北条氏康 巨星墜落篇第二十六回
四
朝日を浴びながら、多くの学生たちが農作業に励んでいる。
足利学校には菜園場と呼ばれる広い畑地があり、ここで野菜や薬草が栽培されている。自給自足が原則なので、学生や教授が食べるものを自分たちの手で育てているわけである。薬草は、省行堂(せいあんどう)と呼ばれる病院施設で使われるものだ。
学生たちは、夜が明けないうちに起床し、夜明けと共に畑に出る。食事の時間まで野良仕事に励む。
すべての学生というわけではない。
早朝の野良仕事は、主に新参の学生たちの役回りである。
その風景を離れた場所から眺めている隻眼の男がいる。曾我冬之助だ。足利学校では俗名ではなく、法号を名乗ることになっているから、養玉(ようぎょく)と呼ばれている。すでに六十五歳の高齢である。
足利学校で暮らすようになって七年になる。
特に決まった仕事はない。
軍配者としての名は広く知れ渡り、今では伝説的な存在になっているから、特別講師のような立場で、学生たちの質問に答えたり、指導したりしている。
足利学校で学ぶことは多いが、最も重要なのは実戦的な兵法を学ぶことである。
選び抜かれた優秀な学生だけが、過去に行われた有名な合戦を素材にして何度となく図上演習を行う。敵と味方に分かれ、実際に行われた場所で、同じだけの兵力を駆使して、いかに相手を負かすか鎬(しのぎ)を削るのだ。そのやり方が正しいかどうか、正しくないとすれば、何が間違っているのか、どうすればよかったのか、学生たちを導くのが冬之助の役目である。
数十年にわたり、扇谷上杉氏、山内上杉氏、長尾氏を渡り歩いて軍配者を務め、関東で行われた大きな合戦をいくつも経験している。
今現在、最強の武将と言われる長尾景虎を支え、これまた名将と呼ばれる武田信玄や北条氏康と渡り合ってきたから、冬之助の言葉は重みが違う。知識だけを詰め込んだ頭でっかちではなく、自分が実際に経験したことを語るからだ。
そういう意味で、学生たちにとって冬之助は神の如き軍配者であり、畏敬の眼差しで遠くから見つめる存在なのである。
若い学生は冬之助に言葉をかけられるだけで感激に震え、頬を紅潮させる。
冬之助がいることで、足利学校は重みが増したと言われるほど、その存在感は大きい。
「養玉先生」
背後から声をかけられて、冬之助が振り返る。
頭を剃り、黒染めの法衣を身にまとった大男がいる。やけに目付きが鋭く、見るからに腕っ節が強そうで、とても学問僧という感じではない。
「鉄牛(てつぎゅう)先生か」
冬之助が軽く会釈する。
かつて足利学校には鉄斎(てっさい)という老僧がいた。
学生たちの日常生活に目を光らせ、彼らを監督するのが役目だった。毒舌で、乱暴で、怠け者には悪罵を浴びせ、容赦なく鉄拳を振るった。
冬之助は怠け者の代表のような学生だったから、鉄斎に叱られてばかりいたが、一本気な鉄斎が嫌いではなかった。
鉄牛は鉄斎の甥に当たる。
見た目は鉄斎に似ているが、鉄斎に比べると、よほど砕けたところがあり、酒を飲むのも好きだし、女も好きで、時たま、夜の闇に紛れて学校を抜け出し、近在の農家の女に夜這いに行ったりする。自分自身がそんな風だから、学生にもあまりうるさいことを言わない。学生からは好かれているが、振る舞いが粗暴で、何事も大雑把なので、生真面目な教授たちからは嫌われている。
庠主(しょうしゅ)の九華(きゅうか)が鉄斎と親しかったので、何かにつけて鉄牛を庇うが、そうでなければ、とっくに追い出されていたであろう。
自分と同じ匂いを感じるのか、鉄牛は冬之助にはよく懐き、何かと言うと、養玉先生、養玉先生、とすり寄ってくる。
「あの二人が気になるのですか?」
「ん? うむ......」
冬之助が目を細めて、農作業に励んでいる学生たちに目を向ける。その中に、他の者たちより小柄な少年が二人混じっている。
足利学校は寺ではないし、普通の学校でもない。
軍配者の養成機関である。
ここに入学してくる者は、軍事的な素質があると見込まれた者たちである。
だから、子供はいない。
子供に軍事的な素質があるかどうか、誰にもわからないから、ある程度、素質を見極められる年齢になってから入学するわけである。
講義で用いられる教材は、ほとんど漢籍だから、基礎的な学問の素養も必要で、それ故、十代の後半で入学するのは早い方で、十五歳以下となると滅多にいない。
冬之助の視線の先にいる二人は、その珍しい十五歳以下の学生たちである。
「鷗陵(おうりょう)と春渓(しゅんけい)ですか。二人とも見所がありますな。性格は、まったく違っているようですが」
「確かに」
冬之助がうなずきながら微笑む。
二月の初め、たまたま同じ時期に、甲斐と相模から二人の少年が足利学校にやって来た。
山本太郎丸鷗陵と風摩(ふうま)小次郎春渓である。
どちらも十四歳だ。
太郎丸は武田の軍配者だった山本勘助(四郎左)の子であり、小次郎は北条の軍配者だった風摩小太郎の孫である。
四郎左と小太郎は冬之助の盟友で、
(いつか二人の志を継ぐ者が来るだろう)
と期待していたが、ようやく、それが実現したわけである。
入学して、まだ五ヶ月足らずだし、二人とも学生の中では最年少の部類だが、それでも学識の深さは抜きん出ている。
二人の法号は冬之助が選んでやった。勘助の法号である鷗宿(おうじゅく)、小太郎の法号である青渓(せいけい)、それぞれ一字ずつ取って、鷗陵、春渓と決めた。
親友の身内だからといって、特別扱いするわけではない。むしろ、他の学生に対する以上に厳しい目を向けている。にもかかわらず、鉄牛の言うように、二人とも間違いなく見所がある。優れた軍配者になる資質があるということである。
「呼びましょうか?」
「野良仕事が終わり、朝飯を食ったら、わたしの部屋に来るように伝えて下され」
「今すぐでなくて、よいのですか?」
「別に急いでいるわけではないから」
うなずくと、畑に背を向けて、冬之助が歩き出す。
一刻(二時間)ほど後......。
太郎丸と小次郎が連れ立って、冬之助の部屋にやって来る。
「養玉先生、お呼びだそうですが」
「まあ、そこに坐りなさい」
「はい」
二人が行儀良く腰を下ろす。
冬之助は茶碗を三つ並べ、火鉢に載せてある鉄瓶から湯を注ぐ。小物入れから袱紗(ふくさ)袋を取り出し、それぞれの茶碗にひとつまみの茶葉を落とす。
「こうすると香りがよくなるし、気持ちが落ち着くのだよ」
さあ、飲みなさい、と二人をうながす。
「いただきます」
「この後は、どういう予定になっている?」
「昼過ぎまで兵書を二人で読むつもりでした」
「なるほど、それまで講義はないか」
入学してから卒業まで、学生たちが学ぶ段階は四つある。
第一段階は、四書五経を中心に、学問の基礎となる漢籍を学ぶことである。期限が区切られているわけではなく、十分に学んだという自信がつけば、自分の判断で次の段階に進むことができる。
初歩的な漢籍くらい入学する以前に学んでいるだろうと思われそうだが、実際は、そうではない。戦が好きだから軍配者になろうと短絡的に考える者は、武芸は優れているが学問が苦手だという者が多く、四書どころか、往来物すら満足に読むことのできない者がいる。
そのせいか、足利学校で学ぶ学生たちが最も数多く属しているのが、この第一段階なのである。
二年くらいで抜け出すことができるのは普通で、中には五年も足踏みする者もいる。
午前中に行われる講義のほとんどは、この第一段階の学生たちを対象にしているから、午前中に自習するというのは、つまり、太郎丸と小次郎は、第一段階を終えて第二段階に進んでいることを意味している。入学して半年も経っていないのに、すでに第二段階で学んでいるというのは、かなり早い。
第二段階では兵書と医書を学ぶ。
第三段階では『易経』を学び、同時に陰陽道と観天望気の知識を身に付ける。
ここまで終えると、世間的には軍配者として認められるから、足利学校を卒業することになるが、教授たちから高い評価を得た一部の学生は、卒業を先延ばしして図上演習に明け暮れる。
第三段階で卒業していくのは並みの軍配者であり、第四段階まで残ることができた者こそ一流の軍配者なのだ。彼らを指導しているのが冬之助である。
その冬之助が、入学したばかりの若い学生を自室に招くというのは破格の厚意と言っていい。
「ここでの生活には、もう慣れたか?」
「最初は大変でしたが、二人で助け合うことができたので......」
なあ、と太郎丸が小次郎を見る。
うん、そうだね、運良く隣同士だったから、と小次郎がうなずく。
(運良くか......)
冬之助の口許が緩む。
入学した学生は衆寮(しゅりょう)という建物で生活する。言うなれば、学生寮である。
衆寮は敷地内にいくつもあり、どの建物が割り振られるかは、空き状況に左右される。
親友の身内だからといって、冬之助は二人を特別扱いはしていないが、最初だけ鉄牛に耳打ちして、二人を隣同士にしてもらった。
衆寮では、広い空間を屏風で区切り、そこで多くの学生たちが寝起きする。一人当たりの割り当ては畳二枚分ほどである。そこに文机と行李があり、布団を敷いて寝起きする。隣同士ともなれば、互いの呼吸音もはっきり聞こえるし、肌の匂いすらわかるほど距離が近い。
冬之助自身、四郎左と小太郎には随分と助けられた。同じ年頃の、気心の知れた仲間がそばにいれば、辛い生活も何とか乗り越えていくことができるとわかっているから、二人が親しくなり、辛いときも励まし合って苦難を乗り越えてほしい、と期待した。それがうまくいったらしく、二人はウマが合うようだ。
二人を観察していると、太郎丸は父の四郎左に似たのか、負けん気が強く、何事にも積極的である。一方の小次郎は、祖父の小太郎のように控え目で謙虚である。何事も自分が一番だという強気な姿勢を崩さない太郎丸と、自分は後からでいい、お先にどうぞ、という柔軟な姿勢を持つ小次郎は、まるっきり正反対の性格だから、かえって、うまくいくのであろう。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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