北条氏康 巨星墜落篇第三回
四
今川氏真が氏康に会ったのは八月二日である。
本当であれば、氏康はとうに上野に向けて進軍しているはずだったが、長雨が続いたせいで利根川の水嵩が増し、渡河することができず、川の畔で立ち往生した、そこに氏真がやって来た。
同じ頃、武田信玄も甲斐から西上野に侵攻している。北条軍の軍事行動は信玄との共同作戦だったわけである。両軍は上野で合流する予定だったが、雨のせいで予定が大きく狂った。
ようやく水が減って利根川を渡ることができたのは九月九日だから、北条軍はひと月以上もの足止めを余儀なくされたことになる。
ただ、氏康と氏政にとって、この足止めでひとつだけいいことがあった。氏真がどういう人間なのか、じっくり見極めることができたのである。
「悪い評判ばかり耳にするので、よほど愚かで嫌な人間かと思っていましたが、そんなこともありませんね。噂とは当てにならぬものだとわかりました」
氏政が言うと、氏康も、うむ、とうなずき、
「確かに悪い人間ではない。ただ......」
「はい?」
「平穏な時代であれば、わしも心配しないが、今はそういう時代ではない。すぐに今川が滅びることはあるまいが、これから先、以前のような勢いを取り戻すのは難しかろう」
「少しずつ衰えていくということですね」
実際に氏真と会ってみると、世間で噂されるように暗愚ではないと氏康も氏政もわかった。
それどころか、かなり賢いし、優れた面も多い。
ただ、その優れた面が政治とも軍事とも無縁だということが問題であった。
氏真は文化人なのである。古典の素養は学者になれるほど豊富だし、笛や太鼓も素人の域を超えている。絵画や彫刻などの美術品に関する造詣も深い。
和歌を詠むのもうまい。
頻繁に連歌会を催し、わざわざ都から専門の連歌師を呼び寄せることもある。彼らが舌を巻くほど氏真は連歌に巧みである。
それだけでも、この時代、第一級の文化人と言えるが、和歌よりも優れていたのが蹴鞠の才能である。氏真ほど蹴鞠がうまい者は都にも滅多にいないと言われ、高々と鞠を蹴上げながら、池の飛び石を軽々と跳び渡ることができたという。
蹴鞠に関する挿話は多い。
例えば、十二年ほど後の話になるが、着々と天下布武を推し進めている織田信長と氏真が京都の相国(しょうこく)寺で対面している。長篠の戦いの直前である。
対等の立場で会ったわけではない。とうに今川は滅び、氏真は大名ではなくなっている。氏真が頭を垂れ、信長に膝を屈したのである。
「蹴鞠を見せよ」
と、信長に命じられ、
「喜んで」
蹴鞠自慢の公家たちと共に信長に蹴鞠を披露した。
信長は、この種の公家遊びには無感動で、蹴鞠にも連歌にも何の関心も持っていない。
その信長ですら、
「ほう」
と身を乗り出して、氏真の技に見入ったというから、氏真の技は名人の域に達していたのであろう。
「見事である」
信長は氏真を賞賛し、褒美の品を気前よく与えた。
「ありがたき幸せにございまする」
氏真は顔が真っ赤になるほど興奮し、喜びを抑えきれない様子で感謝の言葉を述べたというが、桶狭間で父・義元を討ち果たし、今川家滅亡のきっかけを作った信長にどんな気持ちで媚びを売ったのであろうか。
氏真は長命で、江戸時代まで生きたが、最後は家康の家臣として世を終えている。亡くなる二年前には家康のご機嫌伺いにわざわざ駿府に出向いている。
そういう男だから、信長の面前で蹴鞠を披露することにも、特にこだわりはなかったのかもしれない。
氏真は生まれる場所を間違えた。
武門ではなく、公家の子として生まれていれば、恐らく、日本の文化芸能史に名前を残すほどの巨人になったであろう。
だが、現実には今川家の主であり、文化人ではない。
氏康と氏政がいくらか安堵したのは、氏真は当主としての仕事を祖母の寿桂尼(じゅけいに)に丸投げして、趣味の世界に没頭していたことである。中途半端に政治に容喙してしくじるくらいなら、何もしない方がましである。
義元が亡くなってから今川の家中では混乱が続いており、その混乱に乗じた家康が遠江を侵食しているが、まだ駿河に手を出すには至っていない。
氏真が直に政(まつりごと)を執っていれば、混乱は更に大きくなり、駿河本国も家康に脅かされていたかもしれない。そうならなかったのは、寿桂尼が無難な舵取りをしているからだと氏康も氏政も納得する。老いたとはいえ、寿桂尼には優れた政治感覚が備わっているのである。
そうとわかれば、援軍の押し売りも氏真の発案ではなく、寿桂尼に勧められてのことだと察せられる。いずれ外敵が駿河に迫ったとき、今川だけでは対応できないだろうから、今のうちに北条に恩を売っておこうという考えに違いなかった。
「寿桂尼殿一人では荷が重かろう」
氏康が重苦しい溜息をつく。
「そうですね」
氏政には氏康の言いたいことがわかる。
氏真にとっても寿桂尼にとっても不運だったのは、義元が桶狭間で敗死したとき、義元を支えていた有能な重臣たちが何人も討ち死にしたことである。義元が頼りにしていた者たちで唯一生き残ったのが家康で、その家康は今川と手を切って自立する道を選んだ。重臣たちが生き残っていれば、家康も、そう簡単に自立などできなかったであろう。
今川の柱石とも言うべき者たちが揃って死ぬのを見て、
(後に残った者たちは、大したことがない。どうにでもなる)
と侮り、家康は今川との手切れを選択した。
義元は、義元自身も優れた器量の持ち主だったが、太原雪斎という稀代の軍師もそばにいた。義元と雪斎の二人三脚で、政治・軍事・外交のすべての面で他国を圧倒し、今川氏の全盛期を謳歌した。
氏真のそばには誰もいない。
いるのは寿桂尼だけである。
寿桂尼自身、そばに相談役がいてくれればと願っているだろうが、誰もいない。仕方がないから寿桂尼がすべてを取り仕切らなければならない。
そういう事情が察せられるから、荷が重かろうと氏康は同情したわけである。
「申し上げます」
廊下から小姓が声をかける。
「どうした?」
氏政が顔を顰(しか)める。
氏康と氏政が二人で話し合っているときは、よほどのことがない限り、何も取り次ぐなと命じてある。
「今川殿から書状でございまする」
「ん?」
氏康が受け取り、書状を読む。
「また、あれでございますか?」
「うむ、また、あれだ」
氏康が苦笑いをする。
宴の誘いなのである。
氏真が駿府から率いて来たのは三千の兵だけではない。料理人や遊女も連れて来ている。音楽を奏でる楽人もいる。荷物を運ぶ車や人足の数もかなり多い。
普通、兵を率いて遠征するときは、米と味噌、塩を大量に持参する。それ以外には干し肉や豆類があるくらいで、戦陣の食事は、氏康や氏政でもかなり質素である。
しかし、氏真は、そうではない。
宴席には駿府にいるときと同じような美食の数々が並ぶ。そのために料理人を帯同しているわけだし、様々な食材を運ぶために車や人足も多いのだ。
その宴席では音楽が奏でられ、遊女が舞う。
そんなことは氏康も氏政も初めての経験で、自分たちが戦に来ていることを忘れそうになる。
あたかも、できるだけ豪華な宴を催して氏康と氏政をもてなすことが厚意の証であると信じているかのように、何かと言うと、氏真は宴を開いて二人を招こうとする。
せめて宴席で戦の相談でもできればいいが、氏真が話題にするのは遊芸のことばかりである。興が乗ると、自ら笛を吹いたり、太鼓を叩いたりもする。それがまた見事な腕前だから、氏康も氏政も感心するしかないが、同時に、
(これは、何かおかしいのではないか)
と首を捻らざるを得ない。
「どうなさいますか?」
「やめておこう」
「断れば、それはそれで、また、うるさいことになるやもしれませぬが......」
宴に行くのを断ると、自分が何か粗相をして氏康を怒らせたのではないかと氏真は気を揉み、ご機嫌伺いの使者を何度も寄越したり、ついには氏真自身がやって来たりする。宴に出るのも面倒だが、断るのも面倒なのである。それを氏政は危惧する。
「そうだな。すまぬが、おまえが行ってくれぬか。少しでも顔を出せば、今川殿も安心するだろう」
「それは構いませぬが......。困った御方ですな」
氏政が溜息をつく。
「幸いに、と言うべきか、長雨のせいで、すぐに戦にはなりそうもない。今川殿には早々にお帰り願おう」
「一度くらい戦の手並みを拝見したかった気もしますが」
「戦をするのなら、駿河でやってもらおう。下手な戦をされて巻き添えになり、当家の大切な兵を失いたくないからのう」
「なるほど、おっしゃる通りです」
氏政がうなずく。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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- 第十九回2025.04.23