。死ぬとは、どういうことなのかを考えるようになると、生きるとは、どういうことなのかを考えるようになるし、生まれないときは、どこにいたのか、死んだら、どこに行くのか、を考えるようになる」
「死んだら極楽に行くのではないのですか? あるいは、地獄に」
太郎丸が首を捻る。
「そうかもしれぬ。しかし、そこに行って、そこから戻って来た者はおらぬ。本当かどうか、話を聞いて確かめることができぬ。それ故、仏典を読んで、いろいろ考えている」
「そうなのですか。自分も仏典を読んだ方がいいでしょうか?」
「慌てることはない。いずれ読みたくなるときが来るだろう。それを待てばよい。小次郎も、仏典が好きならば読み続ければよい。どうしても軍配者になる必要はないし、僧侶になりたいと思えば、そうすればいい。軍配者が僧侶になってもおかしくないし、僧侶が軍配者になるのも珍しくない時代だからな。さて......」
冬之助が話題を変える。
ここからが本題なのであろう。
今の関東の情勢をどう見るか、と二人に訊く。
足利学校には各地の動きが即座に伝わってくる。卒業生が軍配者として諸国の大名に仕えており、彼らが律儀に情報を送ってくるからである。別に義務ではないし、そうしなければならないという決まりもないが、昔からの慣習になっている。
そのおかげで、足利学校の学生たちは、居ながらにして諸国の動きに関する正確な情報を素早く知ることができる。
「贔屓目で言うわけではありませぬが、今や武田が関東を席巻する勢いだと思います。北条が瀬戸際で踏ん張っているように見えますが、それは決戦を避けているからで、決戦して大敗すれば家が滅びるとわかっているからではないか、という気がします」
太郎丸が横目で小次郎を見る。主家を滅びるかもしれないと言われて腹を立てるかと危惧したのであろう。
しかし、小次郎の表情に変化はない。
実際、太郎丸の言うように、武田の勢いには目を瞠るものがある。
去年の九月下旬、わずか数日とはいえ、小田原城を包囲し、十月初めには三増(みませ)峠で北条軍を撃破した。
その後、再び駿河に攻め込んで駿府を占領し、着々と支配地を広げている。
今年の三月には常陸の佐竹義重との同盟を画策し、安房の里見氏とも協力して北条包囲網を構築しようとした。
北条氏も形勢挽回を図り、たびたび駿河に兵を出しているが、その都度、武田軍に撥ね返されている。八月初めには武田勝頼の率いる軍勢に伊豆に攻め込まれ、韮山(にらやま)城を攻撃されている。駿河を奪い返すどころか、伊豆を奪われそうなほど劣勢なのだ。
太郎丸の見方は、世間一般の見方と同じである。
武田が北条を圧倒し、北条は土俵際の瀬戸際で踏ん張っている、という構図なのだ。
「そうか。小次郎は、どうだ?」
「全体としては、太郎丸の考えに賛成です。ただ、このまま武田の勢いが続くかどうか、それは何とも言えぬと思います」
「なぜだ?」
「長尾の動きが気になるからです......」
北条氏と長尾氏が同盟を結んだ後、長尾氏は武田氏と和睦した。「甲越和与」である。足利義昭の仲介を断り切れなかったのだ。
当然ながら、北条氏は激怒した。
特に氏政は氏康以上に腹を立て、長尾との同盟を破棄し、越後に養子を送ることを中止することまで検討した。氏康が氏政を宥めたことで、かろうじて同盟は維持されており、四月に氏政の弟・三郎が越後に向けて出立している。
四月二十五日、長尾景虎は三郎を養子とする祝言を盛大に開いているから、これは人質の扱いではない。養子という名目で実際には人質を取るというのはよくあるやり方だが、これはそうではなく、景虎は本気で三郎を後継ぎにするつもりでいたらしい。
ちなみに景虎は、この時期、世間向けには上杉輝虎と名乗っており、これからしばらくして正式に出家し、謙信と号するようになる。上杉謙信である。
景虎という名は三郎が受け継ぐことになる。
足利義昭の仲裁を断り切れず、やむなく武田と和睦した謙信だが、本心では、武田を憎悪している。
元々が短気でもあり、我が物顔で関東を暴れ回る武田のやり方に激しい怒りを感じていた。
謙信には自分は関東管領だという強烈な自負がある。その自分を無視して、好き勝手なことをする武田を許すことはできない、というわけである。
ついに謙信の堪忍袋の緒が切れたのは七月中旬である。春日山城にやって来た武田の使僧を斬った。武田の戦果と北条の悪口を滔々と述べ続けるのを黙って聞いていたが、遠からず信玄の力で関東に平和がもたらされましょう、と使僧が口にした瞬間、謙信の顔色が変わり、
「それは関東管領であるわしの仕事で、武田が口出しすべきことではない」
と怒鳴るや、席を立って使僧を斬り捨てた。
これによって「甲越和与」は消滅した。
氏政の望むように、すぐさま兵を動かして武田の背後を脅かすことはなかったものの、徳川家康と連携することを決め、武田と断交した家康と十月に同盟を結んだ。これによって、北条、長尾、徳川という三家による武田包囲網が完成した。
「これからは北条が巻き返すというのが、小次郎の考えなのだな?」
「そう思います。すぐに武田の勢いが止まることはないでしょうが、今までのようなわけにはいかぬと存じます。長尾と徳川の動きが武田の進撃を止めることになるのではないでしょうか」
「おまえは、どう思う?」
冬之助が太郎丸に顔を向ける。
「そう簡単にはいかぬと思います。確かに、長尾は武田との和睦を破棄し、徳川と盟約を結びましたが、兵を動かして武田を攻めてはおりませぬ。長尾が動かぬのであれば、今までと何も変わらないのですから、特に武田が不利になることはないと思います。武田とすれば、長尾が動かぬうちに北条を叩いてしまおうとするのではないでしょうか」
「いや、そうは思わない」
小次郎が反論する。
しばらく二人は、武田と北条のどちらが有利なのか不利なのかと議論し、それを冬之助は黙って聞いている。
やがて、二人の意見が出尽くした頃合いを見計らって、
「汝らの考えは、どちらも正鵠(せいこく)を得ている。この先どうなるかは、わしにもわからぬから、どちらが正しいとも間違っているとも言えぬ。しかし、これだけは言おう。汝らの見通しには、ひとつ大切なことが欠けている。それを踏まえなければ、正しく先を見通すことはできぬ」
「大切なこととは何でしょうか?」
二人がじっと冬之助を見つめる。
「うむ」
冬之助がまた文机から何かを取り出す。
一枚の紙である。
それを二人の前に置く。
そこには、
「天下布武」
と墨書されている。
「知っているか?」
二人が顔を見合わせ、首を傾げて、いいえ、と答える。
「この二年か三年で、尾張の織田信長が使うようになった印章に刻まれている言葉だ。意味はわかるだろう」
「武を以て天下を平定する、ということでしょうか?」
小次郎が訊く。
「そうだ。実際、信長は、それを着々と推し進めている。桶狭間で今川義元を討ち取ってから、わずか十年にして、信長は、それほど大きな力をつけたということだ......」
桶狭間で九死に一生を得た信長は、まず分裂していた自国・尾張を統一し、次いで隣国・美濃に攻めこんだ。苦労して美濃を奪うと、それからは一路・京都を目指した。
足利義昭を奉じて上洛戦を勝ち抜き、三好三人衆を追い払って畿内平定に成功した。義昭を征夷大将軍に就任させたことで、信長の声望は大いに高まった。
「今の将軍が信長の言いなりだということは誰でも知っている。武田と長尾、いや、武田と上杉の和睦も信長の差し金なのだ。つまり、今や信長は将軍の口を借りて、天下に号令することができるということだ。『天下布武』の印章を堂々と使うようになったのは、尾張と美濃、京都周辺を支配するだけでは満足せず、支配地を全国に広げていこうという信長の決意の表れなのだ」
「六月に浅井や朝倉と戦ったのも、その表れということですか?」
太郎丸が訊く。
「浅井長政には信長の妹が嫁いでおり、織田と浅井には盟約があった。だから、信長が京都に向かったとき、浅井は黙って信長の軍勢を通したのだ」
冬之助が言う。
「それなのに、なぜ、両国は戦ったのでしょうか? 四月に裏切られたからですか」
太郎丸が首を捻る。
四月、信長は、朝倉氏討伐のために三万の軍勢を率いて越前に攻めこんだ。
ところが、背後の浅井氏が裏切ったため、挟み撃ちの危険にさらされた。
信長は直ちに戦場を離脱し、わずかばかりの兵を従え、朽木(くつき)を越えて京都に戻った。
このとき、織田軍が無事に退却するため、死兵として殿(しんがり)を務めたのが秀吉で、この奮闘が後の出世の大きな足がかりとなった。
態勢を立て直した信長は、六月二十八日、近江・姉川(あねがわ)において浅井・朝倉の連合軍と戦い、激戦の末、これを破った。
「どう思う?」
冬之助が小次郎に顔を向ける。
「浅井と朝倉は古くから繋がりの深い家なので、朝倉を見捨てることができなかった......最初、わたしは、そう考えていました。しかし、養玉先生の話を聞いて、それだけではないな、と感じています」
「それで?」
「いずれ自分も信長に滅ぼされるのではないか、と浅井長政は考えたのではないでしょうか。それならば、今のうちに朝倉と手を結んで信長を滅ぼしてしまおう、と」
「だが、織田と浅井には盟約があるのだぞ」
太郎丸が言う。
「浅井の領地は、信長の本国と京都を結ぶ途中にある。そんな大切な土地を他人が支配するのを信長がいつまでも許すはずがない、と考えたのではないか。いかに妹婿とはいえ、赤の他人だ。自分が支配する方が安心できるだろう」
小次郎が首を振る。
「なるほど、そういうことか」
太郎丸がうなずく。
「姉川での負け方がひどすぎて、浅井と朝倉はもう立ち直ることはできまい。いずれ信長が近江と越前を飲み込むことになる」
冬之助が言う。
「その勢いが、やがて関東にも波及してくる、と先生はおっしゃりたいわけですね? それ故、武田や北条、上杉だけに目を向けていては駄目だ、織田の動きが肝心なのだ、と」
小次郎が訊く。
「ちょっと待ってくれ。武田と織田も盟約を結んでいるではないか。信長の養女が武田に嫁いでいるのだから。信長が力を付けるのは、むしろ、武田にはありがたいのではないかな? 北条を更に追い詰めることができるかもしれない」
太郎丸が言う。
「織田は、武田だけでなく徳川とも盟約を結んでいる。しかも、徳川との繋がりの方がよほど深い。姉川にも徳川軍が加わっていたというからな。その徳川と武田は、すでに敵同士だ。信長は、どちらに味方すると思う?」
小次郎が訊く。
「徳川は、北条や上杉と手を結んでいるから、信長もそれに加わって武田を攻めるのかな?」
太郎丸が首を捻る。
「信長は、武田も北条も上杉も攻めるつもりでいるだろう。それが『天下布武』の意味だからな。但し、今すぐではない。いかに信長といえども、一度に強国を打ち負かすほどの力はない。信長にしてみれば、関東で武田と北条、上杉がいがみ合って、互いの力を奪い合うのは勿怪(もっけ)の幸いというところだろう」
冬之助が言う。
「漁夫の利を狙っているわけですね」
小次郎がうなずく。
「そうだ。それ故、関東の争乱を見渡すときは、それを信長がどういう目で眺めているかということも考えなければならぬのだ」
「なるほど」
「よくわかりました」
太郎丸と小次郎が大きくうなずく。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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