北条氏康 巨星墜落篇第三十二回
十二
長尾と北条の同盟が成立した三日前、五月六日、今川氏真と徳川家康の間に和睦が成立した。
武田軍に追われて駿府から逃げ出した氏真は、懸川城に立て籠もり、それを家康が包囲するという事態が四ヶ月以上続いていた。
この和睦は、家康の譲歩である。
譲歩した理由は、いくつかあるが、最大の理由は信玄に対する不信感である。
四月下旬に武田軍が駿河から撤兵したため、そのまま包囲を続けていると、氏真を救うためにやって来た北条軍と衝突する怖れが出てきた。
去年の十二月、武田軍の駿河侵攻に歩調を合わせて、徳川軍も動いた。信玄との間に今川領分割の盟約を結び、それを実行しようとしたわけである。大井川の東を武田が、西を徳川が取るという約束だ。
だが、この数ヶ月で、家康は、信玄を疑うようになっている。
大井川の西は徳川に任せると約束したにもかかわらず、武田軍は大井川を越えて、たびたび遠江に兵を入れている。
家康が抗議すると、その都度、
「出先の者たちが勝手にやってしまったこと。厳しく叱りましょう」
と詫びるものの、度重なるにつれて、
(駿河だけではない。遠江も奪うつもりではないのか......)
と疑心暗鬼になってくる。
そんなときに北条軍と戦えば、たとえ勝ったとしても、徳川軍もかなり疲弊するであろうし、そこに武田軍が出てきて勝手なことを始めても、それを止める術がない。
家康とすれば、すでに遠江は手に入れたようなものだし、今は三河と遠江を守ることに専念するべきではないか、駿河の西半分を奪うことにこだわって北条と戦えば、遠江を武田に奪われるかもしれない、それくらいならば、今川や北条と手を結んで武田を牽制してもらう方が徳川の利になるかもしれぬ、と考え始めている。
だから、武田軍の撤兵を知って、すぐさま氏真と和睦した。
それだけではない。
氏真は、五月十五日に開城し、懸川城を家康に渡したが、その際、ごく短い時間だが、家康に会った。
家康からの招きである。
本来であれば、氏真が膝を屈し、地面に額をこすりつけてもおかしくない立場だったが、家康は慇懃に迎え、自ら下座に控えて氏真を上座に据えて、
「成り行きで、致し方のないこととはいえ、このような仕儀になり、誠に申し訳ございませぬ」
と頭を下げた。
「うむ、そうか」
氏真の方が落ち着きがない。
敗者という立場を自覚しているから、さっさと安全な場所に逃げ出したいのだ。家康の機嫌を損なえば、この場で殺されるかもしれない。
「御屋形さまには、舟で北条方に移っていただきます」
家康の態度はどこまでも丁重である。
「ふむふむ」
「ひとつ、お願いしたいことがございまする」
「わしにか?」
「はい」
「まあ、わしにできることであれば......」
「実は......」
北条氏と同盟を結びたいのだ、と家康が言う。
「え」
氏真が目を丸くする。
信玄と結んで駿河に攻め込んできた家康が、今川を助けるためにやって来た北条氏と、なぜ同盟したがるのか......軍事にも政治にも疎いから、家康の申し出がまったく理解できない。
「だが、御身は武田と盟約を結んでいるのではないのか?」
「すでに武田殿は徳川との約束を何度も破っておりますれば、もはや、両家の間に盟約はなきも同然なのでございまする」
「そうなのか」
氏真には、よくわからない。
「で、わしに頼みたいこととは?」
「わたしの考えを北条殿に伝えていただきたいのです」
「北条と盟約を結べば、武田と戦うことになるが?」
「その覚悟はございます」
家康はうなずき、何卒、お願いいたします、と頭を下げる。
「......」
氏真に否応はない。家康の考えひとつで、この場で首を刎ねられてもおかしくない立場なのだから、家康の言いなりにならざるを得ない。
十三
五月十七日、家康の手配した船に乗り、氏真と家族、小姓たちは懸川から蒲原に向かった。そこには北条軍が布陣している。
去年の十二月に武田軍が駿河に侵攻してから、氏真は安眠とは無縁であった。常に武田軍の影に怯え、家臣に裏切られるのではないかと不安に苛まれてきた。
蒲原城で、氏真は半年ぶりに安眠を貪(むさぼ)った。夢も見ずに、泥のように眠り続けた。
翌朝、陸路で小田原に向かった。
その日は氏康にも氏政にも会わず、のんびり休養した。到着してすぐに難しい話をするのでは気疲れして大変だろうから、まずは休んでほしいという氏政からの伝言が氏真に伝えられた。
「何と、心優しきことよ」
生死の瀬戸際を際どく渡り歩いてきたせいか、今の氏真には人の思い遣りが身に沁みるらしく、氏政の気配りに感激して涙ぐんだ。
だが、これは決して氏政の優しさというだけの話ではなかった。氏真との会見を一日延ばすというのは氏康の指示であり、氏真には会わなかったが、氏真の妻、すなわち、自分の娘には会っている。氏真に会うための根回しに時間が必要だったから、休養を理由にしただけである。
家康の思惑も理解できないような氏真だから、まして氏康の腹の内などわかるはずもない。
氏政の厚意に感謝し、氏真がのんびり過ごしているとき、氏康と氏政が難しい顔で氏真の処遇と今川領の扱い、徳川や武田との関係など、多岐にわたって話し合っていた。
翌朝、氏真は氏康と氏政に会った。
「少しは疲れが取れたでしょうか。よく眠れましたかな?」
氏康が訊く。
「おかげさまで、何とか生き長らえて、ここまで辿り着くことができました。お二人のお力添えのおかげでございます。何とお礼を申し上げてよいかわかりませぬ」
氏真が深く頭を垂れる。
「ご苦労はお察ししますが、戦はまだ終わったわけではありませぬ。むしろ、始まったばかりと言っていいでしょう。甲斐に引き揚げた武田が、また駿河に攻め込んだという知らせが届いたばかりです」
氏政が言う。
これは事実で、足利義昭の仲介で、長尾景虎との和睦交渉が進展し、すぐに景虎が信濃に攻め込む怖れがなくなったと判断した信玄は、御殿場から駿河に攻め込み、深沢城を攻撃している。
「え」
氏真の顔が青ざめる。今の氏真にとって、「武田」という言葉は悪夢の種なのである。その言葉を耳にするだけで膝が震えるほどだ。
「どうなさる? すぐに出陣なさるか」
氏康が訊く。
「そう言われても、兵もおりませぬし......」
氏真が口籠もる。
せっかく危険地帯から安全な場所に辿り着いたのに、なぜまた危ない場所に戻らなければならないのか、冗談ではない、誰が出陣などするものか、と言いたいところである。
しかし、今川のために兵を出し、自らも出陣してくれた氏康と氏政に向かって、もう戦うのは嫌だ、出陣したくないとは口が裂けても言えることではない。
「氏真殿が先頭に立ち、駿河の者たちに呼びかければ、今川の旗の下に集まってくる者は少なくないはず。いくらでも戦いようはありましょうぞ」
氏政が励ますように言う。
「あ、そう言えば......」
話題を変えようとして、家康からの頼み事を二人に伝える。
「それならば承知しております」
氏政が言う。
家康から、すでに小田原に使者がやって来ており、盟約を結びたいと申し入れたというのだ。
「そうでしたか」
使者を送るくらいなら、なぜ、わざわざ自分に頼んだのか、と氏真は家康のやり方を訝しんだ。
外交音痴の氏真には、家康の真意などわかろうはずもない。
家康は、氏真の仲介など、最初から期待していない。降伏開城した氏真を、旧主として丁重にもてなし、無事に蒲原城に送り届けることで、自分の律儀さを氏康と氏政に印象付けたかっただけなのだ。
それが済めば、もはや、家康にとって氏真は用なしである。両家が同盟を結ぶ交渉は、氏真抜きに行われることになる。
「これは今川と武田の戦いでござる。当家と武田の戦いではない。いくらでも力添えするつもりではおりますが、今川の主が先頭に立って戦わなければなりませぬぞ」
氏康が厳しい口調で言う。
「無論......」
氏真がごくりと生唾を飲み込む。
ひどく喉が渇く。酒を飲みたくてたまらない。浴びるように飲んで、できれば戦のことなど忘れてしまいたい。歌舞音曲に没頭したい。何よりも蹴鞠をしたくてたまらない。そんなことを考えている場合ではないのに、なぜか、戦や政治とは無縁のことばかりを考えてしまう。
「武田は強い。長尾も強いが、その長尾と互角に渡り合ってきた武田も強い。同じ兵の数で戦えば、勝つのは難しい相手です。氏真殿、万が一のことをお考えですかな?」
氏政が訊く。
「万が一のことというのは......」
「戦に勝ち負けは、つきものです。負ければ、自分の首を敵に渡さなければなりませぬ」
「わ、わたしの首を......」
ぎょっとしたように両目を大きく見開く。
「氏真殿に万が一のことがあったときに備え、後継ぎを決めておかねばなりますまい。そうでなければ、今川が滅んでしまいますからなあ」
「......」
氏真が肩を落とし、盛んに自分の顔を撫でる。冷や汗が止まらないのだ。
その後も、氏康と氏政は、武田との戦になれば、今川軍の苦戦は必至、武田に負ける可能性が強いし、負ければ氏真は首を刎ねられるだろう、しかしながら、どれほど劣勢であろうと、今川の名誉と領地を守るために、当主として出陣しなければならぬ......と散々に氏真を脅かした。
「では、急いで戦支度をさせましょう。早ければ明日、遅くとも明後日には出陣ということで」
「待って下され」
「何を待つのですか? 先程申し上げたように、すでに武田は御殿場口から駿河に攻め込んでいるのです。急がねばならぬのです」
「......」
血の気の引いた顔で、氏真は二人の前を辞す。
二人きりになると、
「どうなるでしょう?」
「あの顔を見たであろう。とても出陣などできまい。このまま寝込んでしまうかもしれぬぞ」
氏康が笑う。
「薬が効きすぎて、本当に寝込んだら、どうするのですか?」
「そのときは、輿にでも乗せて連れて行けばよい。馬に乗れずとも、輿に乗ることはできよう。横になっていればいいのだから」
たとえ病になろうと、嫌だと言おうと無理矢理にでも戦に連れて行くのだ、と氏康が冷たく言い放つ。
「捨て鉢になって、出陣すると言い出したら?」
「よいではないか。おまえがさっき言ったように、武田は強い。今川がかなう相手ではない。氏真殿は討ち死になさるであろうよ」
「それでも構わぬ、と?」
「当家にとって悪いことではない」
にこりともせずに、氏康がうなずく。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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