北条氏康 巨星墜落篇第一回
第一部 国府台(こうのだい)の戦い
一
今や北条氏は関東の最強国となった。その強さは際立っており、着々と領土を広げている。
初代・早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)が北条氏の礎を築き、二代目・氏綱がその礎を強固なものにした。三代目の氏康が北条氏による関東支配を完成させようとしている。
宗瑞と氏綱は政治と軍事の両面において優れた手腕を発揮した。幾多の合戦を勝ち抜き、敗北を味わったこともないではないが、それが致命傷にはならなかった。敗北が肥やしとなり、更に戦上手になった。この親子は、その晩年に至って、あたかも戦の真理を悟ったかのようで、どう転んでも戦に負けることがなくなった。
そんな天才肌の祖父と父の後を継いだ氏康こそ哀れであった。氏康が何をしても、世間は、宗瑞や氏綱と比較する。
氏康は決して凡庸ではない。非凡である。
だが、非凡なだけでは天才に歯が立たない。
これまでの人生で、氏康は二度も滅亡の瀬戸際に追い詰められている。
最初は、山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏、古河公方(こがくぼう)の連合軍が河越城に押し寄せたときで、八万という空前の大軍が河越城を包囲した。
氏康は敗北を覚悟したものの、乾坤一擲、敵軍を夜襲することで九死に一生を得た。
二度目は、長尾景虎による小田原包囲で、徹底した籠城策で景虎の軍勢が去るのを待った。
まさに未曾有の危機で、それほどの危機を二度までも乗り越えたのだから、当然、氏康は賞賛されるべきだったが、そうはならなかった。
世間は辛辣である。宗瑞や氏綱に比べて、氏康の器量が見劣りするから、そんな目に遭うのだ、と笑った。
氏康とすれば泣きたい気持ちであったろう。
時代が違うのだ。
宗瑞の頃には一万を超える軍勢が戦うような合戦はほとんどなかった。宗瑞が駿河の興国寺(こうこくじ)城から伊豆に攻め込んだときに率いていた手勢は二百人ほどで、今川の援軍を加えても五百人足らずだったという。その程度の人数で国を奪おうとしたのだ。
氏綱の頃には、合戦もかなり大がかりになっているが、それでも氏綱自身、一万以上の軍勢を指揮して合戦に臨んだことは数えるほどしかない。二万を超える軍勢を指揮したことはないし、それほどの敵に攻められたこともない。
氏康は、そうではない。
河越城を八万の敵に囲まれ、小田原城は十万の敵に攻められた。
氏康も同じくらいの兵を動かすことができれば話は違ってくるが、河越の夜襲を敢行したとき、氏康の手許には数千の兵しかいなかった。それで八万の敵を敗走させたのだから、本来、氏康の手腕はもっと高く評価されていいはずであった。
赫々(かっかく)たる実績を積み上げているにもかかわらず、なぜ、氏康は、これほど評価が低く、世間の印象も地味なのか?
ひとつには、同時代に生きた武将たちが華やかすぎるせいであったろう。
今川義元、武田信玄、上杉謙信、徳川家康、織田信長......日本史に名前が残る名将たちである。
特筆されるべきは、これほどの名将たちと鎬(しのぎ)を削りながら、氏康が領土を広げていったことで、その才能は非凡というだけでは足りない。
もうひとつは、氏康のやり方のせいかもしれない。
氏康というより北条氏そのものの特徴でもある。
宗瑞の頃から北条氏は諜報活動が盛んな国として知られている。周辺国に忍びを送り込み、敵情を入念に把握し、何か弱味を見付けると、いかにしてその弱味を衝くかを考える。敵方が一枚岩でないとわかれば、いかにして不協和音を大きくするかを考える。不満を抱えている敵将を調略し、北条軍が攻めたときに裏切らせる。
そういう寝技を駆使するのが北条氏の伝統的なやり方で、実際に敵軍と干戈を交える以前に、敵の内部を腐らせてしまうのである。宗瑞の頃から、合戦に勝利して奪った城の数より、調略で奪った数の方が多いと言われる所以である。
合戦に比べると、調略は陰湿で暗い。華やかさとは無縁の地味なやり方だ。
世間の者たちが氏康に感じる印象というのは、実は北条氏そのものに抱いている印象なのかもしれなかった。
北条氏の諜報活動を担っているのは風間(かざま)党である。
西相模の風間村で小作人をしていた五平という若者が、戦火を逃れて伊豆に越境し、宗瑞に出会った。
それが五平の運命を変えた。七十年ほど昔のことだ。
五平は風間村に戻り、宗瑞さまに尽くすことでよい暮らしをしようではないか、と親兄弟、親類縁者をかき口説き、ついに総勢三十人ほどで伊豆に集団移住することに成功した。
これが風間党の始まりである。
初代の棟梁は五平、二代目が五平の弟・六蔵、三代目が六蔵の嫡男・慎吾、四代目、すなわち現在の当主は慎吾の嫡男・小源太である。
その小源太が氏康と氏政の前に控えている。
壁際に風摩(ふうま)新之助康光が同席している。
小源太と康光は親戚だが、父親の代に、風間と風摩は別の系統に枝分かれした。
風間家は北条氏の諜報活動を一手に担い、配下に数多くの忍びを抱えている。
風摩家の方は、康光の父・小太郎が氏康の軍配者として活躍し、康光は軍配者にはならなかったものの、氏政の側近として重用されている。風間と風摩は同じ根から生まれ育ったが、今では違う花を咲かせているわけである。
康光と小源太の間に同族の狎れは存在しない。個人的にも親しくないし、家同士にも繋がりはなくなっている。
色黒で平凡な顔立ちの小源太は、何も知らない者が見れば、どこにでもいる平凡な農民だと思われそうだ。風間党の棟梁といえば、北条氏の重臣の一人で、禄高も大きいが、地味で粗末なものしか身につけず、城中にいてもまったく目立たない。暮らしぶりも質素だ。あたかも人目に立つことを怖れているかのように静かに地味に控え目に生きている。
今も小源太は自分からは何も言葉を発しようとせず、姿勢を正したまま、軽くうつむいて氏康や氏政から言葉をかけられるのを待っている。
「急いで知らせたいことがあるそうだな?」
氏政が口を開く。
「は」
小源太が平伏する。
「申すがよい」
「岩付のことでございます」
「うむ、岩付か」
氏康と氏政がちらりと視線を交わす。
今年、すなわち、永禄六年(一五六三)二月、氏康は武田信玄の助けを借りて松山城の攻略に成功した。永禄四年の十月から、一年半近くの長きにわたって攻防を繰り返し、ついに長尾方から奪い返したのだ。
軍事的にも政治的にも、松山城を奪還した意味は大きい。
ひとつは、武蔵から上野に侵攻する足がかりを得たことである。
もうひとつは、武蔵における長尾方のふたつの拠点、すなわち、松山城と岩付城という両翼の一方を崩したことである。
岩付城は武蔵における孤島となった。
松山城が落ちた後、腹を立てた長尾景虎は岩付城に入り、氏康や信玄との決戦に備えた。松山城に続いて岩付城まで失うことになれば、武蔵を完全に失うことになる。岩付城の主・太田資正(すけまさ)は傑物だが、独力で氏康や信玄に対抗できるだけの器量も兵力もない。それがわかっているから、景虎は自分の手で決着を付けようとした。
だが、氏康と信玄は挑発に乗らず、景虎を相手にしなかった。無視したのである。景虎が越後に帰ったら、ゆっくり資正を料理してやろうという目論見だった。
手をこまねいて、景虎の帰国を待ったわけではない。帰国せざるを得ないように、様々な味付けをした。
信玄が北信濃に兵を入れ、今にも越後に攻め込むぞという構えを見せた。
越後の精兵たちは景虎が関東に連れて行ってしまったから、越後に残っているのは留守役の老兵や少年兵ばかりである。武田軍が攻め込んできたら、とても太刀打ちできない。春日山城からは、すぐに帰国してほしい、と懇願する使者が矢継ぎ早に景虎のもとに発せられた。
松山城攻めで協力してからというもの、氏康と信玄の呼吸はぴたりと合うようになり、二人が手を組んで景虎を翻弄するさまは、名人芸でも見ているかのようである。
氏康も信玄も景虎自身とは決して戦おうとせず、それでいながら、景虎の支配地を奪い、城を落とし、どんどん景虎を追い込んでいく。
景虎は呆然とし、わけがわからなかったであろう。自分の前に姿を見せない氏康と信玄に好き放題に鼻面を引きずり回され、戦ったわけでもないのに負けたのと同じ目に遭っている。
氏康と信玄の思惑通り、四月初め、ついに景虎は帰国を決断した。後ろ髪を引かれる思いであったろう。なぜなら、自分が去れば、待ってましたとばかりに氏康が岩付を攻めるであろうし、そうなれば、資正には防ぎようがないとわかっているからだ。
「機は熟したように思われます......」
小源太が淡々と説明をする。
松山城攻防戦が始まった頃から、風間党は岩付城に対する調略を開始している。
最初のうちは、これといった手応えがなかったが、去年の初め、氏康が岩付に進軍し、その後、葛西城を攻め落としてから明らかに風向きが変わってきたという。北条氏に内応したいという者が少しずつ現れ、今年になってからは、あたかも堰を切ったかのように、我も我もと内応の申し出が増え、普通は風間党の方から勧誘するのに、逆に相手の方から売り込んでくるという。
調略の難しいところは、それが本心なのかどうかの見極めである。裏切る振りをして、北条氏の動きを探ろうとする輩(やから)もいるからだ。それ故、調略の誘いに乗った者や、自分から売り込んできた者には裏切りの証を要求するのが常である。機密情報を要求するのだ。機密情報に触れることのできない者には調略するほどの価値はないし、機密情報を知りながら、それを渡すことを拒む者は信用できない。機密情報を渡すかどうか、それが踏み絵になるわけである。
岩付城の機密情報が、今では面白いように手に入る、と小源太は言う。資正を中心に定期的に開かれる重臣会議の内容が筒抜けなのである。
何食わぬ顔で重臣会議に出席している者たちが陰で裏切りを画策し、自分だけは生き残ろうともがいているわけであった。
「調略の手が届いていないのは、美濃守殿とご嫡男くらいではないか、と思われます」
裏を返せば、資正と嫡男・氏資(うじすけ)以外の者たちには調略の手が伸びて、それが成功しつつある、ということなのであろう。
「ひどいな。まさに泥船ではないか。誰も彼もが岩付の船から逃げ出そうとしているかのようだな」
氏政が呆れたように首を振る。
「御屋形さまが岩付に兵を進めれば、美濃守殿のために戦う者がどれだけいるものか......」
こんなことは初めてでございます、と小源太が言う。
「父上、小源太の言うように機は熟したのではないでしょうか?」
氏政が氏康に顔を向ける。
「そうだな」
氏康がうなずく。
氏政に家督を譲り、隠居の身となって、すでに三年以上になるが、実質的には今でも氏康が北条氏の舵取りをしている。何事も氏政と相談して進めるようにしているものの、最終的な決断は氏康が下す。
家督を譲るまで、氏康は折に触れて氏政の凡庸すぎる愚かさを嘆き、側近の風摩小太郎に愚痴をこぼしたものだが、今では氏政に対する見方も大きく変わっている。
北条氏は初代の宗瑞から、氏綱、氏康と非凡な当主が続いた。その三人に比べると、氏政は明らかに見劣りがする。それは間違いない。
ひとつだけ氏康が感心するのは、
(己が愚かだとわかっている)
ということである。
氏政は自分が才に乏しく、軍事、外交、内政のすべての面において氏康の足許にも及ばないと自覚している。
だからこそ、どんな場合にも氏康に意見を求め、氏康の考えに真摯に耳を傾け、氏康の決断を尊重する姿勢を崩さない。
それだけでなく、康光を始めとする側近や譜代の重臣たちの意見もよく聞く。決して独断で事を進めようとはしないのである。
結果として、氏政が何かを決めるとき、その決断には彼らの意見が色濃く反映されているから、誰からも苦情が出ない。
他人の意見を素直に受け入れ、多様な意見をうまく調整していく......氏政には思いがけない長所があり、その長所を発見したことに氏康は安堵し、喜んだ。そういう謙虚な姿勢を保ち続ければ、いずれ自分がいなくなっても、安心して北条氏の舵取りを委ねることができると思うのである。
「岩付の重臣どもがこぞって内応を申し出ているとなれば、岩付では戦にならぬかもしれませぬな。われらが兵を進めれば、美濃守の首を差し出して降伏するかもしれませぬ」
氏政が笑う。
「油断してはならぬ」
氏康が戒める。
だが、たまたま、氏康も氏政と同じことを考えていた。氏康と氏政が出陣し、岩付を攻める構えを見せれば、呆気なく岩付城は落ちるかもしれない、という気がした。
「支度が調(ととの)い次第、出陣しようぞ」
氏康が言うと、周りの者たちが頭(こうべ)を垂れる。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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- 第十九回2025.04.23