北条氏康 巨星墜落篇第二十七回

「おまえたちは軍配者になるために、ここに来た。そうだな?」
「はい」
「いずれ武田と北条に戻れば、敵と味方に分かれて戦うこともあるだろう。その覚悟はあるか?」
「あります」
「わしは扇谷上杉の軍配者だったとき、何度も北条と戦った。北条の軍配者は、おまえの祖父・青渓だった。知っているか?」
 冬之助が小次郎に訊く。
「はい、聞いております」
「山内上杉の軍配者だったとき、わしは武田と戦って敗れた。磔(はりつけ)にされて殺されるところだったが、おまえの父・鷗宿に救われた。そんな話をしたことがある。覚えているか?」
 太郎丸に訊く。
「よく覚えております。養玉先生と父は、とても仲がよかったのですよね」
「そうだ。仲がよかった。わしは、青渓とも鷗宿とも仲がよかった。しかし、戦となれば、死力を尽くして戦った。わしが軍配者として最後に戦に出たのは川中島の合戦だ。その合戦で鷗宿は死んだ。わしは鷗宿のために涙を流したが、全力で戦ったことには満足している。たまたま、わしは生き残ったが、たとえ、あのとき死んでいたとしても悔いはない。軍配者として本望だった」
「......」
 太郎丸と小次郎は真剣な表情で冬之助の言葉に耳を傾けている。
「軍配者として戦に出れば、敵と味方に分かれて戦うこともあるが、この足利学校で学んでいるときは、たとえ、自分の国と相手の国が戦っているとしても、おまえたちには関わりのないことだ。それを忘れるなと言いたかった」
「どういう意味でしょうか?」
 太郎丸が首を捻りながら訊く。
「わしの見立てでは、早ければ、今年のうちに武田と北条は干戈を交えることになる。そうなったとき、おまえたちに、いがみ合ってほしくないのだ」
「え」
 太郎丸と小次郎が顔を見合わせる。
 武田、北条、今川の三家は十四年前に同盟を結んでいる。ここ数年、長尾景虎という共通の敵に対処するため、武田と北条の関係は深まっている。戦を始めるような状況ではないから、二人が驚くのも無理はない。
「それは、まことでございましょうか?」
 小次郎が怪訝な顔で訊く。いくら冬之助の言葉でも、そう簡単に信じられることではない。
「信じられぬか?」
「正直に言えば......」
 二人が首を振る。
「なぜだ?」
「両家の間には盟約がありますし、互いに助け合っておりますから」
「遠からず、駿河を巡って争いが起こるだろう」
「駿河ですか?」
「武田の悲願は海に出ることだ。喉から手が出るほど港がほしくてたまらぬのだ。今に始まったことではない。信玄殿の父・信虎殿の頃から、そうなのだ。しかし、南には今川という強国があり、隣には北条という強国がある。信濃を征し、北に向かおうとしたものの、そこには長尾という強国がある。武田は八方塞がりで、東の西上野に兵を出したり、西の飛騨や美濃を窺っているが、それでは港を手に入れることはできぬ。義元殿が織田信長に討たれ、今川は一気に衰えた。その隙を衝いて、三河の徳川が遠江を切り取り、今では駿河を狙うまでに力をつけている。徳川に奪われるくらいなら自分が手に入れてしまおう......そう武田が考えても不思議はない」
 冬之助が言葉を切る。
「お言葉ですが、それが本当のことだとすれば、武田が戦うのは北条ではなく、今川や徳川なのではないでしょうか?」
 太郎丸が訊く。
「おまえは、どう思う?」
 冬之助が小次郎に顔を向ける。
「......」
 小次郎は、しばらく思案しているが、やがて、顔を上げると、
「今川には武田や徳川を押し返す力はないと思います。武田は徳川と駿河を分け合うつもりなのではないでしょうか。徳川と争えば長い戦になるかもしれませぬ。それだけ港を手に入れるのに時間がかかるということです。手を組めば、すぐにでも駿河の半分は手に入るでしょう。先のことはわかりませんが、とりあえず、今は徳川と手を組んで、ほしくてたまらない港を急いで手に入れたい、と......」
「ふうむ、今川には大した力がないから、武田と徳川が手を結んで駿河を分け合うか。なるほどな。だが、北条も一枚噛ませろという話になるのではないのか? 三家で駿河を分け合う方が話が早いぞ」
 太郎丸が言う。
「それはないだろう」
 小次郎が首を振る。
「なぜだ?」
「北条が律儀だと言うつもりはない。三家の盟約を守ることは、今の武田には利にならぬが、北条には利になる。それだけのことだ。北条には港もある。西に向かおうという野心もない。関東八ヵ国を支配し、関東から戦をなくすのが北条の悲願なのだ。北条の目は東に向いているから、西の隣国は平穏でいてくれるのがありがたいのだ」
「つまり、武田は盟約を破るし、北条は盟約を守ろうとするから、武田と北条の戦になる......そういうことでしょうか?」
 太郎丸が冬之助に訊く。
「そうだ。今川を巡って、自分たちが必要とするものを守るために両家は戦うことになる。武田が駿河を攻める条件が整いつつある。いつ駿河攻めが始まってもおかしくないのだ」
 冬之助がうなずく。
 その条件とは......。
 まず、三月中旬、越後で景虎の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)が叛乱を起こしたことである。
 本庄繁長は揚北衆の一人で、岩舟郡・本庄城の主である。二十九歳。
 元々、揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる越後北部の豪族たちは自立志向が強く、守護にもそう簡単には服従しなかったという歴史を持つ。
 長尾景虎が守護になってからは、揚北衆もおとなしくなったが、それは景虎の武力を怖れたためで、心から服したわけではなかった。
 政治力のある武田信玄であれば、飴と鞭を巧みに使い分けて揚北衆の心をつかむことができたであろうが、景虎には、その種の政治力はない。力で押さえつけるという単純すぎるやり方で支配するだけである。
 守護になってから、景虎は、故郷に尻を落ち着ける暇もないくらい、関東や信濃に遠征ばかりしている。ほとんどが勝ち戦であるにもかかわらず、家臣たちへの恩賞は少ない。景虎が無欲すぎるため戦利品が手に入らないからである。
 景虎は名誉を手に入れるが、景虎に従う者たちは手ぶらで引き揚げなければならない。
 当然ながら、不満は鬱積する。
 揚北衆の茶碗には不満の水が溜まり、あと一滴か二滴の水が足されれば溢れてしまうという状況になっている。火種はいくらでもある。
 そこに信玄が目をつけた。景虎のやり方に不満を持つ者たちを煽り、何かのときには喜んで手を貸そう、と約束した。
 それに乗ったのが本庄繁長である。
 繁長は長尾氏との手切れを宣言し、挙兵した。
 激怒した景虎は、すぐさま討伐令を発したが、景虎のやり方を熟知している繁長は、景虎の望む野戦を避け、城に立て籠もった。景虎の苦手な城攻めに誘導したわけである。手をこまねいて籠城したわけではなく、攻め手がだらけると、すかさず夜襲を仕掛けたりする。
 繁長は、なかなかの戦上手なのだ。
 叛乱から数ヶ月経っているが、いまだに景虎は攻めあぐねている状況である。
 七月上旬、信玄は信濃北部に兵を進め、越後に攻め込む構えを見せた。景虎を牽制することで、側面から繁長を援護したわけである。
 本気で攻め込むつもりはないと景虎は見抜いたものの、そのまま放置もできず、一度本庄城の囲みを解いて、信濃方面に転進せざるを得なかった。
 その隙に、繁長は、城の守りを補強したり、兵糧米を運び入れたりした。これによって叛乱が更に長引くことになった。
 実際、この叛乱は、翌年の春まで、ほぼ一年にわたって続くことになり、その間、景虎は越後に足止めされてしまう。信玄の思惑通りである。
「武田の力を以てすれば、今川軍など簡単に蹴散らすことができるだろうが、駿河に攻め込んだ隙を衝かれて、長尾軍に背後を脅かされれば、容易ならぬことになる。それ故、長尾景虎を越後に釘付けにしなければ、武田は駿河攻めができぬのだ。本庄繁長が叛乱を起こしたおかげで、武田は背後を心配する必要がなくなった」
「いつでも駿河攻めができるということですね?」
 小次郎が訊く。
「そうだ。しかも、武田には、もうひとつ幸運が舞い込んだ......」
 三月二十九日、寿桂尼(じゅけいに)が亡くなったのである。
 重い病を患い、病床に伏していたから、実際に政務を執ることはなくなっていたが、寿桂尼がいることで家臣たちはまとまり、政務も円滑に進んでいた。
 桶狭間で義元が敗死してから、今川は衰退の一途を辿っているが、その衰え方が緩やかなのは寿桂尼がいたからである。
 その寿桂尼が亡くなった。
 名実共に今川の舵取りは氏真(うじざね)が取らざるを得ないが、氏真の無能は広く知れ渡っている。
 武将として常識的な判断のできる者であれば、
(武田と徳川の動きが怪しい)
 と察したであろう。
 今川ほどの国であれば、数多くの忍びを抱えて周辺国に潜入させているし、武田と徳川は駿河侵攻の意図を隠そうともせずに侵攻準備を進めているから、氏真が少しでも政務に関心を持てば、その種の情報がいくらでも耳に入ってきたであろうし、何らかの対応策を講じることもできたであろう。何をしていいかわからなければ、舅の氏康や義兄の氏政に相談すればいいだけのことである。
 しかし、氏真は何もしていない。
 政務にまったく関与せず、蹴鞠や連歌などの遊興に耽り、女色に溺れている。
 もっとも、氏真にしても、本能的に危機感を抱いてはいたらしく、このままではまずいことになりそうだ、とは感じていた。
 そこで心を入れ替えて政務に取り組めばよかったが、氏真はまったく違っている。
 それまで以上に政務に無関心になった。
 見たくないものは見ない、聞きたくないことは聞かない、という姿勢を徹底した。
 見かねた家臣が諌言(かんげん)めいたことを口にすると、
「無礼者」
 と腹を立てて手打ちにした。
 一人や二人ではない。
 ついには、氏真が機嫌を悪くしそうなことは誰も口にしなくなった。
 国境近くで武田信玄と徳川家康が牙を研いでいるのに、氏真は温室の中に閉じ籠もって、目を瞑り、耳を塞いでいる、ということだ。
「そこまで言われると......」
 なあ、と太郎丸が小次郎を見る。
「そうだね。武田と北条が戦うことになりそうだ」
 次郎丸がうなずく。
「どうだ、そうなっても、これまで通り、おまえたちは親しくしていくことができるか?」
 冬之助が訊く。
「わたしは大丈夫です」
 小次郎が答える。
「おれだって、いや、わたしだって平気です」
 太郎丸が強がる。
「それでいい。辛いことがあるかもしれぬが、その辛さに耐えられぬようであれば、軍配者になることはできぬ。そう肝に銘じておくがいい」
 冬之助が諭すように言う。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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