北条氏康 巨星墜落篇第四十五回

 二人がうなずく。
「なぜ、信玄殿は、わざわざ徳川を怒らせたと思う?」
「東ではなく、西に向かうつもりだから......そういうことでしょうか?」
 小次郎が言う。
「いずれ西に向かうことになれば、どっちみち徳川とは衝突することになるから、徳川との盟約を重んじる必要はないということかな」
 太郎丸がうなずく。
「西には何がある?」
「都です」
 小次郎が答える。
「そこには誰がいる?」
「将軍家がおられます」
「その将軍を操っているのは誰だ?」
「織田信長殿です」
「つまり、信玄殿の考えを知るには、信長殿の動きを知らなければならぬということだ。信長殿は織田幕府を開くつもりなのではないか、とわしは疑っている」
「え、幕府を?」
「まさか、そんな」
 太郎丸と小次郎が驚いて顔を見合わせる。
「そう驚くことはない。かつて源頼朝は平氏を倒して鎌倉に源氏の幕府を開いた。足利尊氏は鎌倉勢を打倒し、後醍醐帝を追い払って都に足利氏の幕府を開いた。信長殿が同じことをしても不思議はあるまい」
「武田が西に向かうのは信長殿を討つためなのでしょうか? だから、東ではなく、西に目が向いている、と」
「信長殿が足利幕府を倒していいのなら、信玄殿が信長殿を討ち、武田幕府を開いても構わぬという理屈になる。考えてもみよ。信玄殿は若い頃から苦労に苦労を重ねて、甲斐から信濃に攻めこんで二カ国の大名になった。今は、それに西上野と駿河が加わっている。北条との戦いに勝てば、伊豆と相模も手に入るかもしれぬが、それには何年もかかるだろうし、成功するかどうかもわからぬ。それほど苦労しても、たかだか数カ国を領することしかできぬのだ。だが、都に武田の旗を立て、将軍として天下に号令する立場になれば、一躍、日本の支配者になることができる。いくつもの国を簡単に奪うことができるほどの力を持つのだ。わしの耳には、諸国に散らばっている卒業生たちから多くの噂話が届けられる。将軍は信長殿の横暴な振る舞いに腹を立てているらしい。将軍だけではない。本願寺も怒っているし、浅井や朝倉もそうだ。彼らは信玄殿に期待している。将軍は、信玄殿が上洛すれば副将軍に任ずると約束したというし、浅井と朝倉は武田の先鋒を務めたいと申し出ているそうだ。本願寺も協力を惜しまぬという。つまり、信玄殿が都に向かう道は平坦そのもので、誰もが歓迎しているのだ。織田と徳川以外は、ということだがな」
「それが本当であれば、北条からの和睦の申し出は、武田にとっても好都合ということですね?」
 小次郎が言う。
「そうだ。氏康殿が亡くなった今、氏政殿は戦ではなく、内政に力を入れたいはずだ。長きにわたる武田との戦で民も疲弊しているであろうしのう。信玄殿も北条と和睦すれば、すべての力を上洛戦に振り向けることができる。この和睦は、双方にとって旨味がある。恐らく、和睦して、すぐに以前のように盟約を結ぶことになろう」
「しかし、北条は上杉と盟約を結んでおりますが」
「何の役にも立たぬ盟約だ。破棄するであろうよ」
「上杉が怒って信濃に攻めこめば、信玄殿も都に向かうのは難しくなるのではないでしょうか?」
「わしの話を聞いていたか? 信玄殿の上洛を将軍も本願寺も待ちわびているのだ。当然、彼らは上杉に使者を送り、武田の邪魔をしないように要請するはずだ。上杉の御屋形さまは、その要請を断ることはできまい」
「氏康殿が亡くなって間もないのに、そんな様々なことが起こっていたとは......」
 太郎丸が驚きを隠しきれない様子で首を振る。
「おまえが小田原に戻っても、何もすることはないのだ。武田との戦はないのだからな。戦に出る必要もない。半人前の軍配者が戻って来ても、氏政殿は喜ばぬぞ。おまえが必要とされるのは、今ではない。もっと先のことだ。いずれ氏政殿の方から春渓を戻してくれと言ってくるはずだから、それを待てばよい。わかったか、春渓」
「わたしが愚かでございました」
 小次郎は両手を床につき、ぽろぽろと涙をこぼす。
「わかればよい。これもまた学問、ひとつずつ学んでいくのだ。但し、戦の学問ではない。人生の学問ということだがのう」
 ふーっと大きく息を吐くと、冬之助は鉄瓶を取り上げ、茶碗に湯を注ぐ。また茶が飲みたくなったらしい。

 十月三日に氏康が亡くなると、氏政は葬儀の準備を進める傍ら、武田に使者を送り、和睦と同盟締結を打診した。
 信玄の反応は早かった。
 こういう場合、自分に有利になるように様々な駆け引きをするのが普通だから、何度となく小田原と甲府の間を使者が行き来することになるはずだった。
 ところが、信玄は、その種の駆け引きを一切せず、
「承知した」
 と、氏政の使者に伝えた。
 冬之助が推測したように、一日も早く上洛戦を始めるために、信玄自身、北条氏との和睦を強く望んでいたのだ。氏政からの使者の到着がもう少し遅ければ、武田の方から和睦を打診する使者が来たかもしれない。氏康の死が、両家の関係を劇的に改善させる起爆剤になることを信玄も見通していたわけである。
 使者が小田原に戻り、信玄の意向を氏政に伝えて間もなく、甲府から使者がやって来た。和睦と同盟に関する条件提示である。あまりの素早さに氏政の方が驚いたほどだ。
 ひとつ、上杉との盟約を直ちに破棄すること。
 ひとつ、西上野以外の関東諸国に関し、北条氏の領有を認めること。
 ひとつ、武田に人質を差し出すこと。
 ひとつ、今川氏真(うじざね)を追放すること。
 細かい条項はいくつもあるが、主立った内容は、この四つだけである。
 ごく常識的な内容であり、どちらかといえば、北条氏にとってありがたい内容になっている。
 氏真の追放についてのみ、氏政はいくらか迷った。形の上では、氏真は国王丸の父である。氏真の養子になることで、国王丸は今川の家督を継いだからだ。
 国王丸はまだ幼いから、その後見役という立場が氏真には約束されている。
 とは言え、現実には駿河は武田氏が支配しているから、国王丸が今川の家督を継いだところで、現実的な利益は何もないし、後見役として氏真がすべきこともない。北条氏が武田氏を駿河から駆逐したときに初めて、この家督相続が大きな意味を持つのだ。
 しかし、氏政は武田との和睦、同盟締結という道を選んだ。それは武田の駿河領有を認めることだから、氏真が駿河に戻ることもなくなった。
 そうであれば、北条氏にとって、氏真は何の価値もない。約束を反故にするという点で、いくらか道義的な責任があるだけである。
 氏康が健在であれば、いかに阿呆であろうと、娘婿を最後まで庇おうとしたかもしれないが、もう氏康はいない。氏政の胸ひとつである。
 本音を言えば、氏政は氏真が大嫌いである。顔を見るのも嫌だし、話をするのも嫌なのだ。
 虫酸が走るのである。
 氏真の妻となっている妹との夫婦仲が睦まじいというのなら話も変わってくるだろうが、好色な氏真が妹を蔑ろにして女遊びにうつつを抜かしていたことも知っている。だから、子供もいない。
 それでも今川家とは政治的軍事的な繋がりが深く、己の好き嫌いとは別の次元で付き合っていかなければならないから、感情を押し殺して我慢してきた。その必要がなくなった。氏真には何の利用価値もなくなり、氏政の悪感情だけが残っている。
(捨てるか......)
 そう決めた。
 直ちに甲府に使者が送られ、提示された条件をすべて受け入れると伝えた。
 武田からは、上杉に絶縁状を送り、その写しを甲府に送ってもらえれば、その時点で和睦成立と見做すという返事が来た。
 和睦と盟約締結の作業は円滑に素早く進んだ。
 十一月十日、氏政は謙信に絶縁状を送り、上杉との同盟を破棄することを通告した。すぐさま謙信から氏政を詰問する内容の書状が届いたが、氏政は無視した。
 これに怒った謙信は春日山城から出陣し、十一月下旬に厩橋城に入った。氏政に対する恫喝である。
 これに対しても、氏政は目立った反応を示さなかった。すべて織り込み済みなのである。
 謙信は上野の北部で暴れるかもしれないが、南下して松山城や河越城を攻めるだけの兵力はないし、今の上野には謙信に味方する豪族もほとんどいないと見切っていたのだ。
 実際、その通りになった。
 謙信は厩橋城で年を越すが、これといった活動をしなかった。
 いや、できなかった。
 上野や下野など、それまで謙信に従って北条氏と戦った豪族たちに参集を要請する書状を送ったが、それに応える者はいなかった。
 急な出陣だったので、謙信が越後から率いてきた兵は五千ほどに過ぎない。その程度の兵力で北条氏の領国内を暴れ回るのは、さすがの謙信にも難しい。だから、動くに動けなかった。
 謙信の動きを横目で見つつ、氏政は武田との同盟交渉を推し進めた。その結果、十二月中旬には同盟が成立した。それに伴って国分けも行われ、国境付近で争っていた土地や城について、どちらが領有するか明確に定められた。
 氏康が亡くなってから、わずか二ヶ月ほどで、以前のように強固な武田と北条の同盟が復活した。その素早さには氏康も驚いたであろうし、氏政の意外なほどの有能さを見直して感心したかもしれない。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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