母親からの小包はなぜこんなにダサいのか第六話 最後の小包(3)

 霊安室にはすでに母がベッドに寝かされていて、顔に布が被されていた。
 その横にまさおと、その家族......たぶん、息子と娘だろう、その家族がずらりと並んでいた。
「ああ、弓香さん、ああ、よかった」
 座っていたまさおが立ち上がった。
「は? よかった? 何が?」
 思わず、語気を荒げてしまう。
「いや......そろそろ、ここを出て、どこかに運ばないといけないって言われていて......その前に来てもらってよかった」
「ああ、そういうことですか」
「こういうことになって......弓香さんには申し訳ない」
 まさおが肩を落とした。目が真っ赤に腫れている。ずっと泣き続けていたのだということがわかる。その目がまたうるんで、彼はハンカチを使った。
 そこから目をそらせた。
「本当に急なことで......」
 弓香は彼の言葉を無視して、母の脇に立ち、そっと顔の上の布を取った。すべてを見ることはできず、顔の三分の一くらいが見えるとすぐに布から手を離してしまった。母の目をつぶった顔がちらりと見えた。真っ白だった。
「どうして、こんな急に......」
 すると、まさおの隣に並んでいた男性と女性がお互いの腕を押すようにして、少し前に出た。
「弓香さんですか......父の......まさおの息子の正隆です、こんな時になんですが初めまして」
「娘の貴子です」
 さらに正隆は自分の後ろにいた女性を前に押し出すようにして「妻の恵です」と言った。
「はじめまして。優子さんには本当にお世話になっていて......」
 彼女はハンカチをポケットから出すと目に押し当てた。
 すると、恵の手を握っていた小さな男の子がその手を引っ張った。彼女がしゃがみ込んで「優子お祖母ちゃんの娘さんだよ」と言った。彼は理解できたのか、できなかったのか、小さくうなずいた。
 そうか......こちらではもう、母は「優子お祖母ちゃん」として人生が始まっていたんだな、とぼんやり思った。
「僕らもさっき、先生に説明を受けたのですが、優子さんは数日前にインフルエンザにかかってこの病院に来て、自宅で療養していたんですが、昨日、急に息が苦しいと言って、親父の車でここまで来て診てもらったら肺炎になっていて......すぐ入院したんですが」
「インフルエンザ......でも、今はいろいろ薬がありますよね」
「それがうまく利いていなかったみたいで」
「私も先生のお話、聞けますか」
「あ、もちろん。今日は駄目かもしれませんが、明日ならきっと」
 自分がちゃんと話を聞こう、と思った。この人たちに聞いただけでは諦めきれない。「それで、すみません。先ほども父が言ったように、実は病院の方から今日中にこちらから移してくれって言われていて、すでにこちらで紹介された葬儀屋さんにお願いしていまして......」
 正隆がもう一度、説明してくれた。
「はあ」
「まず、ここから父と優子さんが住んでいた家に運ぶか、それとも、直接葬儀会場に運ぶか、今話し合っていたところなんです」
「葬儀会場?」
「駅前に市民用の会場がありまして」
 葬儀会場にいきなり運ぶ......? いったい、どういうことなんだろう。理解できない。
「そんなこと、できるんですか」
「はい。葬儀屋さんに聞いたら、今はそういう方も多いそうで」
 この人たちは母をもう葬儀会場に運ぶ相談をしているのか。昨夜、死んだばかりなのに。
 そんな人たちに囲まれて、母は生活していたのか。息が苦しい。
 すると、最初の一言以外は黙っていたまさおがつぶやいた。
「俺は家に運びたい。優子を連れて帰ってやりたい」
「お父さんは連れて帰りたいのよね。私たちもそうしようかと言っていたところで......」
 貴子が言葉を添えた。
 弓香は少しほっとした。
 後ろに人の気配がして振り返ると、黒い服を着た若い女が立っていた。
「葬儀屋の田中さんです」
 正隆が紹介してくれて、彼女もまた、深々とお辞儀をした。
 そこから葬儀が始まったような気がした。 
 
 駅前のビジネスホテルで目を覚ました。
 すでにここに泊まるのも三日目だ。今日は十二時から告別式をするという。
 弓香はのろのろと起き上がって、顔を洗った。鏡をみるまでもなく、自分の顔が疲れきっているのがわかる。実際、目の下が真っ黒だった。
 最初の夜、母とまさおの家に泊まってくれ、と勧められたのを断って、ここにきた。
 一番小さな、普通のシングルルームを取った。ほとんど、ベッドだけでいっぱいのような、壁の白い部屋はまるで棺桶のようだ。
 だけど、今はこの部屋がふさわしい。
 やっぱり、ホテルにしてよかった、と思う。あの家族に囲まれて、母の葬儀の準備をするのは耐えられなかった。この部屋に帰ってくるとほっとした。
 母が死んだ翌日が大安だったので、日を待って葬式を出した。
 まさおは式の最中人目をはばからずに泣いていた。
 弓香だって泣きたい。
 だけど、隣で号泣してるまさおを見ていると、なんだか、どうしても涙が出なかった。ただただ、心が冷めていく。
 だいたい、まさおが喪主だなんてことがあるだろうか。彼はただ、泣いているだけでまったく役にたたない。
 息子や娘が「父さんは座ってて、僕たちがやるから」と言って世話を焼いている。そのくらいなら、なぜ、自分にやらせてくれないのか。
 だけど、葬儀屋も周りの人も、誰もなんの疑問もなく「喪主はまさおさんで」と話を進めるから、弓香は言い出せなかった。
 そんな自分が悔しい。
 ほんの一瞬の勇気を出せなかっただけで、自分は最愛の母の喪主にもなれなかった。周りが当たり前のように行動していても「それはおかしくないですか。私が喪主をします」と言えばよかった。
 その後悔でまさおの隣に立っているのがつらい。
 大切な母の葬儀なのに、悲しみにくれ、集中することもできずにずっとぐるぐると考えている自分が浅ましくて、嫌になる。
 あれもいやだった、と弓香は顔を洗いながら思い出す。
 最初の日、家に帰ったまさおが何を思ったか急に泣いていた顔を上げて、「これからは自分のことを本当の親だと思って頼ってください」と言ったのだ。
 そして、自分の言葉に酔ったように、また声を一段と高くして泣いた。最後の言葉は泣き声にかき消されてよく聞こえなかったほどだ。その肩を抱く息子も泣き、隣の娘も泣いた。
 一同が号泣しているのを見ながら心がどんどん冷めていった。はあ? と言いたかった。
 本当の親? それは母しかいない。 
 お前が私の親? 冗談も大概にしろ。この葬式が終わったら、二度と会わない。
 財産分与かなんかでもめたって、絶対に会わない。すべて弁護士を立てて、こいつらとは二度と会わない。法事もこっちで全部やる。一瞬でそこまで考えた。
 なかなか顔を洗い終われない。
 なぜなら、涙が後から後からあふれてきて、それを水でずっと流しているからだ。
 しばらくして、諦めてタオルで顔を拭った。
 もちろん、その後からも涙はあふれてきた。
 この部屋では泣けるのに、葬儀会場やあの家族の前では泣けない。
 たぶん、「薄情な娘だ」と思っているんだろうな、と思ったら、少しだけ涙がとまった。あいつらは自分たちが泣いているだけで「悲しんでいる」「悼んでいる」と思っているような人たちだ。たぶん。
 それでも、化粧をしようとするとまた涙があふれてきて頬を濡らす。結局、化粧はやめて手を置いた。
 昨日もそうだった。肌にファンデーションを塗ることさえ出来なくて、ほとんどすっぴんのまま、会場に行った。
 今日は十時には来いと言ってたっけ。
 そう考えながら、ぼんやりと鏡を見ている。
 ふっと思う。
 このまま、帰ろうか。
 どうせ、告別式だろうが、焼き場だろうが、知らない人たちの中にぼんやり立って、泣くこともできずに気まずい時間を過ごすだけだ。
 あそこにいてもいなくても、きっと母は気にしない。
 もう、十分、親不孝はしてしまった。
 そう思ったら、また新たな涙が出てきた。
 ずっと母とろくに連絡を取らなかった。メッセージやメールにも素っ気ない態度を取ってきて、盆暮れも帰らなかった。
 ここで、数時間の親不孝を重ねても、もう、同じだろう。
 母がまだこの世のどこかにいるなら、あの会場ではない。きっと自分の近くにいる。いないなら、どこにもいない。
 大阪に帰ってもいいし、東京のマンションに帰ってもいい。
 そう考えたら、やっと身体に力が出てきた。
 弓香は立ち上がって、ボストンバッグを取り上げた。

 ――今どちらですか。そろそろ告別式始まります。
 ――もう、始めてもいいでしょうか。
 LINEを使ってまさおからのメッセージと電話が来ていた。まさおのアドレスからだったけど、文面から、息子か娘が送ってきているような気がした。返事はせずに、スマホの電源を切った。
 電車に乗って千葉から東京に行き、東京から中央線に乗り換え、新宿で京王線に乗り換えて永福町のマンションに帰ってきた。
 まっすぐ大阪に帰ってもいいかな、と思ったけど、久しぶりだから寄って行くことにした。空気の入れ換えをしてもいい。
 マンションは永福町からは十分ほど歩く。大宮八幡を抜けるとすぐだった。
 築二十年、七十平米、2LDKで、ダイニングキッチンの他に小さいけれど二部屋あり、昔は両親と弓香のベッドルーム、離婚後は母と弓香の部屋になっていた。
 玄関入ってすぐ脇の四畳半が弓香の部屋だったけど、そこにはすぐ入らず、まっすぐ廊下を抜けて、荷物を持ったままダイニングキッチンに入る。
 時々、母が来てくれていたからか、空気はそうよどんでいなかった。それでも、窓を開け放って、風を入れ替えた。
 結局、母はここの家具をまさおの家に持ち込まなかったし、弓香もほとんど大阪でそろえたので、食卓、ソファ、テレビなど、大きなものがそのまま残っている。
 弓香はソファに腰掛けた。
 窓の外は天気がよかった。
 今頃は告別式も終わった頃かな、と考えるとやはりちくりと胸が痛んだ。
 でも、どうしても、あそこに母がいて、あそこに行かなければお別れができない、という気もしなかった。
 ソファにそのまま寝そべる。
「ママ、バイバイ」とつぶやくと、涙がすうっと流れた。
 そして、もしも、これを母が悲しんだり、嘆いたりするなら、それもまたお門違いだとも思った。
 だって、今、他人に囲まれて告別式をしているのは、母の人生の選択の結果ではないだろうか。
 母がそれを望んだのだ。
 ふと考える。このマンションはどうなるんだろう。
 たぶん、ここは母と弓香の名義になっているはずだった。母が再婚する前、そんなことを言っていた気がする。いずれにしろ、少なくとも今も半分は母のもののはずで、まさおにも相続権があるのではないだろうか。前夫がローンを払ったのに?
 まあ、どうでもいい。あの人が所有権を主張したりしたら、その時はその時だ。何かを取られたら、今以上にあいつらを嫌ってやればいい。
 そう考えたら、急に気が楽になって、弓香はそのまま寝入ってしまった。
 この三日、ろくに寝られなかった。久しぶりの深い眠りだ。数時間後、手足が冷えて、目が覚めた。
 コートを着たまま寝ていたから、身体が冷え切るのは防げたのは幸いだった。
 スマートフォンを取り上げたが、でも、そこにはきっとまさおやその家族からの電話やLINEが入っているだろうと考えたら気が重く、電源を入れなかった。
 バッグの中から会社から支給されているスマートフォンを取り出した。
 必要はなかったけど、会社用のメールを開けて見ていると、その中に昔の恋人、池知智春(いけちともはる)からのメールが混ざっていることに気が付いた。

母親からの小包はなぜこんなにダサいのか

Synopsisあらすじ

吉川美羽は、進学を機に東京で念願の一人暮らしをはじめる。だがそれは、母親の大反対を振り切ってのものだった。
頼れる知人も、また友人も上手く作れない中で届いた母からの小包。そこに入っていたものとは……?

Profile著者紹介

原田ひ香(はらだ ひか)
1970年神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。
著書に『三千円の使いかた』、『口福のレシピ』などがある。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー