北条氏康 巨星墜落篇第四十四回
二十七
十月下旬、太郎丸と小次郎が冬之助に呼ばれ、その居室を訪ねた。
「先生、お呼びだそうですが」
「そこに坐りなさい」
冬之助は火鉢から鉄瓶を取り上げると、三つの茶碗に湯を注ぐ。それぞれの茶碗に、ひとつまみの茶葉を入れて、二人に茶碗を差し出す。
「いい香りだろう。心が落ち着く」
冬之助が茶を飲む。満足げに表情が緩む。
「このあたりでは、なかなか、よい茶が手に入らぬ。これは宇治で採れた茶でな。出入りの商人に頼んで、都から取り寄せている。高価なものだし、今のわしには贅沢すぎるとわかっているが、他に楽しみもないのでな」
「実は、わたしも先生にお話ししたいことがありました」
小次郎が言う。
「そう慌てるな。熱いうちに茶を飲みなさい」
「せっかくの先生の厚意なんだ。いただこう」
太郎丸が茶碗を手に取る。
「うむ」
小次郎も茶を飲むが、どことなく渋い顔である。
「この頃、ふと考えることがある。戦に勝つために最も大切なことは何なのか、とな。足利学校の学生たちは優秀だ。書物をたくさん読み、知識も豊富だ。古今東西の多くの合戦を教材とし、それから多くのことを学んでいるから様々な軍略も身につけている。だが、それだけでは足りぬ」
「何が足りぬのでしょうか?」
太郎丸が訊く。
「わしは今までに何人もの武将に仕え、名将と賞賛される人たちにも接してきた。優れた軍配者にも会った。武将にしろ、軍配者にしろ、人より抜きん出ている者というのは、窮地に陥ったときに、慌てない者だと知った。旗色が悪くなると、普通は慌てる。落ち着きを失うと、正しい判断ができなくなる。学生たちは、ここで多くのことを学んでいるが、実際に敵と戦っているわけではない。学校の外から鬨(とき)の声が聞こえるわけではないし、鉄砲で撃たれたり、矢で射られるわけではない。安全な場所で学んでいるに過ぎぬ。命の危険にさらされた場所でも同じ判断ができるのか? それは、ここでは教えようがない。わしの知る限り、武将として最も優れているのは越後の上杉殿であろう。戦に関して、あれほど強い御方はおらぬし、なぜ、戦に負けないのか、わしにもわからぬ。しかも、苦しくなればなるほど強さを発揮する。泉から絶え間なく水が溢れる如くに鬼謀が湧き出てくるのだ。どんなときにも冷静で、落ち着いておられた。実にすごい御方である。もっとも、それは戦のときだけで、政を執るときには、しばしば冷静さを失っておられた。平時でも戦時でも冷静でいられる人は、なかなかいないということだろう。わし自身、いつでも冷静ではいられないが、少なくとも、そうしようと努めてはいる。人間というのは、自然に優れた人間になるのではない。優れた人間になろうと努力しなければ、いつまでも変わることはできぬ」
冬之助が茶碗を床に置き、二人をじっと見つめる。
「おまえたちが優秀なのは、よくわかっている。二人とも、よい軍配者になるだろう。だが、それだけでは足りぬ。武田と北条を背負っていく軍配者は、誰よりも優れていなければならぬのだ。そのためには戦時に冷静であることはもちろん、平時にも冷静でなければならぬし、それができるように努めなければならぬ。わしの言いたいことがわかるか?」
「はい」
太郎丸はすぐに返事をするが、小次郎は黙っている。
「なぜ、おまえは返事をしないのだ?」
冬之助が小次郎に訊く。
「わたしが小田原に帰るつもりでいることを、先生はご存じなのですね。それは冷静さを失っているからだ、そうおっしゃりたいのでしょうか?」
「こいつ、養玉(ようぎょく)先生に向かって、何という失礼な言い方をするのだ」
太郎丸が慌てる。
「構わぬ」
冬之助が太郎丸を制する。
「おまえが考えていることを述べてみよ」
「北条氏は、今、大変なときです。ここで悠長に学問しているより、小田原に戻って、敵と戦うべきだと思うのです」
「亡くなった氏康殿の代わりを務めるとでも言いたいのか?」
冬之助が厳しい顔で小次郎を見つめる。
小次郎が退校願いの届けを出したことを、鉄牛(てつぎゅう)から聞いた。理由は想像できるから、すぐさま二人を呼んだ。小次郎だけでなく、太郎丸も一緒に呼んだのは、二人が実の兄弟よりも親しく、信頼し合っている仲だと承知しているからだ。
北条氏の三代目、氏康は十月三日に薨(こう)じた。
すでに葬儀は終わり、遺骨は箱根の早雲寺に埋葬されたと冬之助は聞いている。
早雲寺に詣でて、香華(こうげ)を手向けたいのであれば、退校するのではなく、休暇届を出せばいいだけだ。
にもかかわらず、小次郎が退校しようとしているのを知って、冬之助は先行きを危惧したわけである。
「そんな大それたことを考えているわけではありませぬ。ただ、今は一人でも二人でも戦う者がいれば、お家の役に立つだろうと考えただけです」
「おまえは刀の扱いがうまいのか?」
「いいえ」
「鉄砲が得意なのか、それとも、弓矢か?」
「どちらも苦手です」
「ならば、何の役にも立たぬ。戦に出たその日に殺されて雑兵首になるだけだ」
「......」
さっと小次郎の顔色が変わる。
「人には、それぞれ与えられた役目がある。おまえを雑兵にしたいのであれば、氏康殿は、おまえを足利学校に送ったりしなかったであろう。いずれ一人前になれば、百人の兵よりも役に立つ軍配者になると期待したのではないか。おまえは、その期待を裏切ろうとしている。氏康殿の死を知って動揺するのはわかる。しかし、冷静に考えれば、おまえが為すべきことは、ここを辞めて小田原に戻ることではなく、今まで以上に学問に励むことだと容易にわかるはずだ。そんなこともわからぬようでは、氏康殿も浮かばれぬわ」
「......」
冬之助の厳しい物言いが堪えたのか、小次郎の目に涙が溢れる。
「先生、さすがにその言い方は、ひどすぎるように思われますが」
太郎丸が思わず口にする。
「優れた軍配者は敵の心を読まなければならぬ。敵の心を読むことは味方の心を読むことでもある。おまえが小田原に戻って、誰が喜ぶのだ? 氏政殿は愚かではない。おまえのような半人前の役立たずが学業を放り出して帰国したことを怒るであろう。おまえなど必要ないと言われたら、どうするつもりなのだ?」
「そのときは腹を切る覚悟です」
「信じられぬ。ここに本物の馬鹿がいる。それこそ犬死にではないか。よいか、春渓(しゅんけい)、おまえの命はおまえのものではない。北条の家臣として、おまえの命は主である氏政殿のものなのだ。家臣が主のために命懸けで戦うというのは、そういうことなのだ。今日まで、ここで何を学んできたのだ? 仏典を読みすぎて、武士として生きる道を見失ったか」
「いいえ、そんなつもりは......」
「わしの言うことがわからぬか?」
「頭ではわかります。先生のおっしゃることは正しい。しかし、御本城さまがお亡くなりになれば、今度こそ、武田が小田原に攻めてくるでしょう。小田原を守るために戦いたいのです」
小次郎が興奮気味に語る。
「それは本気か? 武田と戦うために帰国したいというのは」
「はい」
「ならば、その必要はない。武田とは戦にならぬ」
「え」
小次郎だけではない。
太郎丸も怪訝な顔になる。
「なぜでしょうか?」
「武田と北条は和睦するからだ。恐らく、氏康殿の遺言なのであろう。遠からず盟約が結ばれるはずだから、小田原が攻められることはない」
「......」
太郎丸も小次郎も言葉を発することができない。
氏康が亡くなる直前、九月にも武田軍は伊豆に攻めこんで韮山(にらやま)城を攻めている。
すでに深沢城を奪っているから、韮山城を落とせば、駿河と伊豆の二方面から小田原に向けて進撃することが可能になる。
氏康が亡くなって北条氏が浮き足立っている今、信玄にとっては小田原攻めの絶好機が訪れたと言っていいはずである。
なぜ、和睦などする必要があるのか?
それを太郎丸が口にすると、
「戦の勝ち負けだけにこだわる軍配者であれば、決して和睦を受け入れぬであろう。しかし、信玄殿は軍配者ではない」
冬之助が言う。
「どういう意味でしょうか?」
「信玄殿は小田原などほしくない、ということだ」
「小田原を攻め落とし、そのまま東に進めば、伊豆だけでなく、相模も手に入るかもしれませぬ」
「そうだな。時間はかかるかもしれぬが、うまくいけば、そうなるかもしれぬ。だが、そんなことを信玄殿は望んでおらぬであろうよ。わしは武田が駿河に攻めこんだとき、信玄殿は港がほしいのだな、と考えた。甲斐と信濃には港がない。港がなければ他国との交易が不自由だ。それ故、徳川と手を組み、駿河を東西で分け合うつもりなのだろうと考えた。しかし、間違っていた。信玄殿は、わしが思っていたより、はるかに巨大な英雄だとわかった」
「......」
太郎丸と小次郎がまた顔を見合わせる。冬之助の言うことが理解できないのだ。
「駿府を攻め落とし、駿河の東半分を信玄殿は手に入れた。そこに北条が出てきて、今川の後押しを始めたから、否応なしに北条と戦うことになった。その戦いがずっと続いている。わしが最初におかしいと感じたのは、信玄殿が盛んに遠江に兵を入れたことだ。本当であれば、北条との戦いに専念するために徳川との盟約をしっかり固めるのが当たり前なのに、徳川の神経を逆撫でするようなことばかりした。その揚げ句、徳川は武田と手を切って、北条と盟約を結んでしまった。おかしいと思わぬか?」
「そう言われると、確かに」
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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