北条氏康 巨星墜落篇第十二回
第二部 足利学校
一
里見軍が国府台で大敗し、里見義弘を始めとする主立った武将たちが安房方面に敗走したことを、長尾景虎は常陸にある小田氏治(うじはる)の本拠・小田城の郊外で知った。
床几に坐って使者からの報告を聞くと、景虎は何も言わず、右手に持った青竹でぴしりぴしりと自分の足を打った。その表情には無念さとやりきれなさ、それに一種の徒労感も滲んでいる。
本当であれば、常陸にいるはずではなかった。
里見義弘と共に葛西城を包囲し、北条軍との決戦に備えていたはずなのだ。
氏康と氏政を葛西城に誘い出し、それを南北から挟撃しようという壮大な計画だった。
しかし、画餅に終わった。
景虎は葛西城に赴くことができず、里見義弘は単独で北条軍と戦って敗れた。
そうなった最大の原因は武田信玄である。
信玄が甲斐に帰らず、西上野で越年したことで、景虎は迂闊に動くことができなくなった。厩橋(まやばし)城を出て南下すれば、背後を武田軍に襲われる心配があった。武田軍だけが相手であれば、どこかで方向を転じて信玄との決戦に臨むという手もあるが、それができないのは、北条軍が北上して、長尾軍が挟み撃ちにされる怖れがあるからであった。
いかに戦上手の景虎とはいえ、武田信玄と北条氏康という名将に挟撃されては勝ち目がない。
だから、自重した。動くに動けなかった。
とは言え、北条軍と里見軍が対峙している状況では、いつ戦が始まってもおかしくないから、景虎も動かざるを得ない。
厩橋城から南下し、上野から武蔵に向かうと挟撃の怖れがあるから、武蔵ではなく下野に向かい、大きく迂回して国府台に行こうとした。
常陸の佐竹義昭から、小田氏討伐の援軍要請も来ているから一石二鳥である。
景虎は小田氏治など歯牙にもかけていない。国府台に向かう途中で打ち負かしてやろうと考えた。
そんな意気込みで常陸に入り、小田城を遠望しつつ、長尾軍が布陣したときに里見軍の敗北を報じる使者がやって来たわけである。
(松山城のときと同じだ)
景虎は歯軋りする思いだったであろう。
あと一日で松山城に到着し、武田と北条の連合軍と決戦できるという地点に達しながら、城将の上杉憲勝が腰砕けになって降伏した。
せっかく振り上げた拳を、景虎は振り下ろすことができなかった。
(今度は三日というところか)
小田城を落とし、国府台に到着するのは、早ければ三日後、松山城はあと一日で決戦を逃したが、今回は三日で逃した、と言いたかったのであろう。
景虎は、やる気を失った。
すぐにでも小田城を攻め落とすつもりでいたが、何日か放置した。その間に兵たちは近在の農村を襲って食料を調達した。
「急いで城攻めをお願いしたい」
佐竹義昭が何度も催促する。
「そうか」
ようやく景虎は重い腰を上げて小田城を攻めることにした。佐竹義昭にせっつかれたこともあるが、城を落とさないと、いつまでも常陸に釘付けにされてしまうからであった。国府台に行く必要がなくなったのであれば、厩橋城に戻りたい。もたもたしていると、信玄が上野で何をするかわからないからだ。
小田氏治は三十一歳で、景虎の四歳年下である。
蛇足ながら、この二人は、歴史上、かなり対照的な立場に位置付けられている。
この時期、長尾景虎の強さは広く知れ渡っており、武田信玄や北条氏康ほどの名将が単独での決戦を避けるほどであり、後のことだが、天下人となった織田信長が景虎を徹底的に怖れたのは有名な話である。
景虎は、その死後、神格化され、江戸時代には戦国時代最強の武将という評価が定着した。
最強がいれば最弱がいてもおかしくない道理だが、戦国時代最弱の武将は誰か、という話になったとき、必ずや、その候補に挙がるのが小田氏治である。
十三歳の初陣で敗れてから、その後の人生は負け戦の連続である。
そもそも、その初陣というのが有名な河越の合戦であり、北条氏に敵対したことで、北条氏と手を結んだ佐竹氏から圧迫されることになった。
その後、氏康に臣従を誓ったり、長尾景虎が関東に出てくると、今度は景虎に味方したりと、風見鶏の如く、ころころと主を替え、今は北条氏に味方しているから景虎に攻められる羽目になった。
氏治は景虎の強さをよく知っているから、籠城は無駄だと覚悟を決め、景虎に包囲されないうちに、三千の兵を率いて小田城から打って出た。
迎え撃つ長尾軍は八千である。
これだけの兵力差があるのでは、たとえ相手が凡将でも勝ち目が薄いのに、まして相手は景虎である。
かなうはずがなかった。
一戦して、氏治は敗れ、小田軍は壊滅した。
これを山王堂(さんのうどう)の戦いと呼ぶ。
氏治は城に戻らず、そのまま逃げた。景虎に勝とうとして出陣したのではなく、逃げ道を確保するために出陣したのではないかと疑いたくなるほど逃げ足が速かった。
その生涯で、氏治は小田城を九回落とされている。
生きてさえいれば、城を何度落とされようが、また奪い返す機会が訪れると達観していたかのようである。氏治にとっては、城を捨てることなど屁でもなかったのであろう。
あとの始末を佐竹義昭に任せると、直ちに陣払いして、景虎は常陸を後にする。
そのまま下野を抜けて厩橋城に帰るつもりだったが、途中で気が変わった。
唐沢山城の佐野昌綱を攻めることにした。
佐野昌綱も小田氏治と同様、北条氏と長尾氏の間で揺れ動く風見鶏であった。
初めは古河(こが)公方・足利晴氏に仕えていたが、晴氏が氏康に圧迫されて膝を屈すると、昌綱は氏康に臣従した。
景虎が越山すると、その呼びかけに応じて参陣し、小田原攻めにも加わった。小田原攻めが失敗し、景虎が越後に帰ると、また北条氏に寝返った。
小田氏治にしても佐野昌綱にしても、強大な大国の狭間で小国が生き残る手段として、その時々の状況に応じて主を替えただけだが、景虎は、そういう風見鶏が大嫌いなのだ。
小田氏治があまりにも歯応えのない相手だったので、鬱憤晴らしに佐野昌綱を血祭りにあげてやろうと考えた。
唐沢山城を包囲しているとき、思いがけない客が景虎の前に現れた。
曾我冬之助である。今は足利学校で教授となり、俗名を捨てて養玉(ようぎょく)と称している。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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- 第十九回2025.04.23