北条氏康 巨星墜落篇第四十三回

二十六
 氏政は、里見氏との戦いを指揮するため、すぐに上総方面に出陣する予定だったが、急遽、延期した。
 氏康が危篤状態に陥ったのである。
「ご覚悟を」
 と医者が言うほど深刻だから、直ちに急使があちこちに発せられる。娘たちはすぐに駆けつけたが、息子たちは、そうはいかない。皆、前線で敵と対峙しているからである。
 誰もが氏康の最期を覚悟したが、数日経って、奇跡的に回復した。
 医者が何かをしたわけではない。とうに匙を投げており、できることなど何もなかった。氏康自身の生命力のなせる業であった。
 だが、これによって氏康がまた一歩、死に近付いたことは確かである。氏政も他の者たちも、それを知った。危篤状態にあったとき、水も飲めず、何も食べられなかったから、意識を取り戻したときには、贅肉などどこにもなく、わずかばかり残っていた筋肉も削ぎ落とされて、骨と皮ばかりになっており、まさに枯れ木のように見えた。
 そんな生きた骸骨のような状態で、氏康は見舞いに駆けつけた家族と会った。
 医者はいい顔をしなかったが、
「もう時間がないのだ。頭がしっかりしているうちに話さなければならぬことがある」
 氏康は医者の忠告を退けた。
 実際、この頃になると、普通の状態でいる時間が少なくなり、発熱して魘(うな)されている時間ばかりが長い。そうなると、まともな思考が不可能になるらしく、口から出てくるのは支離滅裂な言葉の羅列に過ぎないし、家族が見舞っても、それが誰なのかわからない有様であった。
 頭の中の霧が晴れるのは、いくらか熱が下がった短い時間だけで、一日に一度あるかないかという程度である。その貴重な短い時間を家族との面会に充てたわけである。
 もっとも、その時間がいつ訪れるのか誰にもわからないから、それが深夜であっても、早朝であっても、すぐに氏康の枕頭に駆けつけられるように、家族もそばで待機する必要がある。
 そんな状態で、氏康は氏照に会った。
 葬儀と菩提寺について、氏政に語ったのと同じことを、氏照にも語った。すでに氏政から聞かされていたので、氏照は驚きはしなかった。
「さすが父上です。自分のことより、領民を案じておられる。見習わなければ、と思います」
「葬儀はできるだけ質素にせよ。質素であればあるだけ、それが親孝行だと思え。遺体はすぐに荼毘に付し、遺骨は早雲寺に納めればよい。おじいさまや父上の隣に小さな墓を作れ。間違っても、二人より大きな墓を作ってはならぬぞ」
「承知しました」
 氏政と氏照が顔を見合わせ、大きくうなずく。
「わしの位牌は古河(こが)に置け」
「え」
 二人の口からほとんど同時に驚きの声が洩れる。
「なぜ、古河に......」
「公方さまを見守りたいのだ」
「公方さまを......」
 古河には第五代の古河公方(くぼう)・足利義氏がいる。甥に当たる義氏を、氏康は敬愛しているのだ。義氏の元には氏康の娘が嫁いでいる。
「古河は小田原から遠すぎます。法事を営むのも難しく、そもそも、父上の位牌を収めるのにふさわしい寺もありませぬが」
 氏照が困惑顔で言う。
「寺など、どこでも構わぬ。おまえに命じておくぞ。最後の親孝行だと思って頼まれてくれるな?」
 氏康が氏照を見つめる。
「は、はい」
 氏照は、古河の近くにある栗橋城を本拠としており、古河公方家の後ろ盾となっている。古河に位牌を収めるのであれば、氏政ではなく、氏照に宰領させるのがよかろうと氏康は判断したのだ。
 病室を出ると、
「父上は、あのようにおっしゃいましたが、素直に従ってよいものでしょうか?」
 氏照が氏政に訊く。
「早雲寺に墓を作るのは構うまい。先々代の墓も、先代の墓もあるのだからな。しかし、位牌を古河に収めるのは......」
 ふさわしい寺はあるか、と氏政が訊く。
「先程、父上に申し上げた通り、そんな寺はございませぬ」
「ならば、新たに寺を建立する支度を始めよ」
 内々にだぞ、と念押しする。
「しかし、父上は菩提寺などいらぬとおっしゃいましたが」
「菩提寺ではない。父上の位牌を置くための寺だ。早雲寺のように立派な寺である必要はないが、あまり見苦しくても困る」
「なるほど」
 後の話になるが、このときの氏政と氏照の会話がきっかけとなり、氏康の死後、古河に大聖院(だいしょういん)が建立されることになる。新たな寺を造ってはならぬ、という氏康の言いつけに背いた格好になるが、それほど大きな寺ではなく、北条氏の菩提寺という位置付けではなく、あくまでも氏康の位牌を安置するための寺であった。
 氏照は小田原に駆けつけるとき、足利義氏の妻となっている妹を同行していた。後に浄光院と呼ばれる女性である。家族の間では「桃」と呼ばれている。
 桃は氏康が四十を過ぎてから生まれた娘で、他の兄姉たちとは年齢も離れており、そのせいか、氏康は、桃を特に可愛がっていた。
 子供というのは愛されれば懐くものである。桃も父親が好きでたまらないという娘だった。
 桃が足利義氏に嫁ぐとき、氏康に別れの挨拶をしたが、頭を下げたきり涙が止まらなくなって言葉が出なくなった。
 氏康は桃の肩に手を載せ、静かに涙を流した。
 双方、言葉を発することのできない別れであった。
 そばにいた者たちは、誰もがつられて袖を涙で濡らしたと伝えられている。
 なぜ、桃と呼ばれていたかと言えば、幼い頃から、果物の桃が大好物だったからである。
 桃というのは皮をきれいにむくのが難しい。たまたま、きれいにむけることもあるが、大抵は失敗する。皮だけでなく、実も削いでしまい、せっかくむいても、ごつごつして見栄えが悪くなりがちである。
 氏康も、せがまれて何度かむいてやったことがあるが、その都度、しくじった。
 たとえ不格好な桃でも、おいしそうな顔をして食べてくれたが、氏康としては、それでは納得できなかった。何とかして、きれいにむいた桃を食べさせてやりたいと考えた。
 ある日を境に、きれいにむくことができるようになった。ごつごつしたところなど微塵もない、すべすべしたきれいな実を差し出すことができるようになった。娘は大いに喜び、それ以来、桃が食べたくなると、氏康の元に駆けつけるようになった。その頃から、他の兄姉たちから「桃」とあだ名されるようになった。
 氏康が、突如として桃をむく名人になったのは偶然ではない。手間暇かけて調べた。桃を栽培している農家に家臣を遣わし、どうすれば、きれいに桃の皮をむくことができるか質問させた。
 ある古老が、こう教えてくれた。
「あまり熟していない桃を熱湯につけ、ゆっくり五つ数える。数え終わったら取り出して、冷水につける。それから皮をむけばいい」
 と。
 肝心なのは五つ数えることで、それより長いと皮が溶けてしまうし、短いと皮がむきにくいのだ、と付け加えた。
 早速、氏康は、そのやり方を試してみた。信じられないことに、皮がぺろりときれいにむけた。
「おおっ」
 と喜びの声を発し、皮のない桃を両手に載せて、ほれぼれと眺めた。
 歴史上、娘を喜ばせるために桃のむき方を練習した大名は氏康くらいであろう。
 その桃が、足利義氏の正室の桃が、氏照と氏政が下がった後、見舞いに来た。
 二人との話し合いでかなり疲れを感じていたが、氏康は桃を病室に入れた。命の灯火はかぼそくなっており、いつ消えてもおかしくないと自分でもわかっている。たとえ、わずかの時間であっても、一目だけでも会いたいと考えた。
 病室に入るなり、
「お父さま」
 と、桃は布団の傍らに泣き崩れた。
 事前に氏照から、
「ひどい変わり様だから驚いてはならぬぞ」
 と釘を刺されていたが、想像を上回るほどの氏康の衰えが衝撃だったのだ。
「泣くことはございませぬ。人間、誰しも年を取って、重い病になれば、こういう姿になるものですよ。それより、こんな格好で会うことをお許し下さいませ。もう自分の力では起き上がることすらできぬのです」
 横になったまま、氏康は詫びる。
 実の親子であっても、身分に大きな違いがある。
 桃は古河公方の正室である。
 氏康は古河公方に仕える立場だから、本来であれば、桃を上座に据え、氏康は下座に畏まって正座しなければならない。
 しかし、それは無理である。
 だから、詫びた。
「そんなことをおっしゃらないで下さいませ。堅苦しい儀礼の場ではありませぬ。浮世の身分などにこだわらず、ここでは父と娘としてお話しできればと存じます」
「ありがたいお言葉です」
「古河から小田原にやって来る道々、いろいろ思案しておりましたが、こうして父上のお顔を拝して、わたしの心は決まりました」
「何のことでしょうか?」
「もう古河には戻りませぬ」
「え」
「ここに残って、父上の看病をさせていただきます。父上に何かあれば、髪を下ろし、尼になって父上の菩提を弔いたいと思います」
「......」
 氏康は瞬きもせず、表情を凍りつかせて、じっと天井を見上げている。
 と、いきなり、氏康の目に涙が溢れる。
 その涙が頬を伝い落ちる。
「父上......」
 戸惑った表情で、桃が氏康を見つめる。
「何か気に障りましたか?」
「そうではありませぬ。嬉しいのです。人の子の親として、わが子にそんな言葉をかけてもらえるとは、何という果報者であることか......」
「では、お許し下さいますか?」
「いいえ、なりませぬ」
「なぜですか? 嬉しいとおっしゃったのに」
「あなたはわたしの娘だが、今は古河公方の御台さまですぞ。そのようなわがままが通るはずはないし、わたしも許しませぬ」
「父上のそばにいたいだけですのに」
 桃が涙ぐむ。
「そのお気持ちだけで十分すぎるほどにありがたいと思います。わたしは、よい息子たちを持ち、よい娘たちを持ちました。もう思い残すことはありませぬ......」
 満足げに大きく息を吐くと、氏康は目を瞑る。
 やがて、静かな寝息が口から洩れる。疲れてしまったらしい。
 桃は、病床の傍らに坐ったまま、しばらく氏康の寝顔を見つめるが、やがて、小さな溜息をついて静かに立ち上がる。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー