そして誰かがいなくなる第16回
6
コーヒーを飲みすぎたようだ。
尿意を覚えた錦野光一は、リビングの片隅にある扉を開け、トイレに入った。リビングと同じ『アヴェ・マリア』の荘厳な旋律が流れる中、マホガニー色のフレームのミラーと重厚な洗面化粧台に出迎えられた。クリーム色の腰パネルに、深緑(ふかみどり)を基調にゴールドの花綱(はなづな)模様があしらわれた壁紙――。
目を上げると、個室トイレの天井の大部分を占めるほど大きなゴールドに輝くシャンデリアがあった。花が咲くような上向きのシェードにオレンジ色の光が滲んでいる。
宮殿風のデザインだ。
錦野は便器の蓋を上げると、ズボンを下ろして便座に腰掛けた。正面の壁には窪んだニッチがあり、造花が飾られた花瓶が置かれている。
右を見ると、トイレットペーパーホルダーは、デコラティブなアンティークゴールドの真鍮製だった。
トイレとは思えない豪華さだ。
ふう、と息を吐きながら小用を足した。そのとき、カサッと紙の音が耳に入った。
音のほう――入り口のドアに目を投じた。ドアの下の二センチほどの隙間から一枚のメモが差し入れられていた。
何だ――?
錦野は小便を終えてから立ち上がり、トランクスとズボンを上げ、ベルトをしめた。メモを拾い上げる。
毒々しい血の色で書かれた文字――。
御堂勘次郎が暴露する盗作作品を知りたければ、マスターベッドルームを調べろ。
――これは一体何だ?
夜に暴露される予定の盗作作品が何なのか、メモの主は知っているということか? その手がかりが二階のマスターベッドルームに――?
錦野は目を瞠り、手も洗わずにトイレを飛び出した。リビングダイニングを見回す。
一体誰がメモを――。
暖炉を向いた一人掛けソファにそれぞれ座って、トイレに背を向ける形で喋っている獅子川正と編集者の安藤――。
林原凛はキッチンの中で老執事と話している。紅茶の種類について話を聞いているようだ。藍川奈那子と娘、文芸評論家の山伏、名探偵の天童寺琉の姿はない。
注意深く目を這わせていると、視線を感じたのか、獅子川正がソファに座ったまま首を回した。
「どうしました?」
「あ、いや――」錦野は反射的にかぶりを振ったが、思い直して「訊きたいことが」と切り出した。
獅子川正が首を捻る。
彼と話していた安藤も向き直っていた。
「......トイレに誰かが近づくのを見ませんでしたか?」
獅子川正と安藤が顔を見合わせた。そして錦野に目を戻し、「いえ」と揃って答えた。
錦野は吹き抜けのホールへ進み出たとき、ふと気配を感じて、サーキュラー階段の下の空間に目を向け、思わず声を上げそうになった。
天童寺琉が階段下のスペースでチェアに腰掛けて脚を組み、御堂勘次郎の既刊を読んでいた。隣には、仄かな明かりの灯るテーブルランプが置かれた猫脚のチェストがある。マホガニー製なのか、ブラウンの色味が美しい。
「......いたんですか、天童寺さん」
天童寺は顔を上げた。
「驚かせてしまいましたか。昔からこういう狭いスペースが落ち着く性分でして。子供も立ち上がれないような屋根裏部屋に籠もって、本を読みふけったり――」
天童寺がメモを差し入れた可能性はあるだろうか。
錦野は位置関係を確認した。
トイレの場所からは、アーチ天井の先にあるサーキュラー階段下のスペースは死角になっている。獅子川正と安藤も、ソファに座って背を向けていたら、天童寺が立ち上がってこっそりトイレに近づいたとしても、気づかなかっただろう。
だが――。
出版業界と関係ない唯一の
「天童寺さん」錦野は訊いた。「誰かが階段から下りてきたりはしませんでしたか?」
「......誰かとは?」
天童寺がいぶかしむように訊き返した。
「たとえば、山伏さんや藍川さんです」
書斎に籠もっている御堂勘次郎を除けば、一階にいないのはその二人――藍川奈那子の娘も含めれば三人――だ。
天童寺は眉根を寄せて「うーん......」とうなった。「すみません、読書に夢中になっていて、人の存在は意識していませんでした。たぶん、誰も下りてきていないと思いますが......」
天童寺がメモを差し入れたとしたら、一人でも
二人で話していた獅子川正と安藤。同じく会話中の林原凛と老執事。部外者の天童寺――。五人がメモの主でないなら、藍川奈那子か山伏の二人に絞られる。だが、二階から下りてきたら、天童寺の前を通らなければリビングにもダイニングにも入れない。
錦野は拳の中に握り込んだメモの存在を意識した。
――誰にも気づかれずにトイレ内にメモを差し入れることは、全ての招待客に不可能ではないか。
誰がどうやって――?
そもそも、メモの内容に信憑性はあるのか? 盗作の暴露――という目的に関しては、招待客の誰もが先ほど聞かされたばかりだ。御堂勘次郎の言葉を信じるなら、そのような思惑があることは誰にも教えていなかったという。
担当編集者の安藤だけは、招待状の中で、盗作を暴露する計画を教えられていたらしいが、それ以上は何も知らないという。老執事は協力者として、あらかじめ事情を聞かされている可能性はある。
だが――。
二人とも、それぞれ会話中だった。安藤は獅子川正と。老執事は林原凛と。
アリバイがある。
アリバイがない者は、藍川奈那子、山伏、天童寺琉の三人だが、彼らは盗作に関する情報をついさっきまで知らなかった。メモの内容を書くことはできない。
それとも――。
メモは単なる悪戯か? 余興の一環とか?
錦野は改めてリビングダイニングを見回した。安藤は獅子川正との会話に戻り、林原凛は老執事との会話を続け、天童寺は読書に戻っている。
メモの謎について考えていると、階段からスリッパの足音が聞こえてきた。
見上げると、藍川奈那子が娘連れで下りてきた。二人がホールに下り立ったとき、錦野は彼女たちに近づいた。
「二階で何を――?」
藍川奈那子が娘を見下ろした。
「娘を二階のおトイレに連れていっていました」
トイレ――か。
つまり、一階のトイレが使用中だったから、二階へ上がったということだ。
一階のトイレにメモを差し込んでから二階のトイレへ向かうことは、時間的に可能だ。
分からないことだらけだ。
髪を掻き毟(むし)ったとき、山伏が階段を下りてきた。ホールで向き合う二人を目に留め、軽く会釈する。
「山伏さんは二階で何を――?」
尋ねると、山伏は「御堂邸を堪能していました」と答えた。その表情を探るも、一見して分かるような不自然さは表れていなかった。
「いやー、大したものですね、御堂邸は」
山伏は本当に館を堪能していただけなのか?
御堂勘次郎が暴露する盗作作品を知りたければ、マスターベッドルームを調べろ。
山伏も同じメモを受け取っていて、一足先にマスターベッドルームを探っていた可能性はないだろうか。
作家と違って著作を持たない山伏は、盗作を告発される心配がない。容疑者ではない。謎のメモを受け取ったとしても、別に慌てる必要はないだろう。
では一体誰が何のために――。
Synopsisあらすじ
何かが起こりそうな洋館を建てたいんだよ――。大雪の日、人気作家の御堂勘次郎が細部までこだわった洋館のお披露目会が行われた。招かれたのは作家と編集者、文芸評論家と……。最初は和やかな雰囲気だったが、次第に雲行きが怪しくなっていく。奇想天外、どんでん返しの魔術師による衝撃のミステリー!
Profile著者紹介
1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。同作は数々のミステリランキングにおいて高い評価を受ける。同年に発表した短編「死は朝、羽ばたく」が第68回日本推理作家協会賞短編部門候補、『生還者』が第69回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編集部門の候補、『黙過』が第21回大藪春彦賞候補となるなど、今注目を集める作家である。『難民調査官』『叛徒』『真実の檻』『失踪者』『告白の余白』『サハラの薔薇』『悲願花』『刑事の慟哭』『絶声』『法の雨』『同姓同名』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』『アルテミスの涙』『情熱の砂を踏む女』など著書多数。
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