北条氏康 巨星墜落篇第三十回


 十二月十三日、氏真が懸川城に落ち延びて間もなく、駿府に武田軍が乱入し、今川館を焼き払った。
 氏真の呼びかけに応じて集まっていた今川方の軍勢は、武田軍との衝突を避けて撤収していたから、武田軍は何の抵抗も受けず、やりたい放題だったわけである。
 翌日には北条軍の先鋒が蒲原(かんばら)城に入っており、繰り返しになるが、氏真が清見寺であと一日でも踏ん張っていれば、関東の歴史が変わっていたかもしれない。少なくとも、戦いの様相は大きく違ったものになっていたことは間違いない。
 今川館焼き討ちを境として、駿河における抗争は、武田と今川ではなく、武田と北条の抗争に変貌する。それに徳川家康が絡み、遙か越後の地から長尾景虎が不気味な影響力を発揮するという構図になる。
 当事者であるはずの今川氏真は、政治的にも軍事的にも完全に蚊帳の外に置かれてしまう。
 今川軍を蹴散らし、今川の重臣たちを籠絡し、ついには駿府を占領したわけだから、信玄の駿河攻略は大成功したように見える。
 しかし、実際は、そうではない。ここからが始まりだということを、信玄も自覚している。真の敵は今川ではなく、北条だと承知していた。
 信玄とすれば、北条と争うことは避けたい。今川とは比較にならないほどの強国だから、まともにぶつかれば、武田軍もかなりの損害を覚悟しなければならない。できれば話し合いで決着させたいというのが本音である。
 駿府を占領した後、すぐに懸川城を攻めなかったのは、ひたひたと背後から迫る北条軍を警戒したせいだ。
 信玄は小田原に使者を送ることにした。
 寺島甫庵という僧である。多くの贈り物を携えていたというから、信玄がかなり下手に出ていたことがわかる。
 武田からの正式な使者なので、氏康と氏政が広間で対面した。
 氏政は三島まで出陣したものの、駿府が占領され、氏真が懸川城に逃げたことを知って、今後の対応を氏康と話し合うために小田原に戻ったところだった。
 寺島甫庵(ほあん)は型通りの挨拶から切り出したが、
「さっさと用件を言わぬか」
 氏康が苛立って舌打ちする。
「では......」
 寺島甫庵は背筋を伸ばし、わが主からの言付けでございます、と信玄の言葉を伝えた。
『北条記』によれば、

氏真不行跡故追出して候
駿河国は此体に候はば、家康に取られ候はん間
信玄方より取候也

 ここまで露骨な物言いをしたとは思えないが、似たようなことは言ったのであろう。
 すなわち、氏真は、越後の長尾と結ぼうとするなど、問題ばかり起こすので追い出してしまいました。主のいなくなった駿河は、このままでは徳川に奪われてしまうでしょうから、思いあまって自分が奪うことにしたのです、と。

 氏康と氏政は黙って顔を見合わせる。あまりにも図々しい物言いに言葉を失ったという感じである。
 特に氏康は、怒りで顔が真っ赤だ。
 その怒りを爆発させたのは、続いて寺島甫庵が発した言葉である。

富士郡は川より其方をば小田原へ差上候はん

 富士川の東側を譲るから、それで手を打て、というわけである。
 それを聞いた氏康は、
「わしらを盗人と一緒にするな。北条は、人でなしの家ではない」
 と叫ぶや、小姓たちに、この不届き者を捕らえて、牢に放り込んでしまえ、と命じた。
「あ......」
 寺島甫庵は言葉を失い、そのまま、小姓たちに広間から引きずり出された。
 氏政は黙っている。内心、かなり驚いているに違いない。いかに不愉快な内容を伝えたとしても、相手は信玄の使者に過ぎない。使者に怒りをぶつけても仕方がない。
 しかも、正式な使者である。それを捕らえて牢に入れるのは、社会通念上、許されることではない。
「父上」
「言うな。堪え性がなくなっていることは、自分でもわかっている。しかし、どうにも武田のやり方を許すことができぬ」
「では?」
「明日にでも牢から出して、信玄の元に送り返す。わしらの怒りが信玄にも伝わるであろうよ」
「なるほど」
 氏政がうなずく。氏康の怒りの爆発には、いくらか演技が混じっていたとわかって安堵した。本心から怒っていたのであれば、武田に戻さず、首を刎ねてしまうであろう。
「これから、どうなさるおつもりですか?」
「うむ」
 氏康は、広間にいる小姓たちに、下がっておれ、呼ぶまで立ち入ってはならぬ、と命ずる。
 氏政の表情が緊張で強張ったのは、小姓まで追い出して、二人きりで何を話すつもりなのか、と訝ったからである。
「おまえを関宿(せきやど)から呼び戻してから、わしは、ずっと考え続けてきた。武田は駿河に攻め込むつもりだが、今川には武田を追い返す力はない。放っておけば、駿河は武田の領国にされてしまう。信濃のようにな」
「そうはなりませぬ。われらは今川との盟約を守るつもりでいるのですから」
「わしも、そう考えた。今川の心配ばかりしているわけではない。駿河が平穏でいてくれるのが、当家にとっては、ありがたいからだ。駿河が乱れれば、わしらも東にばかり目を向けていることができなくなる。乱れが伊豆や相模に及んでは困るからのう。駿河が武田の領国になるのも困る。信玄は欲の深い男だ。駿河を手に入れただけで満足するはずがない。すでに遠江に兵を入れているし、東上野にも攻め込むかもしれぬ。隙を見せれば、伊豆や相模も狙うであろう」
「武田を駿河から追い出さねばなりませぬな。それが当家のためにもなる」
「そう考えたから、武田が駿河に攻め込んだことを知って、すぐさま、おまえに出陣を命じた」
「あれは残念でした。三島まで行っていたのに......。あと一日あれば、薩埵(さった)山あたりで武田と合戦になっていたでしょう」
 氏政が残念そうに唇を噛む。
「そう、あと一日だったな。わしは、あの日の出来事で考えが変わった」
「と、おっしゃいますと?」
「今川は敗れた。しかし、合戦をしたわけではない」
「重臣どもが根こそぎ武田に寝返っていたわけですから、あれでは戦いようがなかったでしょう」
「それは、どういうことだと思う?」
「は?」
「今川の屋台骨が腐りきっているということではないか。合戦で敗れたのであれば、とやかく言うことはない。勝負は時の運。勝つこともあれば負けることもある。それだけのことだ。しかし、あれは違う。ただの敗北ではない。考えてもみよ。わしらが助力し、武田を駿河から追い出したとしよう。その後、今川はどうなるのだ?」
「元通り、というわけにはいかないでしょう」
「寝返った重臣どもを討伐するか? 一人や二人ではないぞ。今川軍の主力として戦ってきた者たちだ。国がふたつに割れる大きな戦になるだろう。その先、どうなるのだ?」
「また武田が出てくるか、あるいは、徳川が出てくるか......。そういうことでしょうか?」
「そのたびに、われらが今川のために戦うことはできぬ」
「では?」
「氏真殿には後継ぎがおらぬ」
 正確に言えば、子がいないわけではない。
 氏康が言うのは、自分の娘は氏真の子を産んでいない、という意味である。北条氏の血を引かない者を、氏真の後継者として認めるつもりはないのだ。
「国王丸を後継ぎに、ということでしょうか?」
「すぐに隠居せよ、と氏真殿に迫るつもりはない。国王丸を後継ぎに指名してもらうだけだ。それならば、われらが全力で駿河を守る理由にもなろう。武田や徳川に手出しはさせぬ」
「氏真殿が承知するでしょうか?」
「今後の成り行きによっては、そういう道もあることを心得ておいてほしいのだ。今川への義理だけで、われらが血を流し続けるわけにはいかぬ」
「わかりました」
「もうひとつ話がある」
「何でしょう?」
「武田とは手切れとなった。これからは武田と戦うことになる。武田にとって最大の敵は誰だ?」
「それは......長尾でしょう」
「そうだ。それ故、われらは長尾と盟約を結ぶべきだと思うのだ」
「え」
 氏政の両目が驚きで大きく見開かれる。
 武田と長尾は宿年の敵同士だが、北条と長尾も似たようなものである。
 七年前には長尾景虎に率いられた未曾有の大軍が小田原城に押し寄せ、北条氏を滅亡の瀬戸際に追い込んだ。その後も、上野や武蔵で死闘を繰り広げている。
「敵の敵は味方というではないか。将軍家からの要請もある」
「ああ、なるほど」
 室町幕府の十三代将軍・足利義輝の弟である義昭は、十月に十五代将軍の宣下を受けている。
 その義昭から、三年ほど前から、たびたび長尾と和睦せよ、と要請されている。それを利用しようというのであった。
「反対か?」
「そうではありませぬが、こちらがその気でも、果たして、向こうが乗ってくるかどうか......」
「あれこれ考えても仕方あるまい。長尾の考えを知るためにも、とりあえず、使者を送ってみようではないか」

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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