そして誰かがいなくなる第17回


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「お母さん、ひまー!」
 娘の美々がぐずりはじめ、藍川奈那子は慌てた。三歳児の甲高い叫び声に数人の目が注がれている。
「ほら、おとなしくしてる約束でしょ?」
「ひまー!」
 奈那子はバッグから人気キャラクターのぬいぐるみを取り出し、差し出した。
「これで遊んでおいてね」
「いや!」
 美々は全身でぬいぐるみを突き返し、猛然とかぶりを振った。髪が振り乱される。
「お願いだから我がまま言わないで」
 尊敬する御堂勘次郎の邸宅で迷惑をかけたくない。第一印象が悪くなることに耐えられなかった。
 今このとき、御堂先生が戻ってきたら――。
 思わず声を荒らげそうになったとき、老執事が歩み寄ってきて、話しかけた。
「シアタールームでアニメ映画でもご覧になりますか?」
 奈那子は驚きながら老執事を見返した。
「でも――」
 邸宅内で自由に過ごしていいとは言われていたものの、シアターを利用するのは図々しすぎるのではないか。使用の許可はされているものの、社交辞令として受け取るべきでは?
 老執事は内心の躊躇(ちゅうちょ)を読み取ったのか、丁寧な口調で言った。
「社交辞令などではありません。御堂様からは、映画に興味があればぜひ楽しんでもらってくれ――と申しつかっており、操作端末も預かっております」
 美々は期待感いっぱいの瞳を輝かせて老執事を見上げている。
 リビングで延々とぐずられているよりは――。
「それじゃあ、お願いしても構いませんか?」
「もちろんでございます」
 老執事はうやうやしくお辞儀をし、サーキュラー階段へ歩いていく。
 奈那子は娘の手を引き、老執事について二階へ上がった。マスターベッドルームのダブルのドアから、シアタールームへ入った。赤を基調とした内装に統一されている。
 落ち着いた赤色の壁は、ゴールドのモールディングと付柱(ピラスター)で装飾されていた。中央に三人掛けの赤い布張りリクライニングソファが鎮座していた。正面にはヨーロッパの劇場を思わせるベルベットの引き幕が閉まっている。
 ドット柄の赤い絨毯(じゅうたん)はふかふかで、美々は嬉しそうにはしゃいでいた。
 シアタールームの後ろには、小型のバーカウンターがあり、天板に二十個ほどのワイングラスがシャンデリアのように逆さまに引っかけられている。
 ソファに並んで座ると、老執事がタブレットを操作した。燕尾服の執事と現代的なタブレットの組み合わせは少しちぐはぐで、何となく浮いているように見えた。
 だが、静かにベルベットの引き幕が左右に開きはじめると、そんな些細なことは気にならなくなった。
 舞台の開演――という雰囲気。
 百二十インチのスクリーンが現れた。両脇には引き幕が纏まっており、それがますます劇場の雰囲気を作り出している。
 美々が「わー!」と大喜びで歓声を上げた。
 老執事がDVDを差し込み、タブレットを操作した。天井と前面両サイドのスピーカーが重低音を発し、映像が流れはじめる。動物をモチーフにしたアニメキャラクターが登場し、ドタバタ劇を繰り広げるアメリカのアニメ映画だ。
 美々はあっという間に機嫌を直し、食い入るようにスクリーンに夢中になっていた。
 奈那子は老執事に頭を下げ、唇の動きで感謝を告げた。
 老執事は会釈を返し、シアタールームの後ろ側のドアから出て行った。邪魔にならないよう、配慮してくれたのだろう。
 奈那子は娘と一緒に十五分ほどアニメ映画を観た。そのうち、一階の様子が気になりはじめた。
 御堂勘次郎が戻ってきていたら、招待客の中でたった一人、仲間外れになってしまう。
 そわそわと落ち着かない気分になる。
「みーちゃん」奈那子は娘の横顔に話しかけた。「少しのあいだ、おとなしくアニメ観ていてくれる?」
 美々はスクリーンから目を離さず、大きくうなずいた。
 アニメに無我夢中だから、しばらくはおとなしくしてくれているだろう。
 奈那子はソファから立ち上がると、後ろのドアから廊下に出た。クリーム色の腰パネルと、モスグリーンに塗られた壁のコントラストが美しい。壁には等間隔に飾り柱(コラム)が付けられており、大窓をネイビーブルーのカーテンが覆っていた。
 廊下から吹き抜けのホールへ向かうと、階下から談笑する声が聞こえてきた。
 サーキュラー階段を下り、リビングに入った。ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた錦野光一が顔を上げ、「娘さんはどうしたんです?」と声をかけてきた。
「一人でアニメを観ています」
「贅沢(ぜいたく)ですね、あの部屋を独り占めなんて」
「大喜びでした」奈那子は笑いながら言った。「うちの小さなテレビじゃ、満足してくれなくなりそうで怖いです」
「あ、それはあるでしょうね」
 奈那子はリビングダイニングを見回した。天童寺琉は階段下のスペースに籠もって読書に勤(いそ)しんでいる。山伏と獅子川正は、奥のソファとチェアに腰掛け、円形のコーヒーテーブルを挟んで小説談義をしている。老執事はキッチンに立っていた。
「他の方は?」
 錦野光一も釣られたように室内を見渡した。
「林原さんはパウダールームへ行きましたよ。安藤さんは御堂さんと打ち合わせがあるとかで、書斎へ」
「そうなんですね」
「みんな好き勝手してますよ」
 錦野光一が苦笑いした。
 とりあえず、娘とアニメを観ている最中に一階でイベント・・・・が起こっていなくてよかったと思う。
「じゃあ、私も娘のところへ戻りますね」
「慌ただしいですね。お茶の一杯でも飲んでゆっくりしていけばどうです?」
「娘を一人にしたままじゃ、心配ですから。御堂先生のお宅の大切なものを勝手に触っていたら困りますし......」
「たしかに。だったら、俺が様子を見てきましょうか?」
「え? それは申しわけないです」
「俺もシアターに興味がありますし。せっかくの機会なので、拝見させていただきたいな、と」
 奈那子は少し迷ったものの、好意に甘えることにした。
「それじゃあ、お願いします」と軽く頭を下げると、彼はうなずいて二階へ上がっていった。
 一時でも子守から解放されると、気持ちが落ち着いた。
 奈那子は老執事にハーブティーをお願いした。
「かしこまりました。少々お待ちください」
 老執事はイギリス風のティーポットに湯を注ぎ、ハーブティーをカップに注いだ。
 奈那子はリビングの一人掛けソファに腰を落ち着けると、猫脚のローテーブルに運ばれてきたカップに口をつけた。
 しばらくゆっくりと過ごした。
 そのときだった。
 突如、断末魔の叫びを思わせる絶叫が聞こえ、リビングダイニングにいた招待客全員が一斉に天井を見上げた。

そして誰かがいなくなる

Synopsisあらすじ

何かが起こりそうな洋館を建てたいんだよ――。大雪の日、人気作家の御堂勘次郎が細部までこだわった洋館のお披露目会が行われた。招かれたのは作家と編集者、文芸評論家と……。最初は和やかな雰囲気だったが、次第に雲行きが怪しくなっていく。奇想天外、どんでん返しの魔術師による衝撃のミステリー!

Profile著者紹介

1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。同作は数々のミステリランキングにおいて高い評価を受ける。同年に発表した短編「死は朝、羽ばたく」が第68回日本推理作家協会賞短編部門候補、『生還者』が第69回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編集部門の候補、『黙過』が第21回大藪春彦賞候補となるなど、今注目を集める作家である。『難民調査官』『叛徒』『真実の檻』『失踪者』『告白の余白』『サハラの薔薇』『悲願花』『刑事の慟哭』『絶声』『法の雨』『同姓同名』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』『アルテミスの涙』『情熱の砂を踏む女』など著書多数。

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