そして誰かがいなくなる第35回


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 薄闇に沈むサーキュラー階段には、吹き抜けの二階窓から、吹雪の中の仄かな月明かりが射し込んでいた。
"彼"は一段一段踏み締めるように、階段を上った。
 夜は全員が寝静まっており、無音だ。自分自身のわずかな足音だけが耳に入る。
 猛吹雪は徐々におさまりつつあり、明日には天気が回復するかもしれない。
 ――チャンス・・・・は今夜しかない。
 二階に上がると、まずトイレの扉上部の横にあるウォールランプを見つめた。点灯はしていない。トイレは使用中ではない。
"彼"はマスターベッドルームの扉に耳を寄せた。室内から物音が聞こえてくることはなかった。ぐっすり眠っているのだろう。
 さて――。
 そのまま廊下へ向かった。シアタールームに入るための扉に耳を当てた。
 中から話し声が聞こえてこないか、耳を澄ました。三十秒ほど息を殺して聴覚に意識を集中する。
 何も聞こえてこない。
 寝場所にシアタールームを使っている者たちも、すでに眠っているようだ。
 自然と口元が緩む。
 御堂邸の部屋は、ドアレバー横にある釘の頭状のでっぱりを押し込めば鍵が掛かるようになっている。しかし、そのでっぱり――ロックを誰かが取り外してしまった。これがつまみを回すタイプなら、専用の工具がないと取り外せなかっただろう。おかげでどの部屋も今や内側から鍵を掛けることができない。それはつまり、どの部屋も出入りが自由――ということだ。
"彼"は廊下の突き当たりに着くと、ゲストルームのドアレバーに手を伸ばした。
 薄闇の中にカチャッと微音が響いた。

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「大変です!」
 大声が耳に入り、獅子川正は目を覚ました。
 三人掛けの電動リクライニングソファを倒していたので、すぐには起き上がれなかった。脇のボタンを操作してソファを元に戻し、薄闇の中でシアタールーム内を見回した。左隣で人影がソファを倒して眠っている。
 シアタールーム内のウォールランプ六灯のうち、後方のバーカウンターの横の一灯だけ独立して点灯できたので、点けている。真っ暗闇は落ち着かない。
「山伏さん!」
 獅子川は彼を揺すり起こした。
「今の声――聞きましたか」
 山伏がまぶたをこすりながら目を開けた。
「声......?」
 獅子川はマスターベッドルームに繋がるダブルの扉に目を向けた。藍川奈那子が娘と寝ているはずの部屋だ。
「向こうから――。たぶん、天童寺さんの声でした」
 山伏が身を起こし、ソファから立ち上がった。壁のスイッチを押してシアタールームのウォールランプを全て点ける。そして――扉を無言で指差した。
 獅子川は黙ってうなずいた。
 部屋の片隅の絨毯で寝ていた安藤も、「何事ですか」と起きてきた。
 山伏が軽くノックした。
「......来てください!」
 向こう側から天童寺琉の声が返ってきた。
 山伏がためらいがちに――女性に割り当てられた部屋だからだろう――ハンドル形レバーを握り、左側の扉を引き開けた。
 獅子川は二人と一緒にマスターベッドルームに踏み入った。ダブルのベッドの前に天童寺琉がこちらに背を見せて立っている。彼の脚のそばには幼い美々がいた。
「一体何が――」
 獅子川正は不安そうに尋ねた。同時に、ベッドの上の布団の盛り上がりに気づいた。
 天童寺琉がゆっくりと振り返った。その顔には深刻な表情が貼りついている。
「美々ちゃんの泣き声が聞こえた気がして、部屋に入ったら、見てのとおり藍川さんが――」
 彼が半歩横にずれると、うつ伏せになった女性の頭があった。黒髪が顔を隠しているものの、髪形で藍川奈那子だと分かる。
 天童寺琉が下唇を噛み、かぶりを振った。
「まさか――」
 獅子川はつぶやくと、唾を飲み込んだ。体内でごくりと大きな嚥下音が響く。
「亡くなっています......」
 山伏が「は?」と声を漏らした。「何言ってるんですか。冗談でしょう?」
「冗談でこんな話するはずがないでしょう。早く他の皆さんを起こしてきてください」
 獅子川は山伏と顔を見合わせ、マスターベッドルームを飛び出した。山伏が一階へ下りたので、獅子川は二階廊下を進んでゲストルームへ向かった。
 扉にある真鍮製のノッカーを鳴らした。
「林原さん! 起きてください!」
 間を置き、扉が開いた。化粧っ気がなく寝癖が残る林原凛が姿を現した。
「何ですか、こんな早朝から......」
 獅子川は言葉に詰まった。
 表情を読んだのか、林原凛が眉間に皺を作った。
「何かあったんですか......」
「藍川さんが......」
 獅子川は踵を返し、マスターベッドルームに舞い戻った。彼女が後から追いかけてくる。
 数分後、部屋には老執事を含めた全員が集まっていた。ベッドでうつ伏せになっている藍川奈那子を言葉もなく見つめている。
「すみません」天童寺琉が老執事に言った。「美々ちゃんを部屋の外で――リビングなどで見ていてもらえますか。この場にいさせるのは残酷です」
 美々は不安で泣き顔になっている。
 老執事が柔和な笑顔を見せ、「下で美味しいジュースでも飲みましょう」と連れ出した。
 美々がいなくなると、天童寺琉が大きく息を吐き、面々をゆっくり見回した。
「藍川さんが亡くなっています」
 全員が目を瞠った。
「......本当に、死んでいるんですか」林原凛が震える声で訊いた。「信じられません」
「僕は医師免許を持っています。死後、数時間は経過しています」
 山伏が「まさかそんな......」と足を踏み出した。藍川奈那子の体に手を伸ばす。
 天童寺琉が腕を横に差し出し、制止した。
「触れないでください。現場の保存が最優先です。素人が現場を乱すわけにはいきません」
 山伏がはっとした顔で動きを止める。
「死因は――」
 天童寺琉が首を横に振った。
「目立った外傷はありません」
「では、毒とか――」
「いえ、毒物ではないでしょう。たぶん窒息死だと思われます。首に扼殺痕(やくさつこん)はありませんから、顔に枕か何かを押しつけたのではないでしょうか」
 獅子川は拳で自分の手のひらを殴った。
「まさかこんなことが起こるなんて......。一体誰が何のために藍川さんを......」
 信じられない状況だった。
 なぜ藍川奈那子が殺されたのか。一体誰に殺されたのか。
 あの犯行予告状・・・・・・・がこけおどしではなかった――ということなのか。
「藍川さん......」
 か細いつぶやきが耳に入り、林原凛を見た。彼女は噛み締めた下唇を震わせている。瞳には涙の膜が覆っており、一粒のしずくが頬を伝った。
「そんな......」
 彼女は今にも倒れそうだった。
「大丈夫ですか?」天童寺琉が労(いたわ)るように尋ねた。「ショックな気持ちはよく分かります」
 彼女は口を開いたものの、またすぐ唇を噛んだ。
 錦野光一は執拗に彼女に言い寄っていたので、肩でも抱き寄せるかと思いきや、そんなことはなく、少し離れた位置から様子を窺っていた。
 獅子川は林原凛の横顔をじっと見つめた。
 昨晩、彼女から相談を受けた。ゲストルームの枕元に犯行予告状があったという。
"幼子の消失は隠し部屋を使ったトリックである。次なる犠牲者は口の軽い愚か者である。隠し部屋に次なる犠牲者が倒れているであろう......"
 差出人の名前には"御堂勘次郎"が使われていた。
 ――他の人には黙っておいてほしいんです。"次なる犠牲者は口の軽い愚か者である"って書いてあるので、私が誰かに打ち明けたことを知られたら、怖いです。
 このような情報は全員で共有すべきとも思ったが、彼女に懇願されて了承した。
 犯行予告状はハッタリだと踏んでいたが、まさか実際に犠牲者が出るとは――。
 御堂邸で一体何が起こっているのか。
"御堂勘次郎消失事件"に便乗した人間がいるのか? それとも、あいつが・・・・御堂勘次郎を消した後で藍川奈那子を殺さねばならない理由が生まれて、彼女も狙ったのか?
 獅子川は理解できない状況に戦慄を覚えた。

そして誰かがいなくなる

Synopsisあらすじ

何かが起こりそうな洋館を建てたいんだよ――。大雪の日、人気作家の御堂勘次郎が細部までこだわった洋館のお披露目会が行われた。招かれたのは作家と編集者、文芸評論家と……。最初は和やかな雰囲気だったが、次第に雲行きが怪しくなっていく。奇想天外、どんでん返しの魔術師による衝撃のミステリー!

Profile著者紹介

1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。同作は数々のミステリランキングにおいて高い評価を受ける。同年に発表した短編「死は朝、羽ばたく」が第68回日本推理作家協会賞短編部門候補、『生還者』が第69回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編集部門の候補、『黙過』が第21回大藪春彦賞候補となるなど、今注目を集める作家である。『難民調査官』『叛徒』『真実の檻』『失踪者』『告白の余白』『サハラの薔薇』『悲願花』『刑事の慟哭』『絶声』『法の雨』『同姓同名』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』『アルテミスの涙』『情熱の砂を踏む女』など著書多数。

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