北条氏康 巨星墜落篇第十七回
八
周辺諸国の動きが慌ただしくなってきたので、小田原に腰を据えて、自分たちがどう動くべきか熟慮しなければならぬ......氏政には、そう伝えてある。
それは氏康の本心だが、それだけが小田原にいる理由ではない。
ひどい疲れを感じているのである。
若い頃から、平穏に暮らすより、戦乱の中に身を置く方が当たり前という生活を送ってきたが、ここ二年は特にそれが顕著だった。昨年の正月、国府台の戦いで里見軍を撃破してから、下総、武蔵、下野と駆け回り、小田原で過ごすより、遠征先で過ごす方が長いという生活なのである。
それを言えば、氏政の方がもっと苛酷な生活を送っているが、氏政は若い。どれほど疲れても、次の日には体力も気力も回復している。二十代の氏政の肉体には疲労が蓄積されないかのようである。
氏康は、そうではない。
もう五十一歳である。この時代の常識からすれば、すでに老人の部類だ。若い頃と違って、なかなか疲労が抜けない。いざ戦になれば、馬に跨って縦横に駆け巡り、刀を手にして兵たちを叱咤激励するから、傍目には、
「ご本城さまもお元気なことよ。昔から少しも変わらぬ」
と感心されるが、実際は、そうではない。
戦の翌日には、朝、目が覚めても、体が鉛のように重く感じられ、体を起こすことが難しく、いつまでも寝床でぐずぐずするようになっている。
飲み過ぎれば酔いで頭が痛くなるし、食べ過ぎれば胃もたれして、すぐに腹を壊す。そのせいで、食も細くなった。
形の上では氏政に家督を譲り、今は隠居の身だが、北条氏を取り巻く政治的軍事的な状況が、のんびり隠居生活を送ることを許してくれない。
そういう意味では、景虎が関東に出てきそうだという信玄からの知らせは、氏康には僥倖であった。
神出鬼没の景虎の動きに対応するため、氏康は迂闊に動くことができないから、景虎が関東に現れるまでは、小田原で休養できるわけである。
その氏康の元に驚くべき知らせが届いた。
急な知らせが届くのであれば、景虎の越山を知らせる上野からであろうと予想していたが、この知らせは甲斐から届いた。風間党が探り出した情報だ。
武田信玄の嫡男・義信が重臣と共謀して信玄の暗殺を図ったというのである。
「驚きました。本当のことなのでしょうか?」
氏政が首を振る。
「どうなのだ?」
氏康が、下座に控える風間小源太に顔を向ける。北条氏の忍び集団・風間党を束ねる棟梁である。
「間違いございませぬ」
小源太は無表情にうなずくと、すでに首謀者として義信の傅役(もりやく)・飯富虎昌(おぶとらまさ)、義信の側近・長坂勝繁、曾根虎盛らが処刑された由にございます、と言う。
「飯富殿が......」
氏政が絶句する。
飯富虎昌と言えば、信虎、信玄と二代にわたって武田家に仕えた重臣で、武田の全盛時代を築いた功労者の一人である。信玄の信頼も篤く、重臣筆頭の地位にあった。だから、嫡男の傅役という大任を任されていたわけである。
その飯富虎昌が義信と共謀して信玄を亡き者にしようと企むとは、氏政には信じられないのであろう。
ちなみに虎昌の弟は武田四天王の一人・飯富三郎兵衛尉(ひょうえのじょう)、すなわち、後の山県昌景(やまがたまさかげ)である。
三郎兵尉は、兄の虎昌から仲間に加わるように説得されたものの、考え抜いた末、陰謀を信玄に告げた。兄を捨てて、信玄を選んだわけである。
「義信殿はどうなったのだ?」
氏康が訊く。
「捕らえられたことは確かですが、その後のことはわかりませぬ」
「まさか、ご嫡男を成敗なさったりはしますまい」
「どうかな......」
氏康が首を捻る。
「しかし、なぜ、実の父親を暗殺しようなどと考えたのでしょうか?」
「その点は、どうだ?」
「武田の御屋形さまとご嫡男は、評議の場で、たびたび言い争っていた、と聞いております。特に駿河の仕置きについて」
小源太が答える。
「駿河か......」
氏康の表情が厳しくなる。
今川氏真(うじざね)は苦境にある。
義元の時代には、駿河の他に遠江と三河も支配し、尾張を征して京都に進もうとするほどの強国だったのに、桶狭間で織田信長に義元が討ち取られてからというもの、坂道を転がり落ちるように衰退の一途を辿っている。
代わって台頭してきたのが三河の松平家康である。義元に目をかけられ、氏真を支える重臣という立場にあったが、義元の死後、今川と手を切り、織田との結びつきを深め、着々と領土を広げている。
氏真は、今年の三月には吉田城と田原城という重要拠点を家康に奪われ、遠江の九割を失った。かろうじて牛久保城の牧野成定が孤軍奮闘しているが、四方を松平方に包囲されており、いつまで持ちこたえられるかわからない状況である。
勢いづく家康は、奪ったばかりの吉田城を足がかりに駿河に手を伸ばし始めている。これに対して氏真は有効な手を打つことができず、家康の好き勝手にやられている。
本当であれば、同盟国である武田と北条が今川を助けるべきだろうが、今のところ、どちらも大がかりな援助はしていない。
北条氏の場合、四年前の長尾景虎の関東侵攻が大きな痛手であり、景虎に奪われた領土を回復するのに手一杯で、とても他国に兵を送る余裕はなかった。
去年の正月、国府台の戦いに勝利したことで、ようやく景虎侵攻以前の領土をほぼ回復したものの、依然として景虎に味方する大名や豪族たちを虱潰しに討伐しているところである。
しかも、またもや景虎が関東に出てきそうな雲行きで、その備えに全力を挙げなければならないから、たとえ氏真に頼まれても、助けようがない。
武田は、そうではない。
北条氏と同じように長尾景虎の脅威に苦しめられてはいるものの、数度に及ぶ川中島の戦いでは、全体として優勢で、北信濃の支配をほぼ確立している。余裕があるから西上野にも兵を出し、氏康と共同作戦を取ることもできる。
信玄が本気で今川を助けようと思えば、いつでも三河に攻め込んで家康を攻撃できるし、武田と今川が共同作戦を展開すれば、家康も苦しい立場に追い込まれるはずであった。
しかし、信玄は動かない。あたかも傍観者の如く、家康が今川の領土を食い荒らすのを眺めている。
氏政には、そんな信玄の不可解な動き、つまり、何もしないことが理解できず、風間党が今川の情勢を知らせてくる毎に、
「なぜ、武田殿は動かぬのでしょうか」
と、氏康に疑問を投げかけた。
上野において、信玄は実に頼りになる同盟者であり、北条氏の呼びかけに応じて機敏に動いてくれる。国府台の戦いで勝利できたのも、信玄が景虎を強く牽制してくれたおかげである。
その信玄が今川に対しては、冷淡そのものなのだ。
「これまでに何度となく、なぜ、武田は今川を助けないのかと、おまえはわしに訊いたな。恐らく、同じことを義信殿も武田殿に訊いたであろうし、同盟に基づいて援軍を送るべきだと訴えたかもしれぬ」
「そう思います」
氏政がうなずく。
義信の妻は義元の娘である。
つまり、氏真とは義兄弟になる。
義元から「義」の一字をもらうほど厚遇され、妻との仲も睦まじいから、義信は武田家における親今川の筆頭であったろう。
「三楽斎が岩付城を奪い返そうとしていると聞いて、おまえはすぐに援軍を送るべきだと言い、わしは待てと言った。覚えているか?」
「もちろんです。父上は、こうおっしゃいました。肝心なのは、当家にとって得になることかどうかである、と」
「武田殿も同じ考えなのだ。そもそも武田がわれらや今川と同盟を結んだのは、それが武田の得になると考えたからだろう。武田のためにならぬと判断すれば、今川の娘を離縁して駿河に送り返すであろうよ。それが信玄という男だ。しかし、義信殿は違う。情で動いている。武田と今川は婚姻によって結ばれた親戚同士だし、自分と氏真殿は義兄弟だから助けるのが当然だと考える。恐らく、妻にも泣いて頼まれたであろう。実家を助けてくれ、とな」
「そうだとしても、それで信玄殿を暗殺しようとするでしょうか。実の父親でございますぞ」
「思い出すがいい。そもそも、信玄殿が家督を継ぐときに何をしたのかを」
「あ」
氏政がハッとする。
「実の父上を駿河に追放したのでした」
「そうだ」
氏康がうなずく。
二十四年前、信玄は実父・信虎を追放して武田の家督を継いだ。二十一歳のときだ。
「義信殿は信玄殿を真似たのであろうよ」
「しかし、今回は追放ではなく、暗殺ですが」
「信玄殿ほどの人が追放されて黙っているものか。すぐさま兵を集めて甲府に攻め寄せるであろうよ。力尽くで当主の座を奪うには暗殺という手段しかなかったであろう」
「これから、どうなるのでしょうか、武田と今川は?」
「わからぬ。ただ、両国の繋がりがは薄くなる。それだけは確かだな」
「なるほど」
それきり氏康と氏政は黙り込む。
二人は同じことを考えている。
氏真には氏康の娘が嫁いでいる。氏政の妹である。
それぞれが娘を、妹を案じている。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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- 第十九回2025.04.23