母親からの小包はなぜこんなにダサいのか第六話 最後の小包(4)

 池知に「飲みに行こう」と誘うと、高円寺にするかと返事が来た。
 高円寺なら歩けない距離ではない。
 自転車でもいいかと思ったけど、もう何年も使ってないので鍵がどこにあるのかすぐに思い出せない。マンションの自転車置き場に置きっぱなしの自転車がすぐ使えるのかもわからなくて、「帰りはタクシー使ってもいいな」と考えながら家を出た。
 高円寺の駅前で待ち合わせする。彼の方が先にいた。なんとなく、数メートル先から彼を見ていると、急に顔を上げて気づいた。「おおっ」と言って手を挙げた姿が昔と変わりなかった。
「どこ行こうか」
「どこでも。決めて」
「串焼きでいいか」
「うん」
 昔から池知が好きだった串焼き屋のカウンターに並んで座ると、彼はすぐに言った。「お母さん、亡くなったんだって?」
「......そうだけど、今はその話はしたくない」
「わかった」
「でも、なんで、知ったの?」
「同じ会社なんだよ。訃報が回ってきてるに決まってるじゃん」
 考えてみれば、通夜には本社の人事課の人が来ていた。いろいろあって、すっかり忘れていた。
 大阪支社にいると、池知と同僚なのだという意識が少し薄れていた。
 どこかで知って心配してメールしてくれたのか、と思っていたのでちょっと嬉しかったけど、同僚としての気づかいなのかもしれない。
 池知には大阪に行く少し前、「将来のビジョンが違っている気がする」というわけのわからない理由で振られていた。
 ただそれは、他に好きな女ができたのか、自分に飽きたんだろうと考えていた。そうは言えないから、意味不明の理由を持ち出してきたんだろう、と。
 すぐに「いいよ」と言った。一度気持ちが離れた男女の仲を長引かせても良い結果は得られない、というのは、親たちを見ながら育ってきた弓香の信念だった。池知はどこかほっとした顔をした。
 池知は今までで付き合ってきた中で、一番穏やかで一番落ち着けた人だった。実を言うと、唯一、時々思い出して「あの人なら結婚してもよかったかも」と思う相手でもあった。誰にも言えないし、池知自身にはなおさら言えないけど。
 彼はきっとすぐに別の人と付き合うのだろうな、と予測していた。でも、本当に次の週に経理のまほろちゃんという後輩と付き合いだしたのにはびっくりした。さすがに早過ぎないか、と思った。彼のことは大阪への転勤に即答した理由の一つにもなった。
 それでも、今日は誰かと一緒にいたかった。何も考えずに飲みたかった。
「なんと言ったらいいのかな。ご愁傷様でした」
「何も言わないで。話題にしないで」
 彼の「ご愁傷様」がカウンターの上に行き場を失って漂っているような気がした。涙があふれて、店の紙ナプキンを使って涙を拭う。
「ごめん」
「ごめん」
 お互いに一緒に謝っていた。
「注文しようか」
「うん」
 池知はすぐにメニューを取り上げて、「レバごま塩、タン、ハツ、モツ煮込み、アスパラ、大根酢醤油......」と、弓香が好きなものばかり頼んでくれた。
 その後は、母の話は出なかった。会社の人たちの噂とか、今している仕事の内容とか、上司の悪口とか、以前と変わらない会話をした。
「そう言えば、まほろちゃん、お元気? こんなふうに二人で飲んでて大丈夫だった?」
 食事の終盤になって尋ねた。少し酔ってきたからやっと言えた。内心、こんな時なのだから、別にかまわないだろう、と思っていた。
「ああ、きっと元気だよ。もう別れているから知らないけど」
「え。そうなの?」
 彼は淡々と酢醤油にまみれた大根をかじっていた。
「振られちゃったの?」
「いやなんというか......だって、別れた後にすぐ『付き合ってください』って言われたから、そういうのもあるかなあ、ってぐらいの気持ちで付き合ったから。それは向こうにも申し訳なかった」
「何それ」
 そう言いながら、にまーっと笑ってしまった。横並びの席でよかった。顔を見られなくて。
 母が死んでから初めて笑ったなと思ったら、また涙があふれた。それにはすぐ気が付いたようで、紙ナプキンを差し出してくれた。
「まほろちゃんのことが好きになったから、振られたのかと思ってた」
 涙を拭きながら言った。
「俺そんなこと一言も言ってないじゃん。そうだったら、はっきり言うって」
 確かに池知は正直な人だった。でも、男って、いや、男女はいざとなったら別れるためならなんでも言うと思っていたから信じていなかった。
「でも別れる時、なんか、ほっとしてたでしょ」
 ずっと気になっていたことを尋ねた。
「ああ、あれは......悲しかったけど、もう振り回されなくて済むと思ったらほっとした」
「そんな」
 ふと、涙を流しながらこんな話をしていたら、誤解されるかもと気がついた。
「あ、あの。この泣いているのは別に今の話とは関係なくて......」
 慌てて説明した。
「わかってるって」
 池知は弓香の肩をぽんぽんと叩いた。
「わかってるよ。俺、高校生の時、父親亡くしてるから」
「あ、そうだったね」
 ほっとした。やっと何も考えず、普通に悲しめる人を見つけられた気がした。
「弓香はお母さんと仲良かったじゃん」
 今日、初めて名前で呼ばれてどきりとする。
「大丈夫か」 
「わからない」
 正直に言った。
「まだ、ぜんぜんわからないよ」
「そうだろうな」
 池知は話を変えた。
「大阪からはいつ戻ってくるの?」
「さあ、どうだろ」
「上の人から何も言われてないの?」
「うん」
「大阪、気に入っているの?」
「そうね、結構、好きかな」
「また、東京に来た時は連絡してよ」
 結局、どうして別れることになったのか、もう一度、ちゃんと尋ねたい気もしたけど、きっとまた会えると信じられて、その日はそのまま別れた。彼は別れ際にも「つらくなったら、いつでも電話して」と言ってくれた。

 かなり酔ってしまったのでタクシーで帰宅して、マンションのドアを開くと電気が付いていた。死ぬほど驚いた。
 そのまま逃げるか、警察に電話しようと思った時、足元にくたびれた黒い靴があるのに気がついた。葬儀会場で脱いでいた姿に、見覚えがあった。
 それでも、おそるおそる中に入っていくと、ダイニングキッチンのソファに、まさおが座っていた。
「驚くじゃないですか! 勝手に入らないでくださいよ!」
 まさおがゆっくりと振り返る。
「どうやって開けたんですか!」
「鍵を預かっていたから」
「だからといって、急にこんなふうに来るなんて......」
「......ちゃんとしなさい」
「はあ?」
「告別式くらい、ちゃんと出なさい」
 怒りと気持ちの悪さで、ぞっとした。言葉がなくて、まさおをにらみつけた。それは正論だけど、それをできなくしたのは、いったい、誰のせいだと思っているのだ。
 頭ごなしに叱りつけるような口調にもむかむかした。相変わらず、この人は私のことを自分の子供か生徒のように思っているのか。
「私のことが嫌いだということはわかるけど、お母さんの告別式くらい、ちゃんと出なさい。お母さんはあなたのことが本当に好きで、愛していたのだから......」
 最後の方がことばにならなくて、まさおは腕で涙をぬぐった。
「だって......」
「お母さんはあなたがいなくて、どれだけ悲しむか......」
 絞り出すような声だった。また、腕で顔を覆う。
「誰のせいだと思っているのよっ!」
 弓香は怒鳴り返した。
「私だって出たかったわよ。だけど、あんたやあんたの家族がずらっとそろって、偉そうに私のママの葬式を仕切って、私のママのためにとか言って泣いて、本当に気持ち悪い」
 まさおが信じられない、という顔でこちらを見ている。
「あんなの私のママのお葬式じゃない。あんなの私のママじゃない!」
「そんな......」
「私のママは死んでない。私のママはまだここにいるの。だから、もう帰って」
「......帰りますよ。すぐに帰ります。だけど、一言言わせてください。私のことが憎いだけで、そんな悲しいことを言わないでください」
 絞り出すような声だった。
「私にも、うちの家族にも、いろいろ不手際もあったでしょう。だとしたら謝ります。だけど、そんなことを言って、あなたの母親やあなたの人生を否定すると、後で後悔しますよ」
「脅しですか」
「違います。脅しなんかじゃない。そんなひどい言葉を吐いて......私のせいだとは思いますが、あなたが気の毒だ」
 まさおはため息をついた。
「そういう意味では本当に申し訳ないと思います。ただ、優子さんと暮らせたこの数年は本当に幸せでした。それは結婚を許してくれたあなたにもお礼を言わなくてはいけない」
 まさおは立ち上がって頭を下げた。
「そんなの......私が反対してもママは結婚したでしょ。別に積極的に許可した覚えもないし」
「そうですか。でも、優子さんは何度も言ってましたよ。あなたが許してくれなかったら、絶対に結婚はしなかったって」
 知らねえよ、と言ってやりたい。だけど、もう、それを叫ぶ元気はなくなっている。「本当にありがとう。優子さんも幸せだったと思いたい......それをずっと考えています。彼女が亡くなってから。あなたから引き離して......よかったのか。私や血のつながっていない子供や孫の世話もさせて。とにかく、ずっと考えています」
 まさおはしばらく弓香を見た後、「すまなかったね」と一言だけつぶやいて家を出て行った。
 まさおがたいして言い返しもせず、ただ素直に謝って帰って行ったことが、じくじくと心を痛めた。
 いったい、この時間にここから千葉までどうやって帰ったのだろう、ということに気が付いたのは、ベッドに横になった時だ。タクシーだろうか、それとも東京のどこかに泊まったのだろうか、長男にでも迎えに来てもらったのだろうか。

母親からの小包はなぜこんなにダサいのか

Synopsisあらすじ

吉川美羽は、進学を機に東京で念願の一人暮らしをはじめる。だがそれは、母親の大反対を振り切ってのものだった。
頼れる知人も、また友人も上手く作れない中で届いた母からの小包。そこに入っていたものとは……?

Profile著者紹介

原田ひ香(はらだ ひか)
1970年神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。
著書に『三千円の使いかた』、『口福のレシピ』などがある。

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