北条氏康 巨星墜落篇第十一回

十七
 里見義弘は籠城を諦め、全軍を率いて城から出撃したが、如何せん兵力差が大きすぎる。八千の里見軍が二万の北条軍に包囲される形になる。
 しかも、各自が個々に戦っているから、とても北条軍に太刀打ちできない。
 昔も今も変わらない真理だが、軍隊というのは、組織として動くから強いのである。指揮官の命令に従って機敏に動くことで、個人の力が倍加するわけである。
 北条軍は、そういう戦い方をしている。
 だから、強い。
 一方の里見軍は不意打ちを食らった衝撃から立ち直ることができず、指揮系統は寸断されたままだ。
 これでは戦いようがない。
 だからこそ、ちょっと信じられないことだが、里見義弘が城から出ると、そこに北条兵が群がってきた。この時点で里見軍は崩壊していると言っていい。
 総大将の里見義弘が刀を抜き、北条兵と斬り合う羽目になる。もはや、敵と戦うというきれい事を言う場合ではなく、何とか血路を開いて自分が逃げ延びる道を探さなければならなかった。
 しかしながら、総大将を討ち取れば、莫大な恩賞が得られると承知しているから、それこそ無数の北条兵が群がり寄せてくる。
 里見義弘の周囲には、義弘の兄弟や親戚、里見氏の重臣などが従っていたが、彼らが楯となって義弘を守っているうちに、一人また一人と討ち取られていく。
 この過程で最も多くの死者を出したのが、古くから里見氏に忠実に仕えてきた正木一族である。あまりに多くの死者を出したことが、後々、正木氏と里見氏の間に軋轢が生じる原因になる。
 家臣たちの屍を踏み越えて、里見義弘が戦場から離脱を図る。ここで義弘が討たれれば、里見氏が滅亡するのだから必死である。
 馬が北条兵の矢に当たって倒れる。
 義弘は馬を捨て、徒歩で逃げた。
 兜や鎧が重くて思うように歩くことができないので、ついには兜を放り出し、鎧も脱ぎ捨てた。
 そこに騎馬武者が追いすがり、
(ああ、もう駄目だ。ここが死に場所になるのか)
 と観念した。
 だが、幸いにも、それは味方で、安西実元という上総の武者である。
 実元は自分の馬を義弘に譲り、
「こんなところで死んではなりませぬぞ」
 と馬に乗せて走らせた。
 その後、続々と里見兵が落ち延びてきたが、路傍に倒れる義弘の馬を見て、
「ああ、これは御屋形さまの馬ではないか。確かに御屋形さまの鞍だぞ。何ということだ、御屋形さまも討ち取られてしまったのか。それならば、おめおめ故郷に帰っても仕方がない。御屋形さまのお供をして冥途に旅するまでのこと」
 そこから引き返して、北条軍に戦いを挑んで戦死した者がたくさんいた。

十八
 合戦に勝利した北条軍は、すぐには里見軍を追撃しなかった。
 ここで数日を過ごし、兵たちを休ませると共に、捕虜の処遇を決めた。この戦いでは死者も負傷者も多く、自ら降伏した者もいたから、数千の捕虜が出た。
 ようやく北条軍が南下を始めたのは十四日で、この日は下総市川まで、十六日には船橋まで進んだ。この軍勢を率いたのは氏政で、氏康は同行していない。
 氏政は各個撃破という形で、尚も里見氏に味方する者たちを掃討していったが、この時点で里見氏に味方する者は数えるほどしかいなかったから、それほど難しい作戦ではなかった。
 里見氏の拠点として残っているのは久留里城、佐貫城、大多喜城、土気城、池和田城、小糸城、勝浦城くらいのものであった。その程度であれば、氏康が同行するまでもなく、氏政に任せておけばよかった。
 それから間もなく、氏康は小田原に帰った。
 長尾景虎が房総方面に向かうようなら、今度は氏政と共に景虎を挟み撃ちにしてやろうという目論見であった。
 もうひとつ、氏康には急いでやらなければならないことがある。江戸衆の再編である。
 太田康資が離反し、遠山綱景と富永直勝が戦死したことで、武蔵支配の要である江戸衆が崩壊した。
 特に遠山氏は、江戸城の城代を務める綱景だけでなく、嫡男の隼人佑(はやとのすけ)まで戦死したから、誰に家督を継がせるかも決めなければならない。
 富永直勝の嫡男・亀千代は無事だが、まだ元服もしていない十一歳の少年だから出陣しなかった。亀千代に家督を継がせるにしても、政治と軍事で亀千代を支える体制を整える必要がある。
 これがまた容易ではない。
 当主と嫡男が戦死しただけでなく、遠山家の重臣も何人も戦死したから、亀千代の脇を固める重臣たちの人選が難しいのだ。
(さて、どうしたものか......)
 小田原に戻る道々、氏康は遠山氏と富永氏の家督継承のことばかり考えた。氏政からは、すべて任せると言われているから、氏康が一人で決めなければならない。
(弥六郎まで死んだのは痛かったな)
 遠山綱景と共に戦死した弥六郎、すなわち、隼人佑は政治力もあり、勇猛な武将でもあった。温和で思慮深く、氏康も氏政も大きな信頼を寄せていた。
 隼人佑は綱景の次男である。
 長男の藤九郎が元服して間もなく病で亡くなったので、藤九郎に代わって嫡男となった。
 隼人佑のすぐ下に弥九郎という弟がおり、葛西城の城代を任されるほど有能だったが、去年、病で亡くなっている。残っているのは四男と五男だが、四男は出家して、相模の大山(おおやま)寺の僧になっているし、五男はまだ幼い。
 小田原に着く頃には、氏康の考えは決まった。
 四男を還俗させることにした。
 後の政景である。
 物心ついたときには寺で仏道修行に励んでいたわけだから、政治も軍事も、まったくの素人である。
 それでも子供よりはましだろうと考えて、遠山家の当主に据えることにした。
 大きな期待をしたわけではなかったが、政景は意外にも優秀で、これ以降、江戸城を中心として武蔵は盤石となる。
 ちなみに五男は、後に景宗と名乗って政景を補佐することになるが、なかなかの傑物であった。
 遠山・富永両家の家督継承に関して、氏康が悩み抜いた甲斐があり、この両家は、この後、大いに繁栄する。
 氏康の悩みは、これで終わりではない。
 北条を裏切った太田康資の穴埋めをしなければならない。
 心当たりはある。沼田康元である。
 長尾景虎が八千の兵を率いて三国峠を越えて関東に侵攻してきたとき、最初に立ちはだかった沼田城の守将だった男である。綱成の次男だ。
 長尾景虎が攻めてきたとき、
「城を明け渡して立ち退くのであれば、城兵の命は助ける。しかし、あくまでも戦うというのであれば、城兵を皆殺しにする」
 という最後通牒を突きつけられ、
「承知した」
 と、あっさり降伏し、景虎に城を明け渡した。
 詳しい事情を聞いた氏康は、康元の判断が正しかったと認めたが、誰もが同じ考えだったわけではない。なぜ、一度や二度の手合わせをした程度で重要拠点を明け渡したのか、もっと徹底的に戦うべきだったのではないか、と康元を責める者もいる。
 厄介なのは、氏政もそういう考えに同調していることだ。
 太田康資は北条氏を裏切ったが、すべての家臣が裏切ったわけではなく、康資に従わなかった者も多い。彼らを統率するには、よほど人心掌握術に長けた者でなければ無理であろう。
 康資の旧臣たちと所領を任せられる者として、氏康の心に浮かぶのは康元だけなのである。
(そうしよう)
 氏政は嫌な顔をするかもしれないが、氏康が道理を説けば、きっと納得するに違いないと思う。
 氏政に家督を譲った当初、
(北条の舵取りを任せても大丈夫なのだろうか)
 と先行きを危ぶんだが、この頃は、戦に関しても政に関しても、ごく常識的な判断をするようになっているし、自分で決めかねるときには氏康に相談もするし、重臣たちの意見にも耳を傾ける。
 北条氏の主として、いくらか貫禄もついてきたし、自分の若い頃と比べても、特に見劣りするとは思えない気がする。氏政に対する氏康の信頼は厚くなっているのだ。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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