北条氏康 巨星墜落篇第三十八回

二十一

「なあ、春渓(しゅんけい)」
 寝転がって肘枕をしながら、太郎丸が小次郎に声をかける。
 小次郎は背中を丸めて文机に向かい、熱心に読書している。よほど集中しているのか、太郎丸の声が耳に入らないようだ。もう一度声をかけるが、やはり、無反応である。
 太郎丸は体を起こすと、
「おい」
 小次郎ににじり寄って、ぽんぽんと肩を叩く。
 小次郎がハッとしたように背筋を伸ばす。
「呼びましたか?」
「さっきから何度も呼んでいるよ」
「すみません。気が付きませんでした」
「こんな近くから呼んでいるのに気が付かないなんて、魂が体から抜けて、どこかに飛んでいってしまっているのではないのか」
「まさか」
 小次郎が、ふふふっ、と笑う。
「何かご用でしたか?」
 二人は同い年の十六歳だが、物腰が柔らかく、誰にでも丁寧に接する小次郎は、親友の太郎丸にも敬語を使う。同い年といっても、太郎丸の方が一年近く先に生まれているから、実際には、ひとつ年上のようなものだ。それを踏まえているのかもしれない。
「畑仕事と講義が終わって、ようやく一息ついたところだぜ。みんな、昼寝したり、囲碁を打ったり、のんびりしている。なぜ、おまえは、そんなに書物ばかり読むんだ?」
「面白いからです」
 小次郎が不思議そうな顔で太郎丸を見る。
「おれだって軍配者になろうとしているくらいだから、『平家物語』や『太平記』は大好きだ。『三国志』もすごく面白い。兵書は軍記物ほど面白くないけど、それでも嫌ではない。『論語』や『孟子』なんかより、ずっとましだ。おまえが軍記物や兵書に夢中になるのなら、おれだって、わからないことはない。だけど、おまえが読んでいるのは、何だ? 戦と関わりのない仏典じゃないか」
「はい。そうです」
「ここでは黒染めの衣を着て、頭も丸めるし、俗名ではなく、法号を名乗ることになっている。おまえは春渓、おれは鷗陵(おうりょう)だ。そういう決まりだから従っているだけで、僧侶になるわけではないし、僧侶になりたいわけでもない。軍配者になるための方便さ。おまえのように仏典を楽しそうに読んでいる奴なんか、他に一人もいない」
「大袈裟なことを言わないで下さい。そんな大したものを読んでいるわけではありませんよ。誰でも知っているような、ごく当たり前のものを読んでいるだけです」
 小次郎が笑いながら、『般若経』『維摩(ゆいま)経』『涅槃経』『華厳経』を読み終えたので、今は『浄土三部経』を読んでいるのだ、と説明する。
「......」
 太郎丸がぽかんとする。
「どうかしましたか?」
「どれも読んだことがない。おれは、南無阿弥陀仏しか知らぬ」
「ああ、『阿弥陀経』も読みました。とてもためになりますよ。学ぶことの多い仏典です」
「よくわからないが、仏典にも戦の話が出てくるのか?」
「戦ですか? それは書いてありません」
「何が書いてあるのだ?」
「そうですね......」
 小次郎が難しい顔で思案する。
 しばらくして、
「いかに生きるか、ということでしょうか。それは、いかに死ぬかということでもありますし、生きることと死ぬことを真剣に考えることでもあります。死ぬときに御仏に救われて極楽往生できる道が説かれていると考えることもできますね。つまり、この世に生まれ、この世で生きて、この世で死んで、次の世にはどうなるのか」
「よくわからぬ。そんなことの何が面白いのだ? おれたちは、今、生きている。いつかは死ぬだろう。病気で死ぬか、戦で死ぬか、それはわからないし、病気でも戦でも死ななくても、年を取れば死ぬ。それだけのことじゃないか」
「軍配者とは何だと思いますか?」
「ん? そんなこと、わかりきっているじゃないか。戦で勝てるように、主のために尽くす者のことだろう」
「その通りです。軍配者は、いかにして敵を打ち負かすか、いかにして戦に勝つか、ということに知恵を絞ります。では、戦に勝つとは、どういうことですか?」
「わけのわからないことばかり言うなよ。戦に勝つというのは、敵を打ち負かすということさ。降参すれば許してやるし、降参しなければ皆殺しにする」
「戦に勝てば、多くの敵が死ぬことになります、もちろん、戦に負ければ、もっと多くの味方が死ぬでしょう。つまり、戦をすれば、敵も味方も死ぬのです。それだけではない。戦に巻き込まれて、多くの民も死にます」
「おまえが仏典を読み耽ることと、何の関わりがあるんだ?」
「わたしたちは、優れた軍配者になりたいと願っていますが、そうなれば、多くの兵や民を死なせることになるのではないか、と思うのです。それに気が付いてから、人が死ぬというのは、どういうことだろうと考えるようになりました。人が死ぬことを考え始めると、人が生きるとはどういうことだろうと考えるようになりました」
「そんなことを考えて、どうなるのだ?」
「生きることと死ぬことの意味を考え、死んだ後のことを考えれば、軍配者になる意味がわかるような気がしたのです」
「わかったのか?」
「わかりません。だから、今も仏典を読み続けています。面白いから、というのも理由ですが」
「おかしな奴だなあ。軍配者になる意味を知りたいのなら、兵書を読めばいいのに」
「兵書には、いかにして戦に勝つか、その手段や心構えしか書いてませんよ」
「それがわかれば十分だと思うけどな」
「そうかもしれません。ただ、何かが気になると、どうにもならない性質なので」
「ふんっ、そんなことばかり考えていると、本当に僧侶になってしまうぞ」
「それでも構わないのではないか、と思っています」
「何だって?」
 太郎丸が驚いて目を丸くする。
「生きることと死ぬことを考えていると言いましたが、それは自分がどう生きるか、どう死ぬか、ということを考えていることでもあります。仏典を読みながら、時々、自分はどういう道を生きるべきか悩むことがあります」
「自分の勝手にはできまい。ここでの修行が終わったら、おれは甲斐に、おまえは相模に戻り、それぞれ武田と北条に仕えることになっているのだからな」
「それはわかっていますが、主家に仕える道は、戦だけではないでしょう」
「ここを出て、どこかの寺に行きたいのか?」
「まだ、そこまでは考えていません」
 小次郎が首を振る。
「変な奴だなあ」
 太郎丸が呆れる。
 二人が話し込んでいるところに、下男がやって来て、養玉(ようぎょく)先生が呼んでいる、すぐに部屋に行くように、と伝えた。冬之助(ふゆのすけ)からの呼び出しである。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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