母親からの小包はなぜこんなにダサいのか第六話 最後の小包(1)

 弓香(ゆみか)は悲しむと言うより、ずっと腹を立てていた。
 新大阪の駅から新幹線に乗る前に、普段なら弁当屋「牛ステーキ弁当」を買う。それはほとんど儀式のようになっていた。東京出張の前にステーキを食べて、気力をみなぎらせるのだ。
 しかし、今日はまったく食欲がない。けれど、それを認めてしまうと、なんだか今、自分が直面していることが、現実になってしまうようで怖かった。
「牛カツサンドイッチとお茶、ください」
 気が付いたらいつもなんとなく気になっていて、でも手を出したことがないメニューの名前を口にしていた。小さいサイズを選んだのに、九百八十円もした。
 ホームに上がって、指定席を買っていた「のぞみ」に乗り込む。
 食欲がないのにお弁当を買ってしまったこと、いつもとは違うボストンバッグを持ってきてしまったこと、髪がくしゃくしゃなこと、レジ袋が妙にしゃかしゃか大きな音をたててること......自分を取り巻いているすべてがなんだか、イライラした。
 窓際の席にやっと座って、大きくため息を吐く。
 新幹線が動き出すと、窓に頭をもたせかけた。大阪駅がどんどん後ろに流れていく。そして、東京が近づいてくる。母が待っている場所に。
 目をつぶると昨夜からのことがぐるぐると回り出す。まさおからの電話、聞いてすぐに家を出ようとして止められたこと、眠れぬ一夜を過ごして今ここにいること......。
 思いついて、サンドイッチの包みを開いた。豪華なサンドを頬張れば、少しは気が紛れると思ったのだ。
 けれど、それは店の前に飾ってあった写真とはずいぶん違っていた。写真では、赤みがかって分厚い牛肉がはさまっていたのに、目の前にあるのは火が通りきった痩せた肉。しかも、ずいぶん小さく指先でつまめそうだ。臭いもきつい。
 ため息をついて押しやった。お茶を開けてゴクリと飲む。ビールでも買ってきて、流し込めばよかったと考えて、こんな時にビールなんてと恥ずかしくなる。
 なんだか、風邪気味なのよ、という母からのLINEのメッセージにろくな返事も返してなかった。
「お大事に!」と書かれたスタンプ――猿の子供がおどけた表情で言っている――を一つ送っただけだった。翌日、「インフルエンザだって」というメッセージにも同じLINEスタンプを送った。
「容態が急変した。肺炎になってICUに入りました」という話を聞いたのが、二日後だった。
 その電話も実はずっと無視していた。母の再婚相手の「まさお」がかけてきていたから。弓香は彼に番号を教えたことはない。母が何年か前、勝手に教えたのだ。そのことに、ずっと怒っていた。
 いや、もう、まさおの存在そのもの、まさおとの再婚、まさおとの......とにかく、彼のすべてが嫌いだった。だから、着信履歴をずっと無視していた。
 それでも、それが十数件溜まった時、さすがに「これは普通ではない」と気が付いて昨夜、折り返し電話をした。
 告げられたのは、まったく想像していなかった一言だった。

「お父さんとは別に暮らすことにしたよ」
 中学一年の夏休み、そう母に報告されて弓香はほっとした。
 もともと、留守がちな父だった。子供の頃から弓香が寝てしまったあと帰ってきて、登校する時間にはまだ寝ていた。
 休日も、仕事があるといつも出かけていった。家族旅行なんて小学校入学前に数えるくらいしかしてない。どこか行きたいと言えば、「夏休みなんてどこも混んでる」「冬休みはどこも値段が高い」と拒否された。だとしたら、学生はいつ旅行に行けるのだろう。
 中学に上がる頃から、父が家にいないのは仕事が忙しいからだけではない、別の理由があるということがわかってきた。
 部下の女の人と付き合っているということを知ったのは、いつだったか。
 小六の十二月二十九日に父が家の最寄り駅の前で、女の人が乗ったタクシーから降りるのを見てしまった。でも、それより前に知っていたような気がする。驚いたというより「やっぱりな」と思ったのを覚えているから。
 父が先にタクシーから降りて車が走り出しても、彼女はずっと後ろを振り返って、手を大きく振っていた。父はそこまで大きくなかったけど、肩くらいにまで手を上げて振っていた。父の顔を見る勇気はなかった。
 今なら彼女の気持ちがよくわかる。
 年末......いつもは朝に夕に一緒にいられる男としばらく離ればなれになってしまう。さらに、彼は妻や娘、親たちと一緒にずっと過ごす。自分は一人でマンションに閉じこもっているのに......いろいろ想像しただけで耐えられない孤独だろう。そこまで見えなかったけど、彼女は泣いていたのかもしれない。
 そんな父でも、年末から正月三が日くらいは家にいた。でも、一家団欒なんてない。自分は父のことなんて無視していたし、母も型どおりの正月料理を用意するだけ。皆、嫌々、家で顔をつきあわせていた。四日になって父が出社するとほっとした。そんな様子であることはきっと父の口からあの女に伝わっていただろう。だからこそ、彼女は長い間父を信じられたのかもしれない。
 あの時は、父が家の方に歩いて行くのを見送り、弓香は駅前の本屋に入って時間を潰した。あの人と帰り道で一緒になるのは、こちらもまた耐えられなかった。
 父と女を見かけたことは、母にも、当の父にも言わなかった。
 こんな関係性もだが、そんな父が「普通の男」だったことも、弓香にはつらかった。
 これが、俳優並みの容姿とか、ばりばりのエリートサラリーマンならまだわかるのだ。でも父は、髪は薄くなりかかってるし、いつも灰色のステンカラーコートを着て、忙しいばかりで出世している様子はない、平凡な男だ。つまんないニュースバラエティーを見て、家族と話すこともない。普通のサラリーマン以上の収入があるとも思えなかった。いったい、二人で会う時のお金はどうしていたのだろう、と今でも不思議に思う。女が出していたんだろうか。
 地味なサラリーマンの父が「不倫」をしているというのは、弓香の男性への強い不信感につながった。どんな男でも不倫はありえる、というのは固い信念になっている。男と付き合ったことがないわけではないが、どうしても、結婚ということには踏み出せない。彼らと会っていて、楽しく過ごしていても、心の奥底で「これは今だけだ、いつかはどんな男でも気持ちが離れていくのだ」と冷めてしまう。
 両親が別居したのは、あのタクシーの一件があった翌年だった。きっとあの頃、父も彼女とのことを隠す気もなかったのだろう。それで、誰がみているかわからない、最寄り駅まで乗ってきた。
 父が杉並区のマンションから出て行って、半年ほどで離婚は成立した。
 大きくもめるようなこともなかったようだが、ただ一点、父が弓香の親権を欲しがって少し調停が長引いた、と聞いてますます嫌な気持ちになった。
「お父さんね、弓香のことだけは最後まで親でいたい、って言ってたんだよ」
 母はきっと「いい話」として伝えてくれたんだと思う。あんな父親でも愛情はあった証として。
 でも、いつも娘には無関心だった父親が最後にそこにこだわった意味がわからない。むしろ気味が悪かった。
 それによく聞くと、父が要望したのは最初だけで母が「親権は私が持ちたい」と主張したら、すぐに撤回したらしい。弓香にはただの思いつきのように思えたが、母はそこに何かを感じたかったのかもしれない。
 父はマンションのローンだけは養育費代わりに払い、母がパートに行って、二人の生活の家計を支えてくれた。週に一回くらい、神奈川の郊外に住んでいるお祖母ちゃんが来て、家の洗濯や掃除、料理のまとめ作りをしてくれたので、家の中はなんとか整っていた。
 豊かではなかったけど、高校時代に祖父母が相次いで亡くなって、二人の家と畑を売った金で大学に行けたし、そう苦労せずに成長できたのはありがたかった。
 父とその女の人がどうなったのかはよくわからない。ただ、父は結局、誰とも再婚しなかったらしい。
 大学卒業後、弓香は食品会社に就職して、これからは母に恩返しをしたいと思っていた。
 母が「まさお」を連れてきたのはその矢先だった。

母親からの小包はなぜこんなにダサいのか

Synopsisあらすじ

吉川美羽は、進学を機に東京で念願の一人暮らしをはじめる。だがそれは、母親の大反対を振り切ってのものだった。
頼れる知人も、また友人も上手く作れない中で届いた母からの小包。そこに入っていたものとは……?

Profile著者紹介

原田ひ香(はらだ ひか)
1970年神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。
著書に『三千円の使いかた』、『口福のレシピ』などがある。

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