母親からの小包はなぜこんなにダサいのか第二話 ママはキャリアウーマン(1)
――そろそろ仕事は見つかった?
スマートフォンの画面にその言葉が見えて、新井莉奈(りな)は既読がつかないように、そっと閉じた。
夫の大樹(たいき)は少し前に会社に出て行った。
毎朝、「あー、嫌だなあ」と小学生のように駄々をこねる。北海道の札幌から車で一時間ほどの町に転勤してきて、平均年齢の高い支社の雰囲気にまだ慣れないらしい。
大卒の大樹の役職は係長で、現地採用の年上の部下もいる。転勤したばかりだからわからないこともいろいろあるのに、質問されるたびに嫌みを言われて、それがつらいようだ。以前は新橋にある本社だった。同年代の社員がたくさんいて、風通しがよく、活力がありながら和気藹々とした雰囲気だった。とはいえ、若手は二十代のうちに地方に出されるのは決まったコースだからしかたがない。
少しでも元気になってもらいたい、と毎朝お弁当を作ってもたせている。多少なりとも大樹の力になれればと思えばこそだ。今朝は白いご飯にミートボール、甘い玉子焼き、ブロッコリーのごま和え、人参のナムルと彼の好物ばかり。色味もきれいにできて、莉奈も満足した。何かにアップするあてもなく、スマホで写真を撮る。
昨日の風呂の残り湯を使って、まずは洗濯機を回した。その間に朝食の片付けをして、掃除をする。
1LDKの部屋はそう広くないが、新築だ。社宅はなく、自分たちで選んだ部屋を会社が借り上げる規定になっていた。真っ白なクロスにパイン材の床、どんなふうにでもインテリアでアレンジできるこの部屋に、莉奈は夢中になっている。
洗濯が終わると、残り湯を抜いて、風呂もピカピカに磨く。
毎日、こまめに掃除している狭い部屋の一通りの家事が終わってもまだ、十時にもならない。莉奈は朝の情報番組を観ながら、紅茶をミルクで丁寧に煮出してロイヤルミルクティーを作って飲んだ。今日はクッキーでも焼いてみようか。
幸せだ、としみじみ思う。
そして、気持ちに余裕ができたので、えいやっと勇気を出してLINEを開いた。
――そろそろ仕事は見つかった?
――ママのお友達の夏目さん、やっぱり、あなたのように旦那さんの仕事に着いて転勤して、でも、地元で保険会社に就職して資格を取らせてもらって、キャリアを築いたんですって。保険会社ならどこに行ってもできるし、転職も気軽にできそうよね? 今度、話を聞いてみようか。
――それから、ご近所の沙織ちゃん、覚えてる? あなたの六つ上で、夕方はいつも道路で縄跳びしてた子。やっぱり、ご主人の転勤で引っ越した後、東京に戻ってきて、テレフォンアポインターのアルバイトから初めて、その後、全国大会で優勝して、今は指導者として本社の社員になったんだってよ。すごいわよね。
――この間、テレビで、やっぱりあなたみたいに旦那さんと転勤で地方に行ってキャリアが潰されたあと、地元の窯で陶芸を習うことになって、最初はただの趣味だったけど、そこから才能が開いて陶芸家になった女性の話をやってたわよ!
――頑張れば、道は開けるのね。アルバイトからだって社員になれるのよ。ママだってそうだったの。あなたも諦めないで頑張って。
このまま黙っていると電話がかかって来かねないので、「ありがとう」というスタンプを押して、さらに「もう少し、こちらの生活が落ち着いたら考えなくちゃね。ありがとう!」と書いて送った。
深い深いため息が出た。
莉奈はおうちが大好きだ。
こちらに夫とともに転勤してきて数ヶ月、狭いけど新しくてかわいい部屋に住んで、楽しくてたまらない。
家はJRの駅から自転車で二十分。小型車は大樹が朝晩の通勤に使っているから莉奈の足はもっぱら自転車のみである。けれど、自転車圏内に大型スーパーが二つもあるから、まったく不満はない。大樹は「ここにいる間だけでも、軽自動車買おうか。莉奈も必要だろう」と言ってくれるけど、今のところは大丈夫だ。
だって、莉奈は家にいられるだけで幸せなのだから。
それでもスーパーには毎日行く。
朝、チラシをチェックし、特売品が多い方の店を選ぶ。
スーパーを一通り回って、その日のお買い得商品を中心にその日の夜と翌朝、お弁当の献立を考える。
最初はまとめ買いも試してみた。でも時間を持て余してしまうし、うまく食材を使い切れない時もあって、自分には毎日買い物をする方が合うとわかった。
一通りの買い物が終わると、百円でコーヒーが飲める店内の休憩所で休みながらスマートフォンをいじる。書店や百円ショップもそろっているから、それらを見て回るのも楽しい。
帰ってきたら、家計簿を丁寧に付ける。
莉奈の家計簿は、書店などで売っているものではなく、大学ノートに自分で線を引いて使っている。見開き一ページを一ヶ月分として、左上に、毎月の決まった支払い項目、電気、ガス水道、携帯料金などを書き、その隣に今月の支出予定、結婚式のご祝儀や飲み会など記す。
ノートの残りの部分は縦にすべて四等分する。それはレシートとほぼ同じ幅となるのでレシートを見ながら、買ったものをそのまま書き写していく。最後に、一日に使った分の合計を書いて、月々の予算から引いた額も書く。それぞれ、色分けして、五色のペンを使っているからカラフルだ。
家計簿をつけることで自分がどれだけ使ったかわかるし、その月に今後どれだけお金が使えるかもわかる。
しかし、何よりも、こうして細かく綺麗にノートを埋めていくのが一番楽しいのかもしれない。時々、ぎっしりと数字や文字の並んだノートをぱらぱらめくるのが快感だった。
莉奈は字が綺麗で、ちょっとしたイラストも得意だ。日記でも手帳でも書くのは昔から大好きだった。学生時代も成績はともかくノートは完璧で、いつも友達に貸していた。
「うわー、莉奈ちゃんのノートかわいい。きれい」
「別にー、たいしたことないよ」
謙遜しながら、感嘆の声を聞くのを待っていた。
「莉奈はお人好し過ぎるよ。授業やノートをサボってた子が良い成績を取っちゃったら、馬鹿みたいじゃない」
勝ち気な母は、いつもそう言って呆れていた。
そして小声で、そういうところパパそっくり、とつぶやいていた。
夕方になるとテレビをつけて、ニュースを流しながら晩ご飯を作る。
今日は、キャベツが安かったから、ベーコンも加えてパスタにする。主菜は特売で百グラム八十九円になっていた鶏もも肉を皮がぱりぱりになるように焼いて、岩塩と胡椒をガリガリひいて振りかけた。皮が上手に焼ければ、シンプルな味付けが一番いい。他に、ジャガイモの冷たいスープと少しずつ残った野菜を千切りにして塩とオリーブオイルで和えたサラダも作った。スーパーのプライベートブランドの白ワインも冷蔵庫に冷やしてある。
夫はこちらに来てから、普通の和食より、イタリアンやフレンチ、エスニックなどの、外食みたいな料理を食べたがるようになった。
東京にいた頃より、会社の飲み会や外食が減ったから、そういうものが食べたいそうだ。
「田舎じゃ、簡単にイタリアンなんて食べられないもんな。せめて家ではおいしいもの食べたいよ」
こちらに引っ越してきた日の初日、まだ、部屋の片付けが済まなくて入ったイタリアンレストランが、イタリアンとは名ばかりで、出来合いのナポリタンやミートソースを使ってあるような店だった時から、大樹は愚痴るようになった。
家でご飯を食べるのも嫌いじゃないからかまわないけど、夫はたぶん、こちらに転勤になったことの不満をぶつけているのだろうとわかっていた。
七時過ぎには大樹が帰ってくる。
本社にいた時は残業も多く、それがない時は先輩たちと飲み会に行くから帰宅は十時過ぎだった。莉奈も働いていたからそれでちょうどよかったのだが、今の支社では、残業はほとんどない。
「ただいま」
それでも、顔色は本社の時より疲労の色が濃い。
「おかえりなさい。ご飯、すぐ食べるでしょ」
「うん」
大樹が帰宅すると、文字通り、いそいそと迎えてしまう。
湯はすでに沸かしていた。パスタを茹で、できたてのキャベツのペペロンチーノを食べてもらうつもりだった。
疲れ切っていたように見えた大樹も、白ワインを飲んで、鶏肉のソテーを食べる頃にはずいぶん緩んだ顔になっていた。
それを見るのが嬉しい。
食後は大樹の好きな旅行番組を観て、次に莉奈の好きなドラマを観る。テレビを観ながら、お互いに「これ、おいしそうだね」「あの女優さん、ちょっと太ったよね?」と他愛ないことを話し合う。
ドラマで、結婚に迷うヒロインが「今は仕事が大切だから」と友人に話しているシーンを観ていて、大樹が「今、こんな女いるー? 仕事と家庭とで迷う女とか」とつぶやいた。
「どういう意味?」
「仕事と結婚に迷うとか古くない? 皆、普通に仕事続けてるじゃん」
思わず、大樹の横顔を見てしまう。特に、他意があるようではない。相変わらず、緩んだ表情だった。自宅にいる、リラックスした顔。
「......私は仕事辞めたけど?」
「それは、俺の転勤があったからさ。莉奈だって、仕事したけりゃしていいんだよ」
「大樹も私が仕事した方がいいと思ってるの? この、まだ慣れない土地で?」
「へ」
莉奈の口調の変化に気づいたのだろう。彼が少し驚いた声を上げた。
「別にどっちでもいいよ、ってこと」
「やっとこっちにきて、まだ、慣れたとも思えないし、知り合いもいないのに、仕事を探せってこと?」
本当の理由は他にあったし、この言い方だと、いつか土地に「慣れた」時はまた仕事をしない理由を見つけないといけなくなるのはわかっていたけど、つい口走っていた。
「いや、だから、別にどっちでもいいって。でも、退屈しない? 一人で家にいて。することもないだろう。それに、仕事をした方が知り合いや友達もできるかもよ」
思わず、席を立ってしまった。キッチンに向かって、夕飯の片付けを始める。
一人で家にいて、することもない? 大樹にはこの快適で完璧な暮らしがどうやって守られているのかわからないのだろう。
そりゃ、家の掃除を完璧にして、夕飯の下ごしらえをしても時間が余ってしまって、つい、昼寝をしてしまうこともあるけれども。
「うちの母親もさ、莉奈さん、まだ子供もいないのに、家で暇じゃないのかしらって心配してたぞ」
自分が悪いわけじゃないと言わんばかりに、大樹は言葉を続ける。
フォークの先についた粘り気の強い脂を洗いながら、きっと悪気もなく言っているはずの義母も、自分の母親も大樹もまとめて、このフォークでぶっ刺してやりたい、と思った。
Synopsisあらすじ
吉川美羽は、進学を機に東京で念願の一人暮らしをはじめる。だがそれは、母親の大反対を振り切ってのものだった。
頼れる知人も、また友人も上手く作れない中で届いた母からの小包。そこに入っていたものとは……?
Profile著者紹介
原田ひ香(はらだ ひか)
1970年神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。
著書に『三千円の使いかた』、『口福のレシピ』などがある。
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