母親からの小包はなぜこんなにダサいのか第一話 上京物語(1)

 ついに一人暮らしがはじまる。
 この東京で。

 吉川美羽(よしかわみう)は高円寺の駅の前に、大きなスーツケースと一緒に降り立った。
 三月に上京して一ヶ月ほどは中目黒に住む、兄のマンションに居候させてもらっていた。五つ年上の兄、章(あきら)は中堅の広告代理店に勤めているけど、仕事は忙しく愚痴ばかり言っている。その分女性にモテる業種でもあり、この世の春とばかりに遊んでいた。彼女とまではいかないが、ちょっと気になる女性もいるようで、美羽には冷たい。
「お前、早く家を決めろよ」
 毎朝、出がけに言われていた。ちゃんと起きて、朝ご飯を作ってやっていたのに。トーストとスクランブルエッグという簡単なものだが。
「兄妹が一緒に住むなんて、キモいからな」
「それはこっちのセリフ」
 兄がかわいい妹を愛でるようなアニメがたくさんあるけれど、あれはどこの世界の話か、といつも思う。兄は中学時代から毎朝洗面所を占領し、少し文句言っただけでぽかりと頭を殴ってきた。向こうだって五歳年下の妹なんて「勘弁して欲しい」存在なんだろう。
 それでも言い合いながら心の中では「もう少し優しくしてくれてもいいのに。一緒に部屋を探すことくらいはしてくれてもいいのに」とも思ってしまう。
「なんでも一人でやる、親や兄貴の世話にはならないってタンカ切ったのは自分だろ」
 美羽の心の声が聞こえたかのように、兄は言った。
「だから、わかってるって」
「どこに住みたいんだっけ」
「高円寺」
「うわ、遅れてきたサブカル女」
「違うよ、学校に行きやすいから」
 美羽が入った女子短大は中央線沿線にある。しかし、兄が言うことも一理あった。
 学科は英文科だけど、本当はライターとかカメラマンとか、なんらかのフリーランスの仕事をしたい。そのチャンスはあの街ならつかめそうな気がする。
 不安を抱えながら、休日を部屋探しに費やしていた。美羽は結構、ものごとには細かく、優柔不断な方だ。高円寺界隈の不動産業者はすべて当たり、四万五千円から五万までという予算に合う、高円寺界隈の部屋は全部内見してしまった。やっと駅から徒歩十三分、狭いけどロフト付きの洋室、という部屋を見つけた。それなら、アルバイトを少しすれば、家からの仕送りでなんとかやっていけそうだった。その部屋は玄関の右の壁のところが作り付けの靴棚になっていて、靴だけはたくさん収納できそうだった。
 兄の声に強く言い返せなかったのは、親が最後まで反対した上京に、結局、兄が口添えしてくれたからでもあった。
「この時代、男の俺にだけ上京許して、妹はだめとか通用しないだろう。なんかあったら、俺もいるし、短大ぐらい行かせてやったら」
 その一言が、かたくなだった母の気持ちを動かしてくれた。母は長男である兄に弱い。最後はしぶしぶながら認めてくれて、入学願書を出すことができた。
 これから、ずっと兄には頭が上がらないのだろうか。

 さて、駅前にずっと立っているわけにもいかない。
 美羽はスーツケースの持ち手を強く握りしめた。自分は今、これしか持っていないのだ。これが全財産。実際、親から受け取った二十万と、子供の頃から貯めた十数万円もここに入っている。
 ずっと父が勤める信金に貯金してきた金だ。それを東京に来る直前に下ろしてきた。その信金の支店は東京にはないからだ。口座を解約すれば、あの街や父と関係が切れると思っていたけれど、そんなに簡単なことではなかった。ぜんぜん、切れた気がしなかった。
 アパートの鍵を受け取るため、相場(あいば)不動産に向かった。
 相場不動産は高円寺で八軒目に入った不動産屋だ。
 店は駅から向かって終わりの方、道が細くなって、もう商店街が終わると思った頃にやっと現れる。ガラス戸に物件情報がびっしり貼ってあるような、昔ながらの不動産業者だった。
 引き戸をがらがらと音をさせて開く。
「いらっしゃいませー。ああ、吉川さん」
 中年の女性社員が、美羽の顔を見るとすぐに笑顔になって立ち上がった。
 ここで物件を決めたのは、この女性社員、町田が美羽の願いを一番、親身に聞いてくれたからだ。予算に合う部屋を最後まで探し続けるしつこい美羽に付き合って、内見も何度もしてくれた。それに、二回目に訪れた時、すでに名前を覚えていた。
 町田はデスクの向こうから、腰軽く出てきた。
「荷物はそれだけ?」
 きっと母と同じくらいの年頃だろう、と彼女の目尻のしわを見ながら思う。母はそこにアンチエイジングの美容液をすり込んでいるが、この人はきっと何も塗っていない。
「はい。あとは兄の家にあって......これから少しずつ運ぶつもりです」
「若い人は身軽でいいわね」
 身軽と言われて、急に身体が軽くなった気がした。自分は何も持っていないと思っていたけど、それは身軽だということでもあるのだ。
「家具も選び放題じゃない」
「でも、そんなにお金ないから......」
「ここに来る前、もう少し駅の方にリサイクルショップがあるんだけど」
 美羽は思わず、首を傾げた。緊張して歩いていたからか、気がつかなかった。
「あそこがきっと高円寺では一番安いわよ。まとめて買えば、家まで運んできてくれるしね。私の名前だせば、少し安くしてくれるはず」
「ありがとうございます」
「店に行く時、声をかけてくれれば、手が空いてれば一緒に行ってあげる。あそこもうちが紹介した物件だから、店長は知り合いだし、あなたのこと、紹介するから」
 町田さんはこの街で最初の知り合いになるのだろう、いや、そう考えていいのか、と思った。だとしたら、力強い。だけど、都会の人とどのくらい距離を縮めて付き合ったらいいのか、よくわからない。
 彼女は店の奥から、鍵を持ってきた。小さい鍵が四つ、束になっている。
 彼女は美羽の手のひらにそれを置いた。
「今まで、一人暮らしをしたことはなかったよね?」
「はい」
「そしたら教えておくけど、まず、落ち着いたら、合鍵を一つ作って、これはどこかにしまっておいた方がいいかも。転居する時、この鍵はそろえて返してもらうことになっているからね」
 美羽は手の中の鍵を見つめる。それはまだ少し温かかった。
 これが自由の証。親と何度もケンカし、母に泣かれて手に入れたものなのだ。「大丈夫?」
 無言で鍵を見つめている美羽が心配になったのか、町田が聞いた。
「あ、はい」
「家のことで何かあったら、遠慮なく相談して。高円寺のことでもいいから」
「じゃあ、早速お聞きしていいですか」
「なんなりと」
 彼女は薄く笑った。
「あの......引っ越ししたら、ご近所に挨拶した方がいいんでしょうか。あと、大家さんにはどうしたら」
 自分の地元では、近所へのご挨拶回りは必ずする。それをしなかったら、「変わり者」「常識を知らない」と言われてもおかしくない。実際、美羽自身も銘菓を用意していた。
 町田は少し首をひねると、答えた。
「ああ、まあ、昔は菓子折り持って家をまわったものだけど、今はどうかしらねえ。吉川さんが入るコサカアパートは確か、四戸だったわね。あそこはうちが管理しているのが、あなたを入れて三戸、別の不動産屋が管理してるのが一戸で、少なくとも、うちが管理している人たちは毎月お家賃も振り込んでくれるし、ちゃんとしているけど......まあ、それでも、特に挨拶しなくていいんじゃないかしら? 防犯的にもね、吉川さんは女の子だし」
「わかりました。じゃあ、大家さんには?」
「大家さんは大丈夫。少し離れたところに住んでいる方だし、今は大家さんの方の個人情報もあまり公にしないくらいだから。うちに全部任されているから気にしないで」
「では......」
 美羽はスーツケースを開けて、菓子折りを一つ、差し出した。
「これ、ご近所に配ろうと思っていたものです。つまらないものですが、ぜひ」
「あ、南部せんべい。あらあ、嬉しい」
 ちょっと待って社長を呼ぶから、と奥に呼びかける。
「相場さん! 相場さん!」
 すると、杖をついた老人がゆっくりと出てきた。
「相場さん、こちらですよ、今度、コサカアパートに入るの」
「小坂さんのところの、四戸の? 松の木だっけか」
「松の木まで行きませんよ、その手前」
「ああ」
 老人が顔を上げて、伏し目がちな目が見開かれた。それまで動作はゆっくりだったのに、視線が鋭い。
「あのアパートは土地からうちが仲介して建てる時も立ち会ったんだよ、よく知ってるんだ。東京は初めてだね」
 相場は美羽をじっと見ていった。
「はい」
「わからないことあったらね、この人に聞くんだよ」
 町田を指差した。
「今、そう言っていたところですよ。そしたら、ご挨拶に南部せんべいまでもらっちゃって。それで社長を呼んだんですよ」
 相場は町田が持っている菓子折りをじっと見た。
「若いのに、しっかりしているね」
「でしょう」
「きっと大家の小坂さんにも喜んでもらえるね」
 最後の「ね」は町田に向いていた。
「そうですね。じゃあ、そろそろ」
 町田がうながして、美羽と一緒に外に出た。
「社長は話が長いから」
 自分が呼んだくせに、町田は苦笑していた。
「防犯だけには気をつけて。二階だけど、窓とドアの鍵は必ずかけておくようにね。これから暑くなるけど、開けっ放しはダメよ。何かあったら、とにかく、相談して」
「ありがとうございます」
 頭を軽く下げて、歩き出す。
 これから、まだまだ十分は歩いて行かなければ部屋まではつかない。
 美羽は小さく息を吐いた。

母親からの小包はなぜこんなにダサいのか

Synopsisあらすじ

吉川美羽は、進学を機に東京で念願の一人暮らしをはじめる。だがそれは、母親の大反対を振り切ってのものだった。
頼れる知人も、また友人も上手く作れない中で届いた母からの小包。そこに入っていたものとは……?

Profile著者紹介

原田ひ香(はらだ ひか)
1970年神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。
著書に『三千円の使いかた』、『口福のレシピ』などがある。

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