北条氏康 巨星墜落篇第四十一回

二十四

 深沢城には二千の兵がおり、彼らを綱成が束ねている。
 家臣たちは、綱成に用があるときは、綱成の居室ではなく物見台に行くことが多い。
 大抵、そこにいるからだ。
 若い頃から、戦になると、物見台に上がって、敵軍の様子を飽かずに眺めるのが綱成の癖である。それが楽しみでもある。遠眼鏡を使うこともある。
 敵陣をじっと見つめていると、いろいろなことがわかる。兵の動きが急に慌ただしくなったり、炊事の煙がいつもより多かったり少なかったりするだけで、敵将が何を企図しているか、手に取るようにわかる。居室に控えて、家臣たちの報告を聞くだけでは知りようのないことばかりだ。
 今日も朝から、綱成は難しい顔をして武田軍の陣地を眺めている。遠眼鏡は懐に入れたままだ。
 綱成の目は武田軍の陣地に向けられているが、その目は何も見ていない。物思いに耽っているから、何も目に入らない。だから、遠眼鏡は必要ない。
 物見台に上がって、戦以外のことを考えるのは、綱成としては珍しいことである。
 それならば物見台に上がらなくてもよさそうなものだが、ここに上がると誰にも邪魔されず、一人でいることができる。それ故、ゆっくり考え事をしたいときも物見台に上がる。
 今の綱成の頭を占めているのは氏康のことである。
 氏康の病が重いことは承知している。
 この数年の体調の悪さを思えば、いつ最期を迎えても不思議ではない。できれば、深沢城ではなく、小田原城にいて、氏康のそばで看病したいのが綱成の本心である。
 氏康と綱成の縁は深い。
 二人は同い年の五十七歳である。
 初めて出会ったのは、綱成が勝千代と名乗っていた九歳のときだから、かれこれ半世紀になろうかという長い付き合いだ。
 氏康の父・氏綱に見込まれ、氏康の学友として、共に学び、共に育った。
 氏綱は綱成に目をかけ、娘を綱成に与えたほどである。氏康とは義理の兄弟になった。
 綱成という名前は、氏綱から一字を賜り、それに実父・福島正成の一字を組み合わせたものだ。
 氏康が北条氏の当主となってからは、氏康のために骨身を惜しまず、必死に働いた。他の誰よりも氏康のために尽くしてきたという自負がある。
 綱成にとって、氏康は主であり、兄であり、友でもある。唯一無二の存在と言っていい。
 その氏康が死に瀕している。
 物見台からは深沢城を囲む二万の武田軍の布陣を見渡すことができる。
 綱成は十倍の敵を少しも怖れてはいない。
 綱成が怖れるのは、自分が深沢城に足止めされている間に氏康が薨じることである。それだけを怖れている。何としても生きている氏康に、また会いたいと願っている。
「殿」
「......」
「殿」
「ん?」
 ようやく小姓が声をかけていることに気が付く。
「何だ?」
「狼煙(のろし)でございます」
「狼煙?」
 綱成が目を細めて遠くを眺める。
 なるほど、遠くの方に狼煙が上がっているのが見える。懐から遠眼鏡を取り出して、目に当てる。これで狼煙の色合いまで、よく見える。
 氏政の軍勢が小田原を出立し、一里ほどの距離まで来ていることは承知している。偶発的な衝突は起こり得ないが、その気になれば、半刻(一時間)ほどで敵陣を襲うことができるという絶妙な間合いである。
 狼煙は武田陣営の背後から上がっている。距離は一里もない。半里くらいであろう。斥候兵が敵陣に近付いて、狼煙を上げているのに違いない。城との距離が近ければ近いほど、城側からは狼煙の意味を正確に読み取ることができるからだ。
(退け? 城を捨てろということか)
 狼煙で複雑な文章を表現することはできない。進め、退け、待て、守れ、朝、昼、夜......その程度の意味を伝えるだけである。
 今、綱成の目に見える狼煙は、明らかに退却を指示している。
(本当か?)
 すぐに信じられないのは当然だ。
 小田原からの援軍がようやく到着したのだから、武田軍の挟撃を企図するのが本当である。
 例えば、朝、進め、という狼煙が上がれば、翌朝、氏政の北条軍が武田軍を攻撃するから、城からも出撃しろ、という意味だとわかる。
 綱成自身、恐らく、そういう流れになるだろうと想像していた。
 にもかかわらず、なぜ、退け、なのか。
 綱成は腕組みし、首を捻ったまま考え込む。
 翌朝、また同じ狼煙が上がる。
 意味は同じである。退け、というのだ。
(御屋形さまは、この城を捨てると決めたらしい)
 そう判断した。
 氏政に戦う意思があるのなら、布陣してから、まったく動かないのはおかしい。何らかの動きがあるはずだし、狼煙以外の方法でも、氏政の考えを綱成に伝えようとするはずである。それがない。
(そういうことなら、急がねばならぬな)
 あまり悠長に構えている時間がないのである。
 武田軍は攻撃せず、城を包囲しているだけのように見えるが、実際は、そうではない。
 武田氏の強みは軍事だけではない。
 土木工事に関しても、この時代の最先端の技術を保持している。その技術を駆使して、甲斐や信濃でいくつもの金山を採掘し、河川工事なども行っている。特に黒川や中山の金堀衆は有名で、金を掘り出すだけでなく、戦地にも帯同し、地中から敵の城を攻めるという役割を担っている。
 この金堀衆の活用が、深沢城攻めにおける信玄の味付けであった。
 綱成のような猛将の守る城を力攻めしたのでは、武田軍の被害も大きくなると憂え、軍事以外のやり方で城を落とそうと考えたわけである。
 金堀衆が掘り進めた横穴は、すでに城の本丸近くにまで達している。
 それを綱成は知っている。
 普通であれば、それに対抗して城側からも穴を掘り、ふたつの穴がぶつかったところで、大量の水を流し込んだりする。横穴から城を攻めようとする武田兵を溺れさせるわけである。
 だが、綱成は、それをしていない。
(無駄だ)
 と見切っている。
 横穴をひとつやふたつ防いだところで戦況が好転するわけではない。
 城を包囲する武田軍は二万、城に籠もる北条軍は二千、どう足掻いても勝てる戦いではない。城を救うには、小田原からやって来た援軍と共に戦う以外に活路を見出すことはできない。
 氏政が城を捨てよと言うのなら、それに従おうと綱成は考える。すでに武田軍からは、何度となく降伏・開城を促す矢文が届いている。それを受け入れればいいだけである。
 凡将であれば、すぐさま武田軍に開城を受け入れると通告するであろう。
 綱成は、そうしなかった。足許を見られるのを警戒した。城側に戦う意思がない、降伏を望んでいると見抜かれれば、信玄は強気になって様々な条件を突きつけてくるかもしれないし、考えを変えて、降伏受け入れを拒否するかもしれない。
 それを防ぐには、信玄を焦らせる必要がある。
(よし、やるぞ)
 武将として綱成の優れているところは、降伏・開城を受け入れると決めてから、猛然と武田軍を攻め立てたことである。普通とは逆のことをしたわけだ。
 深夜、綱成自身が五百の兵を率いて前線の武田軍を急襲した。一刻(二時間)ほど暴れ回り、陣営に火を放って、悠々と城に引き揚げた。
 城を攻めているのが凡将であれば、夜襲に腹を立てて、夜明けと共に城攻めを開始したであろう。
 だが、信玄は、そうしなかった。
 綱成も信玄も凡将ではない。
 名将と名将の対決なのだ。知恵比べである。
 突如として、城側が活発に動き出したのは、武田軍の背後に控えている北条軍との連携作戦の一環だろうと判断した。
 綱成の誘いに乗って武田軍が城攻めを始めれば、北条軍が背後から攻めかかり、武田軍が応戦しているときに、今度は城から綱成が突撃してくる......そういう作戦に違いないと考えた。
(それでも、わしが勝つだろう)
 というのが信玄の読みである。
 五千の兵で城の包囲を続け、綱成が城から出てきたら、その五千が相手をする。山県昌景か馬場信春に任せれば、無難に役目をこなすであろう。
 信玄は、残りの一万五千を率いて、氏政の二万と戦えばいい。兵力では劣るが、自分が勝つという自信がある。
 だが、勝ったとしても、武田側にもかなりの損害が出るに違いない。
 信玄は、それを嫌った。
 それ故、夜が明けると、もう一度、城に矢文を放った。城を明け渡せば、城兵の命を助ける、武器も財宝も持ち出して構わないし、これを降伏と捉える必要もない、と。
 寛大な申し出である。
 綱成の誇りを傷つけぬように気を遣っている。
 ただ、最後に、この申し出に従わなければ、城を爆破するぞ、という脅しも付け加えた。本丸近くまで掘り進めた横穴に爆薬を並べて火をつければ、城は崩壊するであろう。ただの脅しではなく、信玄がその気になれば、実行できる。
 しかし、深沢城を無傷で手に入れ、相模を睨む最前線にしたいというのが信玄の狙いだから、できれば、城を破壊したくはない。
 とは言え、綱成や氏政と戦って武田軍が損耗するよりは城を爆破する方がましだとも考えているから、綱成が申し出を拒否したら、実行するつもりだ。
 夕方、綱成からの返事を記した矢文が武田軍に射られた。直ちに信玄に届けられた。
 開城を受け入れる、明朝、立ち退く、と簡潔に記されている。
(おお)
 信玄が安堵の吐息を洩らす。
 戦いは回避された。
 武田の兵を一人も損なうことなく、要衝・深沢城を手に入れたのだ。嬉しくないはずはない。
 同じ頃、綱成は物見台に上がり、あぐらをかいて、手酌で酒を飲んでいる。
 城を渡すのは悔しいが、兵の命を救い、武器も財宝も持ち出すことができる。役に立ちそうなものはすべて持ち出すことができる。
 信玄と綱成という名将同士の駆け引きが、双方に大きな満足を与えたわけである。

 翌朝、一月十六日、夜明けと共に、城の大手門が開き、綱成を先頭に、二千の兵が悠々と城から出てきた。綱成も兵たちも武装している。
 武田軍は、左右に分かれて道を作る。
 その道を、ゆっくりと北条軍が進んでいく。
 と、綱成が馬を止める。
 前方に風林火山の旗が靡(なび)いている。
 その前に床几が置かれ、信玄が腰を下ろしている。
 綱成は兜の顎紐を緩め、兜を脱いで脇に抱え、信玄に向かって頭を下げる。
 信玄は手にしていた軍配を持ち上げると、軽く会釈して挨拶を返す。
 ここで信玄が悪巧みすれば、綱成と二千の北条兵を皆殺しにするのも難しいことではない。
 綱成の心に疑いがないわけではないが、別に怖れてはいない。そうなったら一人でも多くの武田兵を殺し、できることなら、信玄に一太刀なり浴びせようという腹積もりでいる。
 信玄に、そのつもりはない。
 北条軍と死闘を繰り広げてはいるものの、信玄は綱成を憎んではいない。囲碁や将棋の名人が強い相手に親近感を抱き、敬意を払うように、信玄も綱成を好敵手として認めている。結果として自分が望むものを手に入れることができたから、何の不満もない。気持ちよく綱成と北条軍を見送ることができる。
 綱成は兜を被り、顎紐を締め直すと、ゆっくり信玄の前を通り過ぎる。その後ろ姿を信玄は満足げに見送る。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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