北条氏康 巨星墜落篇第四十六回
二十八
元亀三年(一五七二)十月三日、武田信玄が甲府から出陣した。上洛戦の開始である。
その数日前に山県昌景の率いる別働隊五千が出発しており、信玄は二万二千の本隊を率いた。これには北条氏の援軍二千も含まれている。総勢二万七千の大軍が都を目指すわけである。
信玄は、信濃の上伊那郡から南に進み、青崩(あおくずれ)峠を越えて遠江に進出した。
十一月十九日、徳川方の重要拠点・二俣城への攻撃を開始した。出陣してから、二俣城に到達するまでひと月以上も時間がかかったのは、目の前の敵を掃討しつつ、同時に外交戦を展開していたからで、そのやり取りに時間がかかったせいである。
遠江を支配する徳川家康との戦いに苦戦したわけではない。
実際に敵と干戈を交える以前に、調略や外交で敵の弱点をつき、戦場で相見(あいまみ)えたときには、すでに勝敗が決しているというのが信玄の理想とする戦い方である。
その典型的な例が駿河侵攻であり、武田軍を迎え撃つはずだった今川の大軍は、武田軍がやって来ると、戦うことなく退却した。今川軍の中核となる武将たちが信玄に内通していたのである。
そのおかげで、武田軍は戦わずして駿府を占領することに成功した。
この上洛戦でも同じことをしようとしているが、今度の敵は今川氏真とは比べものにならないほどの強敵・織田信長である。外交戦も大がかりになるから時間もかかる。
しかも、信長と戦う以前に、まず信長の忠実な同盟者である徳川家康を打ち破らなければならない。
徳川の家臣たちは家康を中心に強固にまとまっているから、調略は通用しない。
ただ、家康には酷だが、信玄の目は信長しか見ておらず、まともに家康を相手にする気持ちがない、というのが本心だ。
二俣城は武田軍の進軍の邪魔になるから攻撃したが、家康の本拠・浜松城は、それほど邪魔にはならない。家康が籠城して決戦を避けるようなら、そのまま西に進んでも構わぬというのが信玄の方針である。
武田軍の進み方が遅いのは、足利義昭、朝倉義景、浅井長政、本願寺顕如らによる信長包囲網が完成する時機を見計らって慎重に進軍していたからで、信玄にとっては計画通りなのである。
慌てる必要などなかった。
信長包囲網は真綿で首を締めるように信長を圧迫しており、すべてが計画通りに進めば、武田軍は信長と戦うことなく都に旗を立てることができるかもしれないのだ。
家康の家臣に調略は通用しないが、信長の家臣は、それほど頑固ではなく、実際、松永久秀は調略に応じて信長に叛旗を翻した。
四面楚歌に陥った信長は、信玄の宿敵・上杉謙信の働きに期待し、織田・徳川・上杉による三国同盟の締結に成功した。
謙信は、信玄の不在を衝いて信濃に攻めこむことを約束したが、これは実現しなかった。北条と同盟を結んだときも、武田攻めを約束しながら何もしなかったが、それと同じことが起こったわけである。
信長は氏政と同じように歯軋りしたであろう。
もっとも、今回は、謙信だけが悪いのではない。
信玄は、謙信の動きを予想して入念に根回ししていた。本願寺の指示を受けた加賀の一向一揆勢が越中の上杉方の城を次々に攻め落とし、越後に攻めこむ構えを見せたので、謙信は信濃遠征どころではなくなった。自分の領国が攻められそうなときに、他国に攻めこむ馬鹿はいない。自国の防衛が優先である。
一向一揆勢を立ち上がらせたのは本願寺の力だが、本願寺を使嗾(しそう)したのは信玄だから、信玄の外交力が謙信の動きを封じたと言えよう。
三国同盟は成立したものの、信玄の外交力によって、謙信は身動きが取れなくなり、越後から出ることができない。
となれば、信長と家康が協力して信玄と戦うことになるが、武田軍は信濃から遠江に入り、そこから三河、尾張を抜けて京都に向かおうとしている。
つまり、最初に武田軍と衝突するのは信長ではなく、家康である。
家康には独力で武田軍と戦うだけの力はない。
この時期の家康の動員力は八千程度だから、信長から二万くらいの援軍を送ってもらい、織田・徳川の連合軍を編成することで、初めて武田軍と互角に渡り合うことができる。
それ故、家康は武田軍が二俣城に迫っても、城を守るために出陣しようとはしなかった。援軍の到着を待っていたのである。
すぐに救援に駆けつけられる距離にいたにもかかわらず、家康は動くことができず、十一月晦日、二俣城は落ちた。結果として、二俣城を見殺しにしたわけである。
普通なら、すぐさま武田軍は浜松城に向かって進軍するはずだが、なぜか、信玄は落城後も二俣城周辺から動かなかった。
武田の諸将は、信玄とは違う進路を取って遠江の諸城を落としていた山県昌景を待っているのだろうと考えた。
しかし、山県昌景の五千が合流しても、尚も信玄は動かなかった。まさに、動かざること山の如し、である。
その理由を、信玄は家臣にも説明しなかったから、短気な山県昌景などは、
「なぜ、こんなところで、もたもたしているのでございますか。どうか、わたしに浜松城攻めの先鋒をお命じ下さいませ」
と、信玄に懇願した。
思慮深い馬場信春は、
「御屋形さまには、何かお考えがあるのだ。わしらは、お指図を待てばよい。差し出がましいことを言ってはならぬ」
と、昌景を戒めた。
「どんなお考えですかな?」
「わしにもわからぬ」
「織田と戦うには、まず徳川を倒さねばなりますまい。家康は浜松城に籠もって、二俣城を助けようともしなかった。織田の援軍が来るのを待っているのでしょう。援軍が来てから戦うのでは、われらも分が悪い。今のうちに徳川を叩くべきではありませぬか」
「そうかもしれぬが......」
信春も歯切れが悪い。
実は、信春自身、昌景と同じ考えなのである。
いや、この二人以外の重臣たちも、ほとんどが同意見で、重臣会議では、誰もが浜松城攻めを声高に主張する。その理由も同じで、織田の援軍が到着すれば、家康が有利になるというのである。
昌景以上に強硬なのが勝頼で、
「わたしに五千の兵を預けて下さいませぬか。その五千で浜松城を攻めまする。御屋形さまは、その間に三河から尾張へと進んで下さいませ」
どうかお許し下さいませ、と執拗に懇願する。
重臣たちの意見は、すぐに浜松城を攻めるべきだということで一致しているが、最終的に信玄が承知しないので、武田軍は動くことができない。
重臣会議の総意を信玄が受け入れないのは、かなり珍しいことなので、重臣たちも困惑する。
では、どうなさるのですか、と勝頼が問うても、
「まあ、待て。焦ることはない」
と、信玄は言うだけである。
信長包囲網が構築され、その圧力が信長を苦しめていることは重臣たちも承知しているから、
(また何か都の方で動きがあるのだろうか)
と推測するしかない。
たとえ重臣すべてが右と言おうと、信玄が左と言えば、重臣たちは素直に左を向く。それが今の武田氏である。それほどまでに信玄の威光は大きくなっているから、信玄が重臣会議の総意を受け入れないことに、山県昌景や勝頼が不満を持ったとしても、それで結束に乱れが生じることはない。
信玄は誰にも本心を明かそうとしない。
重臣会議の内容は、すぐに織田や徳川に洩れるとわかっているからだ。どこに敵方の間者がいるかわからないのである。
信玄の本心を知ったら、重臣たちは腰を抜かしたに違いない。
武田軍は、落城した二俣城の近くに十日ほど滞陣を続けたが、その十日間に、武将としての信玄の凄味が如実に表れている。
勝頼も山県昌景も馬場信春も、それ以外の重臣たちも、信玄の本心を知らない。それを知ることができるのは、後世に生きる者だけである。
信玄が動かなかったのは、信長の援軍が浜松城に到着するのを待っていたからなのである。
それを聞けば、重臣たちは、
「え」
と言うなり、言葉を失って黙り込んだに違いない。
それはおかしいでしょう、援軍が来て戦うのでは、こちらも苦戦してしまう。だからこそ、援軍が来ないうちに浜松城を攻めるべきではないか、と。
極めて常識的な発想だし、戦術としても間違っていない。
信玄は、まったく逆のことを考えている。
(籠城されては厄介だ)
ということである。
天然の要害とはいえ、わずか数百の兵しかいない二俣城を落とすのでさえ手こずった。数千の徳川軍が万全の態勢を整えて立て籠もっている浜松城を落とすのは容易ではない。半年かかっても落とすことができないかもしれない。それでは困るのだ。
武田軍の進軍は遅いが、それは家康との戦いに苦戦しているからではなく、すべて予定通りなのである。信玄の計画では、年明けの二月頃に入京するのが理想だが、浜松城に手こずっていたのでは、それが不可能になってしまう。
つまり、信玄には最初から浜松城を攻めるつもりはない。家康を城から引きずり出して、何としてでも野外決戦に持ち込む腹なのだ。
徳川軍だけであれば、家康が好きなように策を決めることができるが、信長の援軍が来れば、そうはいかない。信長の意向を斟酌し、援軍に気を遣って策を決めることになる。
信長が援軍を送るのは武田軍と戦うためであり、籠城のためではない。家康が籠城すると知っていれば、信長は援軍など送らないであろう。
すなわち、信長の援軍が到着した時点で、家康は籠城という選択肢を失うことになり、武田軍が浜松城に迫れば、否応なしに城から出撃せざるを得なくなる。
そこまで信玄は見越している。
もちろん、援軍が到着すれば、武田軍は苦戦を強いられるであろう。
八千の徳川軍が相手であれば、どうということはないが、それに一万とか二万の援軍が加われば、そう簡単に勝つことはできないとわかっている。
それでも、籠城されるよりはましだ、というのが信玄の決意なのである。
だからこそ、重臣会議では、自分の本心を明かさず、黙って重臣たちの話し合いに耳を傾ける。
しかし、浜松城攻めは承知しない。
重臣たちが論じているのは、いかにして家康を打ち負かすかという戦術であり、信玄が考えているのは、いかにして計画通りに上洛するかという戦略である。
そういう意味で、この時点で、信玄は、すでに天下人の発想をしていると言えよう。地方大名の発想しかできないのであれば、浜松城攻めを承知したはずである。
後世に生きる者が信玄の本心を察することができるのは、この後に何が起こったかを知っているからであり、それを知らなければ、武田の重臣たちと同じように信玄の不動を訝しく思ったに違いない。
少なくとも、この時点で、信玄の武力と智力は頂点に達しており、大袈裟に言えば、日本の歴史上、最強の武将であったかもしれない。
それを知っている人間が、同時代に一人だけ存在する。織田信長である。
信長は天下人だから、
(わしに代わって、信玄は天下人になるつもりでいる)
と理解できる。
領土を広げるために西進しているのではない。京都に進撃して自分を打倒し、自分が占めている座を奪うつもりなのだ、と察することができる。
もちろん、それを許すつもりはないが、信長は信玄の底知れぬ強さを知っており、戦っても勝つことはできないと見切っている。
家康は信玄に負けるだろうし、それは援軍を送っても同じである。焼け石に水なのだ。
勝機があるとすれば、信長自身が大軍を率いて駆けつけることだが、姉川で浅井・朝倉の連合軍と戦ったときも、最終的には勝利を得たものの、途中までは、どう転ぶかわからなかった。
武田は、浅井、朝倉などとは比べものにならぬほど強い。信長が出陣しても勝てないであろう。
だから、信玄とまともに戦うつもりはない。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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