北条氏康 巨星墜落篇第四回


 北条氏の援軍として、三千の兵と共に武蔵まで進んだ氏真だが、結局、戦をすることなく帰国することになった。宴を開くためにやって来たようなものであった。
 氏真を帰し、自分たちだけで上野に攻め入るつもりだったが、氏康は考えを変え、小田原に引き揚げることにした。状況が変わったのである。
 甲斐の武田信玄とは緊密に連絡を取り合っているが、その信玄から、
「長尾が上野に兵を出すかもしれない」
 という知らせが届いた。
 信玄も氏康も、戦に関しては景虎に一目置いており、同じ程度の兵力で戦えば、とても勝つことはできないと景虎の実力を認めている。
 それ故、長尾景虎とは単独で対峙せず、必ず、武田と北条が共同で対処するという取り決めをしてある。武田と北条が協力すれば、長尾軍の二倍、三倍の兵力で立ち向かうことができる。
 上野に攻め込んでから、長尾景虎と遭遇することを警戒して氏康は兵を退いたのだ。
 秋になって、稲の刈り取りが終わったら西上野に兵を出すのが信玄の考えだから、氏康もそれに合わせて戦支度をするつもりでいる。

 十一月中旬、信玄が西上野に攻め込み、箕輪城を攻撃した。
 それに呼応して氏康も出陣し、閏(うるう)十二月五日、武田軍と北条軍は合流した。
 両軍は、金山城の由良成繁(ゆらなりしげ)を攻めるべく、利根川を渡り、西上野から東上野に進んだ。
「長尾も出てきたようですぞ」
「ほう、やはり、ですか」
 信玄の言葉に氏康がうなずく。
 この時期、景虎は家督を継いだ上杉氏を称しているのだが、信玄も氏康もそれを認めず、依然として「長尾」と呼んでいる。景虎の方でも、氏康を、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の後裔とは認めず、書状などでは「伊勢」と呼んでいる。
 景虎は、姓だけでなく名前も変えており、鶴岡八幡宮で関東管領の就任式が済んだ後に景虎から政虎へ、その後、将軍・足利義輝の一字を拝領し、輝虎と名乗りを変えている。名乗りが変わるたびに、格式が上がっていく......少なくとも景虎はそう信じているが、信玄も氏康もまるっきり無視しており、以前のように「長尾景虎」としか呼ばない。大名同士の意地の張り合いと言っていい。
「兵が少ないので、すぐに金山城にやって来ることはないでしょう。太田や里見に出陣を促しているようですぞ」
「なるほど」
 氏康が何度もうなずく。
 北条氏には戦国随一と言われるほどの諜報網があるが、その諜報網には濃淡があり、北条氏の方針に従って、関東地方において最も活動が盛んである。
 武田氏も優秀な忍びを数多く抱えており、彼らは甲斐の南北、すなわち、越後や駿河、遠江、それに西の美濃や近江における情報収集に力を入れている。
 両家の方針が違うせいで、北条と武田の諜報網にはあまり重なり合う部分がない。越後情勢や長尾景虎の動きについても、実際に何度も干戈を交えている武田氏の方が、北条氏よりも熱心に情報収集している。
 だから、長尾景虎の動きについては、氏康よりも信玄の方が詳しく知っているのだ。
 ただ、太田氏や里見氏に関しては、氏康もかなり詳しい情報を持っている。
 景虎の要請に応じて、太田資正は岩付から羽生(はにゅう)に向けて行軍し、里見義堯(よしたか)・義弘父子は安房から上総に北上しているという。
「長尾に太田と里見が与したら、われらにとっては厄介なことになりますな」
 信玄が言うと、
「そうはならぬのではないでしょうか」
 と、氏康は首を振る。
「なぜですか?」
「実は......」
 北条氏は関東の諸大名、特に北条氏に敵対する大名の動きには厳しく目を光らせている。
 しばらく前から常陸の佐竹義昭が越後に何度となく使者を送っていることがわかっている。
 その目的は景虎への援軍要請ではないか、なぜなら、佐竹義昭は小田氏治(うじはる)と激しい抗争を続けているが、このところ劣勢なので、景虎の力を借りて挽回しようと企図しているのではないか、と氏康は推測している。
「なるほど」
 信玄がうなずく。
「長尾が関東に出てきたのは佐竹を助けるためでしたか。とは言え、何をするかわからない男ですから、常陸に向かうと決めつけるのは危ない。相手に不意打ちを仕掛けるのが得意ですからな」
「心得ておきましょう」
「ところで......」
 信玄が話題を変える。
「遠江で大きな騒ぎが起こっているようですが、ご存じでしょうか?」
「はい」
 一瞬、氏康の表情が暗くなる。
 氏真が駿河に帰国して間もなく、十二月の初め、遠江の国衆が今川に叛旗を翻して一斉に蜂起した。
 これを「遠州忿劇(えんしゅうそうげき)」と呼ぶ。
 一過性の反乱ではなく、長年にわたる今川支配に対する不満の爆発であり、この蜂起が引き金となって、今川家は滅亡の坂を転がり落ちていくことになる。
 氏康は、実際に氏真に会い、為政者としての氏真の資質と今川家の先行きを危ぶんだばかりだったから、「遠州忿劇」の一報を受けて大きな衝撃を受けた。
 今川、武田、北条の三家は婚姻関係を基盤とする三国同盟を結んでおり、今川の混乱には信玄も氏康も無関心ではいられないのである。
 但し、今川に対する二人の視線にはかなりの温度差がある。
 今川が安定することで、北条氏の西の守りが強くなるというのが氏康の基本的な発想だし、北条氏が大名として自立した頃からの長く深い繋がりがあるから、何とか氏真が今川を立て直してほしいと願っているが、信玄には、それほどの思い遣りはない。
(今川が自力で国を守ることができず、他家に国を脅かされるようであれば、何も他の者に渡すことはない。わしが奪ってしまえばいい)
 そんな冷酷な計算が信玄の心の底に潜んでいることを、氏康は察している。
「どうやら、裏で糸を引いているのは松平のようですぞ」
 信玄が言うと、
「松平ですか。厄介な男だ」
 氏康が顔を顰める。
「先代が亡くなってから、今川の勢いはすっかり衰えてしまいましたな。遠江を守るのは難しいのではないかという気がします。今川の当代と松平では器量が違いすぎるようですからな。遠江を失うのはやむを得ないとして、火の粉が駿河に飛んできたら、どうなさいますか?」
 信玄がじっと氏康を見つめる。
「......」
 すぐには氏康の口から言葉が出てこない。
 と、信玄の後ろにいた嫡男・義信が、
「われらが力を合わせて、今川殿に力添えをいたしましょう。三家が力を合わせれば、松平を討ち滅ぼすのも難しくないでしょう」
 と勇ましいことを言う。
 義信は氏真の妹を妻にしており、夫婦仲が睦まじい。愛する妻からは、どうか実家を助けてやってほしいと涙ながらに懇願されているし、父の信玄と違って直情径行型の正義漢だから、武田と北条が今川の窮状を救えばいいという発言は本心であろう。
「のう、四郎、そう思わぬか?」
 義信が横にいる四郎勝頼に声をかける。
 勝頼は義信の八つ年下の異母弟で、このとき十八歳である。
「はい......」
 勝頼は、ちらりと信玄の顔を見る。
 信玄は渋い顔をしている。
(兄上の言葉を喜んでおられぬようだ)
 自分が正しいと思うことを何の迷いもなく堂々と口にする義信と違い、勝頼は常に信玄の顔色を見てから言葉を選ぶように心懸けている。
「わたしは父上や兄上の指図に従い、命じられれば、どこにでも出かけて、必死に戦う覚悟でございます」
 勇ましいが、何の中身もない発言で、勝頼はお茶を濁す。
「いかがです?」
 義信は今度は氏康の後ろにいる氏政に声をかける。
 氏政の妻は信玄の娘だから、義信とは義兄弟の間柄である。義信とはひとつ違いで、年齢が近いせいもあるし、偉大な父を持っているという境遇も似ているせいか、初めて顔を合わせたときから話が合い、すっかり意気投合している。
「言うまでもありませぬ。松平が駿河にまで手出しするようであれば、当家も黙っておりませぬ。そのために盟約を結んでいるのですから」
 氏政が大きくうなずく。興奮気味に顔が赤くなっているのは、本心だからであろう。
 その興奮は宿舎に引き揚げてからも収まらない様子で、
「父上、武田は頼りになりまするな。ここ上野でも共に戦い、いずれは駿河でも共に戦うことになるやもしれませぬ。義信殿がおっしゃったように、三家が力を合わせれば、松平も駿河には手出しできますまい」
 氏政がまくし立てる。
 氏康は浮かない表情で何事か思案している。
「どうかなさいましたか?」
「おまえは、本当に、そう思うか?」
「何をですか?」
「武田は今川を助けると思うか?」
「え」
「盟約を結んでいるのですから......」
「そんなものは当てにならぬ。盟約というのは、自分に利があるときには守るが、利がなくなれば簡単に投げ捨てられてしまうものなのだ。今川は頼りにならぬ。今川との盟約は、武田や北条にとって何の利にもならぬ」
「まさか、父上は......」
「そうではない。当家は盟約を守る。おじいさまの頃から深い繋がりがあるのだし、駿河が乱れれば、伊豆や相模にも乱れが及びかねぬ。東に兵を出すのも難しくなる。今川が平穏に駿河を治めているのが、当家にとっての大きな利なのだ。それ故、盟約を守る。しかし、武田にとっては、どうかな?」
「どういうことですか?」
「武田殿は、松平が駿河に食指を伸ばすのを許さぬであろう。松平など叩き潰してしまおうと考えるやもしれぬが、それは今川のためではない」
「自分のためということですか?」
「そうだ。今川が松平を止めることができず、遠江を失い、駿河に攻め込まれることになれば、どうせ松平に奪われるくらいなら自分が奪ってしまおう......そう考えても不思議はない」
「そんな阿漕(あこぎ)なことを考えるでしょうか。今まで武田殿はわれらとの約束を違(たが)えたことがありませぬ。律儀な御方だと思いますが」
 氏政が小首を傾(かし)げる。
「武田と北条には長尾という共通の敵がいるからだ。北条と手を結ぶことが武田の利になるのだ」
「なるほど」
「わしが武田殿だったら、今川の乱れを喜ぶかもしれぬし、松平が駿河に手を出すのを期待するかもしれぬ」
「父上がですか?」
「考えてもみよ。甲斐には海がない。武田殿は喉から手が出るほど港がほしいはずだ。北条にとって身近に海があるのは当たり前だが、武田にとっては当たり前ではないのだ。今川との盟約を守ることと港を手に入れること、どちらが武田にとって大きな利となるか......」
「義信殿の言葉に嘘はないと思いましたが」
「わしも、そう感じた。だが、その言葉を武田殿が喜んでいるようには見えなかった。武田家も一枚岩ではないのだとわかった」
「......」
 氏政が黙り込む。氏康の言うことが完全にはわからぬ様子である。
 そんな氏政を、氏康は頼りなさそうに見つめる。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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