北条氏康 巨星墜落篇第八回

 この場に綱成がいれば、
(これは妙だぞ)
 と里見軍の動きを疑ったであろう。
 退却するのはいい。
 明らかに劣勢なのだから、陣を払って国府台城に引き揚げるのは当たり前の作戦である。
 妙だというのは、わざわざ太田康資が現れて、綱景と直勝を挑発したことである。
 北条軍の先鋒が誰なのか、旗印を見れば簡単にわかることだし、遠山と富田の軍勢が先鋒だと知った上で、康資が現れたのではないか。挑発するのは、相手を怒らせて誘い込むためだから、綱成ならば、念のために、敵陣を偵察する兵を何人か放ったであろう。本当に退却するのか確かめるためだ。退却するときに敵に襲われればひとたまりもないから、普通は、相手に知られないように静かに陣払いするものだ。
 にもかかわらず、あからさまな挑発行為をしたことが不自然なのである。
 綱景と直勝も偵察兵を放ったが、偵察兵の数が少なく、
「敵陣の様子を見てこい」
 と簡単に命じられただけだから、丘を上って、里見軍が陣払いを始めたのを遠目に確認すると、さっさと戻って来た。
 敵陣深くまで踏み込んで、よくよく探ってこいと命令されていれば、陣払いしている二千の里見軍の後方に、別の里見軍三千が息を潜めて控えていることに気が付いたかもしれない。
 そもそも、綱成であれば、何か怪しいぞ、と感じた時点で単独行動を控え、後続部隊が川を渡るのを待ったであろう。
 先鋒の遠山・富永の軍勢が二千、第二陣の綱成の軍勢が三千、第三陣の氏政の軍勢が三千で、合わせれば八千である。それだけの兵がいれば、たとえ里見軍が何らかの罠を仕掛けていても、そう簡単に崩れることはない。
 北条軍にとって不幸だったのは、先鋒を務めたのが綱成ではなく、さして戦がうまくない綱景と直勝だったこと、そして、二人が氏康の言いつけに背いて里見軍を追いかけようとしたことである。
 先鋒の名誉を二人に与えようとした氏康の温情が仇(あだ)になったわけである。
「それ、者ども、行くぞ。わしに続け」
 老齢の綱景と直勝が先頭になって丘を上り始める。
 この丘は、傾斜こそ緩やかだが、山肌は平坦ではない。遠くからだとわかりにくいが、でこぼこした凹凸があり、大きな石も転がっているから、馬を急がせると足を取られて躓(つまず)いたり転んだりしてしまう。それは人間も同じで、足許に注意しながら上らないと危ないので、ゆるゆると進むしかない。
 太田康資は、それほど苦労することもなく、軽やかに馬を進ませていたが、それは、どう丘を下るか下調べしていたおかげであった。
 つまり、思いつきでやったことではなく、入念に計画された上での挑発だったのだ。
 簡単に丘を上りきって、すぐさま里見軍に追いすがるつもりだったのに、思うように距離を稼ぐことができず、丘を上るのに苦労するうちに、ようやく綱景と直勝は、どうも何かおかしいぞ、と気が付いた。
 丘の中腹あたりが大きく窪んでおり、その先は斜面が急勾配になっている。馬を進ませるのが大変で、騎馬のままでは危険なので、下馬して引き馬しなければならない。少しでも急がせようとすると、馬が足を滑らせてしまうのだ。慎重にゆっくりと上ることになる。
 その後ろに続く徒歩の兵は、馬に邪魔されて前に進むことができず、窪みで渋滞し、そこで立ち往生する格好になる。
 と、そのときである。
 消えたはずの里見軍の旗が、突如として丘の上に翻り、里見兵が姿を見せる。ずらりと横に並んで、ざっと百人ほどが弓を構える。空に向かって、一斉に矢が放たれると、矢は大きな弧を描いて北条軍の頭上に降り注ぐ。中腹の窪地に密集しているから、狙いなど定めなくても誰かに当たる。ばたばたと北条兵が倒れる。思うように身動きが取れないことが混乱を大きくする。
 何度となく矢が放たれ、北条軍が乱れた頃合を計って、丘の上から里見軍五千が一気に下る。騎馬武者はおらず、すべて歩兵である。この斜面で戦うには、馬は役に立たないとわかっているからだ。
 北条軍は、この丘の地形すらろくに調べずに上り始めてしまったが、里見軍は、兵力の劣勢を、地形をうまく利用することで補おうとしたので、事前に、どこに北条軍を誘い込み、どうやって戦うかを綿密に計画していた。
 全体として見れば、北条軍は二万、里見軍は八千だが、この丘にいる両軍だけを見れば、北条軍は二千、里見軍は五千で、圧倒的に里見軍が多い。
 しかも、地形の利がある。
 窪地に密集している北条軍を丘の上から弓矢で狙うのは容易だし、急勾配の丘を上るのは大変だが、下るのは、それほど大変ではない。
 北条軍が混乱している隙に、数に優る里見軍は、北条軍を包囲する。
 里見軍の先鋒は勇猛さで知られる正木大膳大夫である。それに黒川権右衛門、川崎又次郎らが続く。
 その中には太田康資もいる。
 北条軍は防戦一方で、戦いようがない。あちらこちらから、退け、退け、という怒号が響くだけだ。
 この窪地に留まっていれば皆殺しにされる。助かるには、丘を下るしかない。
 兵たちは敵と戦おうとするのではなく、ひたすら逃げようとするだけなので、もはや、合戦とも呼べない惨状である。北条軍が、これほどの醜態をさらすのは滅多にあることではない。
 この乱戦の中で、遠山綱景、遠山隼人佑父子が闘死、富永直勝も討ち死に、山角(やまかく)四郎左衛門、太田越前守、中条出羽守、川村修理亮らも討ち取られた。
 この合戦を伝える合戦記によって、北条軍の死者を百四十人と記すものもあれば、百四十騎と記すものもある。この違いは大きい。
 当時、騎馬武者には太刀持ち、弓持ちなど四人から五人の小者が付き従うのが普通だったから、一人の武者が死ねば、それに殉じて死ぬ小者もいるはずで、だから、百四十騎が死んだとすれば、実際には、その数倍の死人が出たはずである。
 どちらにしても、二千の北条軍の死者がそれほど多かったということで、この死傷率は並大抵ではない。ほとんど壊滅状態である。
 北条軍の先鋒は川端まで追い詰められ、そのままでは本当に皆殺しにされたかもしれないが、そうならなかったのは、すでに綱成の率いる第二陣が川を渡り終えて戦闘態勢を取っていたからである。
 綱成は、逃げてくる味方の兵を迎え入れつつ、追撃してくる里見軍を迎撃した。
 戦上手の綱成だから、防備をしっかり固めて、味方が川を渡ってくるのを、じっと待った。
 そうしているうちに氏政の第三陣も川を渡った。
 これで北条軍は里見軍を上回る兵力を得た。
 すかさず綱成は氏政に里見軍の側面攻撃を進言し、それを受け入れた氏政が兵をふたつに分けて、里見軍の左右から攻撃した。
 緒戦で大勝し、勢いに乗って攻めかかった里見軍だが、氏政の手勢に攻められて今度は守勢に回り、じりじりと退却を始めた。
 しばらく一進一退の攻防が続いたが、夕暮れになったので双方が兵を退き、この日の合戦は終わった。
 とは言え、士気は圧倒的に里見軍の方が高い。
 北条軍の名だたる武将を何人も討ち取り、先鋒を壊滅させたからだ。
 合戦が終わると、綱成は重臣筆頭の松田憲秀と共に氏康の元に出向いた。
 すぐ目通りを許されて氏康の部屋に行くと、そこには氏政もいる。
 皆の表情は暗く、空気は重い。
「これでは、まるで通夜のようですな。実際、多くの者が死んでしまったから通夜には違いありませぬが」
 綱成が言うと、
「慎まれよ」
 松田憲秀がたしなめる。
「遠山殿も富永殿も、先鋒の役割をしっかり果たし、さぞや本望でありましょう。戦はうまくいかなかったとはいえ、勝負は時の運。彼らを責めることなどできぬし、彼らの死を次の戦いに生かすことこそが肝心だと考えまする。違いましょうか?」
 綱成がじっと氏康を見つめる。
「何か考えがあるのであろう。申すがよい」
 氏康がうなずく。
「何人か物見を出しましたが、予想通り、敵は浮かれている由にございまする。われらに大打撃を与え、われらが気力を失っていると甘く見ているのでございましょう。今夜は酒を飲み、うまいものを食って、ゆっくり休み、明日、夜が明けたら、また攻めようとするのでしょう」
「うむ、それで?」
「敵が油断しているのであれば勿怪(もっけ)の幸い。先手を打つのです」
「夜襲か?」
 氏政が訊く。
「土地に不慣れなので、夜襲はよろしくありませぬ。夜のうちに敵を囲んで、夜明けと共に攻めかかるのがよろしいかと存じます」
 綱成が答える。
「どれくらいの兵で攻める?」
 氏政が重ねて問う。
「すべての兵で攻めるのです。御本城さまが一万、御屋形さまが一万」
 綱成が懐から絵図面を取り出して、床に広げる。
 それを指差しながら説明を続ける。
 すなわち、氏政の率いる一万は国府台城の前面に敵前上陸を敢行する。氏康の率いる一万は、からめきの瀬を渡河し、国府台城の背後に迫る。
 夜が明けるまでに国府台城の前後を二万の兵で包囲し、夜明けと共に一斉に攻めかかろうというのである。単純過ぎるほど単純な作戦だ。うまくいけば効果は絶大だが、失敗すれば、つまり、敵方が警戒を怠らず、氏康と氏政の渡河を阻止すれば、またもや北条軍は壊滅的な打撃を受けるであろう。
 その点を氏政が指摘すると、
「そのようなこと、わたしにもわかりませぬ」
 綱成は平然と答える。
「今日の勝ち戦に浮かれることなく、里見がしっかり守りを固めていれば、われらに勝ち目はないのです。しかし、わたしは里見は浮かれていると考える。それだけのことでございます」
「そういうものか」
 小首を傾げて、氏政が氏康に顔を向ける。
 綱成の返答をどうとらえればいいのか、氏政には判断できないのであろう。
「そうしよう。敵に時間を与えてはならぬ。時間が経てば経つほど、われらには不利なのだ。敵が油断している隙を衝くのだ。敵が油断することなく、しっかり守りを固めていれば、われらよりも上手(うわて)だったというだけのことだ。潔く負けを認めようではないか」
 自分に言い聞かせるように、氏康が言う。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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