北条氏康 巨星墜落篇第二十五回


 年が明けて、正月半ば過ぎ、七年前に川中島で戦死した山本勘助の妻・千草と長男の太郎丸が躑躅ヶ崎館にやって来た。
 太郎丸は十四歳で、もう口の周りにうっすらと青髯が生えており、千草より、頭ひとつ分くらい背が高い。
「母上、そんなに溜息ばかりつくことはありますまい。顔色も悪うございますぞ。しっかりなさいませ」
 足取りの重い千草を励ますように言う。
「だって、おまえ、御屋形さまの前に出るなんて......。わたしは行かなくてもよいのではないかねえ」
「御屋形さまが二人で来るようにとおっしゃったのです。躑躅ヶ崎館にゆっくり腰を落ち着ける暇もないほど忙しい御屋形さまが招いて下さったのです。ありがたいと思わねば」
「そうかもしれないけれど......」
 また千草が深い溜息をつく。
 かねてから、足利学校に留学させてほしいという願いを上申していたが、去年の秋、ようやく、その願いが聞き届けられた。足利学校と武田氏の間でやり取りがなされ、太郎丸の受け入れ準備が調ったので、いよいよ、今月末に旅立つことになっている。
 旅の準備に追われ、今まで以上に学問に励んでいるところに、思いがけず、信玄から呼び出しがあった。太郎丸と千草の二人で躑躅ヶ崎館に来るようにというのだ。それが昨日のことである。
「あまりにも急だから......」
 千草は人前に出るのが苦手で、滅多に外出すらせず、近所付き合いもしないほどだ。躑躅ヶ崎館で、信玄に謁見するなどという晴れがましい席に出ることに腰が引けるのは無理もない。
「無理して時間を作って下さったのでしょう。だから、突然なのです」
 さあ、御屋形さまをお待たせしては申し訳ない、急ぎましょう、と千草に手を貸して、太郎丸が先を急がせる。
 門前で名乗ると、すぐに館内に通され、控えの間で待たされる。
「ここは冷えますね。寒いでしょう。炭を頼みましょうか」
 火鉢が置いてあるが、炭が入っていないので、控えの間はかなり寒い。
 太郎丸が腰を上げようとすると、
「いいのよ。わたしは平気だから」
「風邪を引いてしまいます」
「本当にいいから」
「しかし......」
 二人が押し問答しているところに、すっと板戸が引かれ、涼しげな顔立ちの若い侍が顔を出す。
「御屋形さまがお待ちでござる。ご案内いたします。こちらに」
「......」
 太郎丸と千草が顔を見合わせる。
 一刻くらいは待たされるだろうと覚悟していたのである。まさか、こんなにすぐ呼ばれるとは二人とも思っていなかった。
 若侍に先導されて長い廊下を渡っていく。
「こちらへ」
 座敷に招じ入れられる。
 上座に信玄が、その傍らに勝頼が坐っている。
 他には、隅に小姓が控えているだけだ。
「おう、よく来たのう。そこに」
 信玄の正面に円座がふたつ並べてある。
 太郎丸と千草が腰を下ろす。
 千草は坐るなり、平伏する。
「よいよい、堅苦しいことは抜きだ。足利学校に行く前に太郎丸の顔を見たいと思うてのう」
 顔を上げてよい、と信玄が千草に言う。
「......」
 千草が顔を上げるが、目は伏せたままだ。畏れ多くて、とても信玄の顔をまともに見ることができないのであろう。
「学問は、かなり進んでいると聞いておるぞ。できれば、わしも自分で確かめてみたいが、なかなか時間が取れぬ。書庫には、よく来ているそうだな」
「はい。御屋形さまのおかげで、いくらでも書物を読むことができます」
 背筋を伸ばして、太郎丸が答える。
「兵書だけでなく、古今の書物を幅広く読むことが大切だぞ。体はひとつしかなく、時間も限られているから、どこにでも行けるわけではないし、誰にでも会えるわけでもない。だが、書物を読めば、遠い大陸のこともわかるし、遙か昔に生きていた者たちのこともわかる」
「心に刻んでおきまする」
「父のことを覚えているか?」
「はい」
「どんなことを覚えている?」
「いつも優しくしてくれて、一緒に遊びました。字も教えてくれました。最後は......」
「最後?」
「あの戦に出るとき、戦では死なぬ、と父は約束し、留守の間、母と弟を頼むぞ、と言いました。だから、父が屋敷にいないときは、母と弟を守るとわたしは約束しました」
 父の約束は守られませんでしたが、と太郎丸が小さな声で言う。
「わしも会ったぞ」
 それまで黙っていた勝頼が口を開く。
「勘助は、出陣の前、わしと母を訪ねてくれた。わしは、まだ元服していなかったから、戦から戻ったら、元服に立ち合って、初陣に付き添うと約束してくれた。わしの初陣が勘助の最後の戦になるだろうと話していた。その約束を果たしてもらいたかったが、残念ながら叶わなかった」
「申し訳ございませぬ。父に代わって、お詫びいたします」
「勘助の本当の名前を知っておるか?」
 信玄が訊く。
「え、本当の名前ですか?」
 太郎丸がちらりと横の千草の顔を見る。
「......」
 千草は強張った表情で黙り込んでいる。
「勘助は、元々は駿河生まれの農民でな。足利学校で学んで軍配者となり、諸国を放浪して、最後に甲斐にやって来て、武田に仕えることになった。四郎左というのが本当の名前だ」
「四郎左......」
「農民だったからといって、何も恥じることはない。門地や家柄に頼ることなく、己の才覚ひとつで、四郎左は武田を支える柱石となった。今のわしがあるのも四郎左のおかげだ。わしは心から四郎左に感謝している。だからこそ、諏訪から迎えた妻に息子が生まれたとき、四郎と名付けた」
 信玄が勝頼に顔を向ける。
「わしは諏訪四郎という名に誇りを持っている。今は武田四郎勝頼だ。四郎左のように父上を支えていきたいと思うが、まだまだ未熟で、力が足りぬ。だからこそ、おまえの力も借りたい。足利学校でしっかり学んで、よき軍配者になってくれ」
 勝頼が太郎丸を励ます。
「わしからも同じことを言おう。多くのことを学び、よき軍配者となって戻ってきてほしい。いずれ四郎が武田の主となる。そのときに、そばで支えてやってほしいのだ。四郎左がわしを支えてくれたようにな。期待しておるぞ」
「はい」
 大きな声で返事をする。
 太郎丸の胸には、信玄と勝頼に対する尊敬の念が満ち溢れた。こんな素晴らしい人たちに褒め称えられる、亡くなった父親を誇らしく思った。


 太郎丸と千草が座敷から出て行くと、
「勘助は......いや、四郎左は、いい妻と子に恵まれたな」
 信玄がつぶやく。
「父親のように優れた軍配者になってくれるとよいのですが......。どうなのでしょう?」
「わからぬ」
 信玄が首を振る。
「どれほど学問ができたとしても、優れた軍配者になることができるとは限らぬ。戦というのは生き物だから、その動きに応じて、柔軟に策を変えていかなければならぬのだ。太郎丸に四郎左のような才があるかどうか、戦に出してみないことにはわからぬ」
「そういうものですか」
「軍配者としての才に恵まれていないとしても、四郎左の子であれば、武田に忠義を尽くしてくれるであろうし、足利学校で何年も学べば、役に立つ家臣になるのは間違いない。おまえのために命懸けで尽くしてくれる家臣が一人でも増えるのは悪いことではない。これから先も太郎丸には目をかけてやるがよい」
「そうします」
 勝頼がうなずく。
「今までは四郎左の働きに報いるつもりで捨て扶持を与えてきたが、今後は太郎丸に家禄を与えることにしよう。そうすれば、家族の生活を心配することなく学問に打ち込むことができるだろうからな」
「そこまで太郎丸を買っておられるのですか」
 勝頼が驚く。
 太郎丸が足利学校に行くに当たって、旅費はもちろん、足利学校に収める学費や生活費など、すべて武田氏が負担することになっている。
 それだけでも、十分すぎる厚意だが、その上、家禄まで与えようというのだから、その気前のよさに勝頼が驚くのも無理はない。
「損だと思うか?」
「そうは思いませぬが......」
「種を蒔いておけば、いずれ豊かに実ると期待できる。四郎左という種が甲斐に根を下ろし、ここで花を咲かせてくれたおかげで、わしはどれほど助かったかわからぬ。生きているときに、もっと報いてやればよかったと悔やまれる。城のひとつくらい預ければよかった。それを思えば、太郎丸に家禄を与えるくらい、どうということはあるまい。太郎丸が一人前になれば、おまえのために城のひとつやふたつ、きっと落としてくれるであろうよ」
「そう願いたいものです」
「御屋形さま」
 敷居際で小姓が膝をついて、声をかける。
「皆さま、お揃いでございます」
「わかった。すぐに行く」
 信玄がうなずく。
 これから広間で重臣会議が行われるのだ。
「もうお考えは決まったのですか?」
 勝頼が訊く。
「そうだな。機は熟したと考えてよかろう。越後でも駿河でも風向きが変わりつつある」
「では、徳川には承知すると伝えるわけですね?」
「そのつもりだ」
 一昨日、徳川家康から使者がやって来た。
 駿河と遠江をどうするか、露骨に言えば、今川の領土をどのように分け合うか、いつ兵を動かすか、信玄の意向を問うためだ。
 使者は待たせてある。信玄が考えをまとめ、それを重臣会議に諮(はか)り、武田の方針として確定したら、その方針を使者に告げ、家康に伝えることになる。
 すでに、これまでに何度も信玄と家康の間を使者が往復し、領土分割に関する双方の立場を確認してある。
 武田と徳川の関係は、ここ何年かで密になっている。
 三年前の永禄八年の秋、嫡男・義信が信玄の暗殺を企むという事件が起こり、義信は幽閉され、義信に加担した重臣たちが処刑された。それから間もなく、織田信長の娘が勝頼に嫁いだ。
 この一連の流れには、駿河侵攻を目論む信玄が、今川との同盟遵守を主張する義信とその一派を一掃し、武田の方針を明確化したという意味がある。織田家との婚姻は、すなわち、信長との同盟締結ということであり、信長と一心同体である徳川家康とも同盟したようなものであった。
 事実上、武田・織田・徳川の三国同盟が成立したわけである。
 武田と徳川の間では、大井川を境界として、東の駿河を武田、西の遠江を徳川が奪うという合意ができつつある。
 あとは侵攻の時期を決めるだけである。
 家康がせっつき、信玄が先延ばしするというのが、これまでの流れである。
 家康は遠江に残る今川の拠点制圧に苦労しており、信玄が駿河に攻め込めば、今川は本国を守るために遠江の兵を駿河に引き揚げざるを得ないだろうという見通しを持っている。
 だから、侵攻を急がせたいのだ。
 しかし、信玄は家康の思惑など歯牙にもかけない。
 自分の都合で動くつもりである。駿河侵攻の妨げになる三つの障害がある限り、侵攻するつもりはないのだ。
 ここに来て、展望が開けつつある。
 ひとつは、寿桂尼の病である。
 信玄は駿河に多くの忍びを放っているが、彼らの報告によれば、寿桂尼は重い病を患い、恐らく、回復することはないだろうという。あとは、いつ黄泉に旅立つかというだけの問題である。
 三つのうち、ひとつは片付きそうなのだ。
 そこに、新たに信玄を喜ばせる報告が届いた。
 長尾景虎の重臣の一人・本庄繁長が謀反を決意したというのである。
 一昨年の暮れ、厩橋城の北条高広が叛き、今になっても、景虎は、その対応に苦慮している。
 そこに本庄繁長が謀反すれば、景虎は身動きが取れなくなり、他国に兵を出す余裕などなくなるはずであった。
 もちろん、本庄繁長の謀反は偶然に起こったことではない。信玄の使嗾(しそう)によるものである。
(これで、ふたつ片付いたな......)
 残るのは北条氏である。
 信玄が駿河に侵攻することを北条氏が黙認してくれれば、すぐにでも兵を動かしたいところだ。
 これに関しても、信玄は策を考えている。
 足利義秋を利用することであった。
 義秋は、三好三人衆に弑逆された足利幕府の十三代将軍・義輝の後継者であることを宣言し、越前の朝倉義景に庇護されている。やる気はあるものの、如何せん、自前の兵を持たないので、各地の有力大名に盛んに使者を送って、助力を要請している。
 義秋が最も期待したのは長尾景虎であり、景虎が上洛できるように氏康や信玄に景虎との和睦を強く促している。
 信玄とすれば、義秋がどうなろうと知ったことではないが、義秋の権威を利用して、北条氏の今川への援助を止めることはできないだろうかと思案している。そのための手も打っている。
 とは言え、それは駿河侵攻の絶対必要条件ではない。三つの障害のうち、ふたつが除かれれば、信玄は駿河に侵攻するつもりでいる。まさしく機が熟したのである。
「行くか」
 信玄が腰を上げる。
「はい」
 勝頼も従う。
「また忙しくなりそうだな」
「そう言いながら、楽しそうでございますぞ」
「かもしれぬ。楽しくないと言えば、嘘になるな」
 ふふふっ、と信玄が笑う。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

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