北条氏康 巨星墜落篇第三十七回

二十
 この時期の武田軍の強さは比類がない。
 ある意味、戦国時代における最強の軍団と言っていいかもしれない。
 後の話になるが、三方原(みかたがはら)で徳川軍が武田軍に木っ端微塵に粉砕され、家康が単騎で城に逃げ帰るほどの惨敗を喫したのも当然である。
 信玄は武将として成熟し、尽きぬが如くに鬼謀が湧き出てくるという段階に達していたし、武田軍は信玄の意図を忠実に実行するだけの強さと機動力を備えていた。
 信玄麾下の武将たちも、それぞれが有能で、その気になれば、独立して戦国大名になれるほどの器量を備えている者ばかりだ。彼らを心服させて、思うがままに操っていた信玄というのは、よほど度量が大きく、人心掌握術に長(た)けていたのに違いない。
 想像をたくましくすれば、長篠の戦いで、武田軍の指揮を執っていたのが勝頼ではなく信玄だったら、どうなっていたか、いや、そもそも、信玄が生きていれば、信長が武田と事を構えることはなかったのではないか......。
 戦国最強の軍団が関東を駆け巡り、戦えば勝つという状況だったにもかかわらず、実際には、政治情勢はそれほど大きく変わっていないし、武田の領土もあまり増えていないのが不可解と言っていい。
 なぜ、そうなのかと言えば、北条氏という巨大な壁が信玄の前に立ちはだかり、信玄がいかに暴れようと、その壁がびくともしなかったせいである。
 現実には、三増峠の戦いで大敗を喫して以来、北条氏は戦うたびに信玄に負けている。
 ただ、その敗北が、北条氏の根幹を揺るがすほどの打撃になっていない。
 信玄としては歯痒くて仕方ないが、
(焦ってはならぬ)
 と己を戒めている。
 北条軍の指揮を執っているのは氏政で、隠居の氏康が前線に出ることはないが、北条氏の戦略を指導しているのは、いまだに氏康だと信玄にはわかっている。
 合戦には勝ち続けているのに、大した成果を得ることができないことこそ、氏康の老獪さの表れだと思えるし、堪えきれなくなって不利な状況で北条軍と決戦すれば、思わぬ不覚を取るかもしれぬ、と自戒もしている。
 だからといって、北条氏が余裕綽々かと言えば、そんなこともない。
 北条氏の舵取りをしている氏政には不満が鬱積している。何事もおまえに任せる、好きなようにせよ、と氏康に言われてはいるものの、やはり、何かに迷うと病床の氏康を訪ねて相談するのが実情だし、そこで氏康に叱責されたり、過ちを糺されたりすると、ひどく落ち込んでしまう。
 病に苦しむ氏康を俗事で悩ませたくないという気持ちもあるし、あれこれ小言を言われるのも辛いので、それほど頻繁に氏康を見舞うわけではないが、十二月七日、この日は、ひどく暗い顔をして、氏政は氏康を訪ねた。
 氏政が来ると、付き添いの女房の手を借りて、氏康は体を起こす。
「どうした、何があった?」
 病床に臥すようになってから、氏康は勘が鋭くなったが、そうでなくても、氏政の冴えない顔を見れば、何かよくないことが起こったのだとわかる。
「蒲原(かんばら)城が落ちました」
「そうか。落ちたか」
 氏康が溜息をつく。
 北条軍は蒲原城と薩埵峠にそれぞれ一千の兵を置き、武田軍が南下してきたとき、ここで食い止め、時間稼ぎをするという策を取っている。時間稼ぎをしている間に、小田原から氏政が駆けつけるという考えだった。
 わずか一千で武田軍の猛攻を凌ぐには、よほど肝の据わった者でなければなるまいというので、北条新三郎綱重に蒲原城を預けた。
 綱重は諱(いみな)を氏信という。北条長綱幻庵の次男である。
 幻庵は早雲庵宗瑞の末子で、氏康の父・氏綱の弟である。氏康にとって綱重は従弟に当たる。
 年齢が近いせいもあり、氏康と綱重は親密な間柄だった。
「で、新三郎殿は小田原に戻ったのか?」
「それが......」
 氏政ががっくりと肩を落とす。
 その姿を見て、氏康も何が起きたか察する。
「まさか......死んだのか?」
「降伏を拒み、城兵ことごとく討ち死にしたそうです」
「何と」
 氏康が息を呑む。
「すべてか?」
「はい」
 蒲原城には綱重だけでなく、箱根少将と呼ばれる綱重の弟・長順も立て籠もっていた。全滅したのであれば、兄弟揃って討ち死にということであろう。北条一門に連なる者たちの死は、さすがに氏康にとっても大きな衝撃であった。
 しばらく二人とも口を利くことができない。
 やがて、
「長尾殿は頼りになりませぬな」
 氏政が顔を顰(しか)める。
 武田氏に対抗するため、北条氏は長尾景虎と和睦し、同盟を結んだ。北と南から甲斐に圧力を加えるためである。そのために北条氏は上野を譲り、景虎を関東管領として認め、氏康の子を人質として差し出すことまで承知した。
 ところが、同盟が成立して三ヶ月ほど後、何と景虎は信玄と和睦した。甲越和与である。
 景虎が北から武田を攻撃することを期待したのに、和睦が成立したため、信玄は北の脅威から解放され、すべての力を南に注ぎ込むことができるようになった。その結果が、九月下旬の小田原城攻めであり、十月初めの三増峠の戦いなのである。
 景虎は何をしているのかといえば、八月下旬から越中に出陣し、十月末まで越中から動かなかった。
 つまり、同盟を結んでから、景虎は一度として信玄と干戈を交えていない。長尾殿は頼りになりませぬな、と氏政が嘆くのも、もっともなのである。
「本当に三郎を越後に行かせるおつもりですか?」
 氏政が訊く。
「今になって、何を言うか」
 氏康が驚く。
 同盟が成立したとき、景虎は氏政の子を養子に迎えたいと申し入れた。養子という体裁の人質である。
 最初は承知したものの、その後、氏政の考えが変わり、わが子ではなく、弟を差し出すことにした。それが氏康の七男・三郎である。十七歳。
 両家の間で受け入れの話し合いが進んでおり、年が明け、春になったら小田原を出立する予定になっている。
「三郎が越後に行ったからといって、長尾殿が武田と事を構えるとは思えませぬ。都の将軍家の仲介で武田と和睦したのですから。将軍好きの長尾殿が将軍家との約束を違えるはずがない」
「口が過ぎようぞ」
「わたしとて、将軍家を敬う気持ちがないわけではありませぬが、今の将軍家は織田信長の言いなりではありませぬか。将軍家が長尾殿に武田との和睦を持ちかけたのも織田の差し金に違いないでしょうし、そうするように織田に働きかけたのは武田殿でしょう。つまり、長尾殿は、いいように武田殿に踊らされたということではありませぬか。わたしは間違っておりましょうか?」
「間違ってはおらぬ。その通りだろう」
「自分の考えを率直に申し上げますが、この際、長尾との同盟を破棄して、武田と結んではどうかと思うのです」
「何を言い出すのだ」
「今の武田の勢いを考えれば、駿河を奪い返すのは至難の業です。武田殿の狙いが港だというのなら、駿河の西を武田殿に与え、東を当家が、いや、今川の家督を継いだ国王丸がもらえばよいのではないでしょうか」
「それは筋違いというものだぞ。当初、武田と徳川が駿河を分け合おうとした。われらは、それに反対して兵を動かした。武田と手を結べば、北条が徳川に代わるだけではないか」
「それでも構わぬのではないか、と思うのです。駿河の西を手に入れれば、武田殿は、それを足場にして遠江から三河に進もうとするでしょう。それは、われらには関わりのないことです。もう武田と戦うこともなくなります」
「徳川と同盟を結んでいるではないか」
「徳川には何の義理もありませぬ。お互い、損得勘定だけで手を結んでいるに過ぎませぬ。父上もご存じでしょう」
「ううむ......」
 氏康の表情が険しくなる。
「反対ですか?」
「当家の主は、おまえだ。おまえにすべて任せると言ったからには、おまえの決めたことに反対はせぬ。だが、賛成もできぬ。ふたつの家が取り決めた約束は重いものだ。そう簡単に踏みにじっていいものではない。他家のことは知らぬが、当家は、今まで、そういうやり方をしてこなかった。おじいさまも、父上も、わしも、だ。できれば、おまえにも同じ道を歩んでほしいと願う」
「そうですか」
 ふーっと大きな溜息をつき、氏政が腰を上げる。
「ならば、当家の伝統に従いましょう。しかし、武田の勢いは凄まじい。誰にも止められませぬ」
 その言葉通り、蒲原城を落とし、薩埵峠の北条軍を追い払った武田軍は、十二月十三日、再び駿府を占領した。年末には相模に攻めこむ構えを見せた。
 北条軍は防戦一方という有様で、武田軍の猛攻を凌ぐのに青息吐息の有様であった。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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