北条氏康 巨星墜落篇第十四回


 間もなく夜が明けようとしている。
 真っ暗だった空が青く染まり始め、東の地平線のあたりは茜色になろうとしてる。
 すでに学生たちは目を覚まし、一日の始まりに備えているところだ。炊事場からは煙が立ち上っている。夜が明けると、野良仕事をするために学生たちが畑に出てくるであろう。
 が、まだ早い。
 畑に人影はない。
 日中はまだ暑さを感じるが、夜と朝の狭間の時間帯は、空気も凜として冷えている。その張り詰めた空気の中を、曾我冬之助がゆっくり歩いている。
 ふと立ち止まって、その場にしゃがみ込み、右手で土をすくい上げる。いい塩梅に湿った、肥えた土である。これなら実り豊かな秋を迎えることができそうだ、と満足げに口許に笑みを浮かべる。
 その笑いは己自身にも向けられている。
 若い頃は放蕩無頼の生活を送り、酒と女に溺れた。
 足利学校で学び、軍配者となってからは扇谷上杉氏と長尾氏に仕え、数多くの合戦で腕を振るった。血と汗と暴力にまみれた人生だったのである。
 そんな男が齢六十を過ぎて、土壌の善し悪しに気を配り、秋の作柄に一喜一憂する日々を送っている。その落差が自分でもおかしいのであろう。
 制札をもらいに長尾景虎に会いに行ったのが二月の初め、それから半年経っているが、周辺諸国では相変わらず激しい戦が続いている。
 だが、足利学校は静かだ。
 二月下旬、景虎が唐沢山城の佐野昌綱を降伏させ、長尾軍が下野を去ったので、また平穏な日々が戻ったのである。
 上野に戻った景虎は、武田や北条に味方する豪族たちの城を攻め、負けじと信玄は長尾方の城を攻めた。
 上野で、長尾と武田が城の取り合いをしている隙に、北条氏は房総半島で着々と勢力圏を広げている。
 里見義弘が必死の反撃を試み、足利義氏を佐貫城に攻めて、これを打ち負かし、義氏を命からがら鎌倉に敗走させるということもあったが、全体として見れば、里見氏の劣勢は覆い隠すべくもなく、下総と上総のほとんどが北条氏の支配下に入り、里見氏は安房本国のみをかろうじて維持しているという危機的な状況である。
 信玄は、上野では徹底的に景虎との決戦を避けた。
 景虎がすぐには救援に駆けつけられない城ばかりを攻め、景虎がやって来ると、さっさと兵を退いた。
 業を煮やした景虎は、
「卑怯な奴め。それほど決戦が嫌だというのなら、決戦せざるを得ないようにしてやる」
 と決意し、一旦、越後に帰ると、すぐさま北信濃に出陣し、八月初め、川中島に布陣した。
 これを知った信玄も、西上野から北信濃に転じ、犀川を挟んで長尾軍に対峙した。
 これが世に言う第五回の川中島の合戦である。
(武田が勝てば、世の中が大きく変わる)
 遙か遠くで行われている武田と長尾の戦いの行方を想像しながら、冬之助が思案する。
 武田は西上野だけに兵を出しているわけではない。飛騨や美濃方面も窺い、西に版図を広げようという野望を隠そうともしない。武田が勝てば、その動きが加速するであろう。敗れた長尾は越後本国で傷を癒やすことになるだろうから、その隙に、北条は上野と房総半島で長尾方の勢力を駆逐するであろう。
 つまり、川中島の合戦の勝敗次第で、関東の覇権は北条氏のものとなり、武田氏はかつて今川義元がそうしたように京都を目指し、天下に号令しようとするということだ。
(とは言え、どうなるかはわからぬ......)
 これまでと同じように信玄が景虎との決戦を回避しようとすれば、三国の睨み合いが続くことになる。
 一見、農家の好々爺のように土の具合を自分の手で確かめながら、頭の中では、やはり、戦のことを考えている。軍配者の性というものであろう。
(ん?)
 畑の向こうから、こちらに歩いてくる者がいる。
 二本差しだから武士であろう。菅笠を被っているから、顔は見えない。
 冬之助が足を止め、目を細めて、その武士をじっと見つめる。
 冬之助のそばまで来ると、その武士が菅笠を取り、
「養玉(ようぎょく)先生」
 腰を屈め、丁寧に頭を下げる。
「おお、源五郎殿ではないか」
 冬之助が思わず大きな声を発する。
 太田資正(すけまさ)である。
「ご無沙汰しております」
「驚きましたぞ。一人ですかな?」
「供を何人か連れておりますが、あまり物々しくしてはいけないと思い、離れたところに待たせております」
「そのような気遣いをせずとも構わぬものを」
「訪ねてよいものかどうか迷いました。先生にご迷惑がかかるのではないか、と」
「なぜ、迷惑などと?」
「今や北条の勢力が下野にも及んでおりますれば、わたしと親しく語らう姿を余人に見られてはまずいだろうと考えました」
「足利学校から巣立った軍配者は、北条にも長尾にも武田にもいる。わしらは誰に味方することもないし、どこの家中の者とも分け隔てなく交わる。わしが源五郎殿と語らったとて、誰も気にせぬよ。まだ朝飯を食っておらぬのであろう。もうすぐできるから食っていきなされ」
「先生と少しお話しできたら、すぐに立ち去るつもりでおりました」
「では、歩きながら話そうかのう」
「はい」
「最後に会ったのは......」
「長尾の御屋形さまが鶴岡八幡宮で関東管領職に就き、山内上杉の家督を継いだときにお目にかかって以来ですから、三年と四ヶ月くらいになるでしょうか」
「時の経つのは早いものだ。あの後、川中島で武田と戦い、わしは長尾家を辞して、この足利学校に戻った。それ以来、戦には出ていない。源五郎殿は、絶え間なく戦に出ていたのであろう」
「この三年は負け戦ばかりでございます。ご存じでしょうが、今年の正月には国府台(こうのだい)で大敗を喫しました」
「大変な戦だったとは聞いている。源五郎殿はどうしただろうかと心配していたので、こうして無事な姿を見ることができて嬉しく思いますぞ」
「死に場所を求めてうろうろしているだけのような気がします。前世の悪行の報いなのか、いつまでも死ぬことができず、こうして惨めな姿をさらし続けております」
 資正が自嘲気味に口許を歪める。
「そのようなことを口にしてはなりませぬぞ。何度負けようと、生きてさえいれば、やり直すことができる。死んだら終わりなのだから、生きているだけで尊いことなのですよ」
「国府台で敗れ、敵兵に組み伏せられて、ここで死ぬのだと諦めました。ところが、その敵兵が物知らずで、鉄の首輪を外さずに小柄を首に当てるから、わたしの首を取ることができなかったのです。馬鹿馬鹿しいと思いつつ、まずは首輪を外して、それから小柄を当てよと教えてやりました。敵兵がもたもたしているところに郎党が駆けつけ、その敵兵を引きはがしたので、わたしが立ち合いました。自分が死ぬつもりだったのに、敵兵を斬って、その場を生き延びました。里見の敗残兵と共に下総から上総へと逃げ、どこかで態勢を立て直したかったのですが、北条の追撃も急でしたし、負け戦の常ではありますが、里見方の武将たちがいがみ合いを始めたので、どうにもなりませんでした。身ひとつで、ようやく岩付城に戻ることができたのが五月のことです」
「そうでしたか。苦労したのですなあ」
「戦に負けて自信を失うと血の巡りも悪くなってしまうのだと思い知らされました」
「どういう意味ですかな?」
「国府台の戦で勝った北条軍は、その勢いのまま下総と上総に雪崩れ込んできました。今や里見は本国の安房に追い詰められ、何とか安房だけは守り抜こうと必死です。しかし、北条の目は房総だけに向いているわけではない。戦に勝てば、心に余裕ができるから視野も広くなる。支配地を見回せば、武蔵に目障りな城がひとつある」
「岩付城ですな」
「北条は松山城を奪いましたから、武蔵に残る目障りな城は岩付城だけなのです。国府台で勝利した北条が岩付城をそのまま放置しておくはずかない。わたしが下総や上総を逃げ回っていた五ヶ月ほどの間に何らかの手を打ったと考えるのが当然です。血の巡りが悪くなったというのは、そのことに考えが及ばなかったという意味です」
「......」
 なぜ、資正がここにやって来たのか、ようやく冬之助にも察せられる。
 しかし、余計なことを言わず、黙って資正の話に耳を傾ける。
「岩付城は北条に攻められたわけではありません。ということは、戦とは違う手段で岩付城を手に入れようとしている、と考えるべきでした。そもそも、北条といえば、戦よりも調略で手に入れた城の方が多いと言われるほど調略に長けた家なのですから。わたしが岩付に戻ったとき、倅も家臣たちもひどく驚いておりました。国府台で死んだと思っていたのでしょう。驚いてはいたが、喜んではいなかった。普通の状態であれば、何かおかしいぞ、と警戒したでしょうが、ようやく故郷に戻ることができたことに安堵して、気が緩んでしまったのです」
「それは仕方がありますまい。誰でも、そうなるでしょう。苛酷な戦いを生き抜いて故郷に戻ったのですから」
「すでに調略の手が伸びていて、倅も重臣たちも北条に従うことを決めていたのです。そんなことも知らずに、のこのこと帰城したわけです。己の愚かさをどう言い表せばいいのか......」
 資正が重苦しい溜息をつく。
「......」
 冬之助には資正を慰める言葉がない。
「殺されなかったことを喜ぶべきでしょうか? それとも、城から追い出されたときに、城の前で腹を切ればよかったでしょうか? そんなことも、ちらりと考えましたが、そうはせず、何人かの家来を連れて、おとなしく岩付を去りました。家族からも家臣からも捨てられ、この世に身の置き所がなくなったので、岩付を出て、すぐに出家しました。まだ得度していませんが、とりあえず、三楽斎(さんらくさい)と名乗りを変えました」
「ほう、三楽斎殿ですか。これから、どうなさるのですか? 岩付城を取り戻すおつもりですかな」
「養玉先生のお力添えがあれば、できぬことではないでしょう。しかし、その気持ちはありませぬ」
「もう岩付には未練はない、ということですかな」
「出家したとき、自分が岩付の城主だったことは忘れました。あの城にこだわるつもりはありませんし、倅と干戈を交えたいとも思いませぬ。先のことはわかりませぬが、少なくとも、今はそんな気持ちにはなれぬのです」
「どこに行くつもりですか? 越後ですかな」
「ああ、越後か。それがいいのかもしれませぬ。しかし、正直に言えば、何も考えていないのです。ひどく疲れてしまったので、あまり先のことを考えることができませぬ。これからどうするのか、何をしたいのかと問われれば、しばらく温泉にでも浸かって骨休みしたいというのが本音です。まあ、そんなことは無理なのですが」
 資正が苦笑いをする。
「ここにいればよい」
「足利学校にですか?」
「学生たちは源五郎殿の話を聞きたがるでしょう。よい教授になれますぞ」
「その申し出には心を惹かれます。養玉先生と共に古今の戦について思いを巡らせるのは、何と楽しそうなことでしょうか」
「ならば、ぜひ」
「そうしたいのは山々ではございますが......」
 資正が立ち止まり、袖で目許を拭う。涙が溢れたのだ。
「源五郎殿......」
「養玉先生は、何と優しい御方でありましょう。歴史に名を残すほどの戦名人でありながら、先生には欲というものがない。扇谷上杉の御屋形さまが最後まで先生を信じ、先生に軍配を預けて、何もかも任せていれば、家が滅びることもなかったでしょう。返す返すも残念でなりませぬ」
「それが人の世というものでござるよ。この世には薄汚い欲が満ちている。嫉妬も多い。敵を憎むより、味方を憎むことが多いのです。敵と戦う以前に、まず味方と戦わなければならぬのだと、この年齢になって、ようやく悟りました」
「今のわたしには耳の痛い言葉です」
「あ」
 冬之助がハッとする。まさしく資正は、最も信頼する味方に裏切られて岩付から追い出されてきたばかりなのである。
「嫌味でも皮肉でもありません。申し訳ない」
 冬之助が頭を下げる。
「いいえ、謝ることはありません」
 資正が顔を上げ、東の空を見上げる。
 地平線から太陽が昇り始めている。夜明けである。
「日は沈み、日は昇る。わたしも今は沈んでいますが、また昇る日が来るかもしれませぬ。そういう気持ちになれれば、という話ですが」
「源五郎殿はいくつになられる?」
「四十三......だったような」
「まだまだ若い。わたしなど、もう六十一です。心残りがないよう、あと何年か、思いきり暴れ回り、五十になったら、ここに来なさい」
「そうしたいものです」
 資正がにこりと微笑む。
「友よ」
 冬之助が資正の肩に手をかける。
「命を惜しまねばなりませぬぞ」
「心得ておきます」
 資正がうなずく。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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