母親からの小包はなぜこんなにダサいのか第六話 最後の小包(2)

 弓香がまだ東京の本社勤務だった頃、紹介したい人がいる、と言われた。
 弓香は二十四歳、母は五十四歳になっていた。
 相変わらず二人で杉並区のマンションに住んでいて、母はパートをし、弓香は給料から月々五万を渡していた。
「そんなにいらないよ。自分のために使いなさい」
 母は初任給の時に言った。
「別に欲しいものもないし、お弁当を作ってくれてるから......それに、ママもそろそろパート減らしたら」
 当時、母は大手スーパーのレジ打ちのパートをしていた。すでに古株で新人の教育にも携わるリーダー職になっていたけど、腰や膝を痛めていた。
 母は弓香の勧めに従って少しパートを減らし、弓香が帰ってくる時刻には帰宅して夕食を作って待っていた。その頃が、離婚後ほんのつかの間のゆったりした静かな時間だった、と弓香は思う。しかし、それはあっという間に終わってしまった。
 彼は公立高校を退職したばかりの高校教師だった。名前は平原正夫、だけど、弓香の中ではずっと「まさお」だ。彼のことを必要以上に知りたくない。漢字を覚えるのさえ無駄な気がする。
 母とは都内の郷土史跡を巡るウォーキングクラブで知り合ったそうだ。まさおはそこの講師で「先生」と呼ばれていた。
 話を聞いた時、嫌な気持ちがした。
 母と弓香、二人の生活にまた男が入ってきた。
 彼はもう七十近いと言う。しかし、母の方は五十代でまだ若い。
 しばらくしたら、介護が必要になるかもしれない。母の労働力を当てにしているんじゃないかと考えたらぞっとした。
 それでも、母に請われて、しかたなく都内の中華料理屋で彼と会った。
 まさおは予想していた以上に枯れたお爺さんで、嫌らしさや不潔さはなかったが、逆に言えば、はつらつとした若さなんかはみじんも感じられなかった。
 高級中華料理店の個室で母ははしゃぎっぱなしだった。もそもそと食事をする「まさお」の横で、一方的におしゃべりしながら世話を焼いていた。
 優しい先生で、とても人気があるのだ、と繰り返す。一緒にクイズ番組を観ると、日本史や世界史、政治経済などの問題を外すことはないと自分のことのように自慢した。
 そりゃあ、そうだろう。社会の先生なんだから、と弓香は心の中でつぶやいた。
 その歴史のサークルの中では指導的な立場のまさおは大人気で、実際以上によく見えているに違いない。さらに、それを射止めた母は有頂天なんだろうと推測した。
 彼の方は学校の先生だった奥さんが十年以上前に亡くなり、二人の子供はとっくに独立して家族がいると言う。
 結婚したら、千葉の房総にあり、今は無人になっている、まさおの実家でのんびり暮らしたい、とまで母は言い出し、そこまで話は進んでいるのかと弓香は驚いた。
「え、じゃあ、うちはどうするの? 杉並のマンションは」
「もちろん、弓香が住めばいいじゃない。会社からも近いんだし」
「私が家を出るよ。一人暮らしする」
「だって......」
 母はそっと彼の方を盗み見た。
「まさおさんにうちに住んでもらうわけにいかないじゃないの」
「でも」
 弓香が言い返そうとすると、この話は家でしましょ、と母がささやいた。自分から始めたのに。
 確かに、前の夫がローンを払ってくれたマンションに男を引っ張り込みたくなかったのかもしれない。
 結局、一年後、母はまさおと再婚し、宣言通り千葉の家で一緒に住むことになった。
 まさおの長女が家族で千葉市に住んでおり、毎週のように行き来をして、長男家族も近く移住を考えていると聞いた。家族仲がいいのは結構なことだが、向こうの家族に囲まれて、母はうまくやっていけるのだろうかと、自分の方が母親のように心配した。
「でもね、いつまでも弓香と一緒に住んでいるわけにもいかないでしょ。弓香もいつかは結婚するんだし、その重荷になりたくない」
 母がそう言ったことも、弓香には腹がたった。
 自分が男を選んだことを、私のせいにしないで欲しいと思ったのだ。口には出さなかったが。
 一方、まさおの子供たちは二人の結婚を喜んでいると聞いた。
 そりゃあそうだろう、自分たちはもう父親の介護をする必要はない。皆、うちの母に押しつけることができるのだから。
 一度、向こうの家族とも食事を、と誘われたけど、仕事を理由に断った。
 翌年、大阪への転勤を打診された時、弓香は二つ返事で引き受けた。
「あら、じゃあ、杉並のマンションはどうするの?」
「さあ。好きにしたら。ママたちが住んでもいいし」
 弓香は投げやりに言った。
「そういうわけにはいかないじゃない」
 母が薄く笑っている様子が電話口から伝わってきた。
「じゃあ、誰かに貸すか売る? そのお金も好きにしてもいいよ」
「あれは弓香の家だから好きなようにしていいけど......」
 そんな会話の後で、結局、今は誰も住んでいない。
 父の件があって、弓香には男への不信感が残った。それは母も同じだと思っていた。
 それなのに、今、母はすごく幸せそう......かどうかはわからないけど、なんだか、いつものんびり、ゆったりしている。
 まさおの家で大型犬を飼って、家の近くの海岸沿いを毎朝散歩し、近くの畑を借りて野菜を作り、時々、車でドライブして、夜は図書館で借りた本を読み、早寝してしまう、と聞いた。
 それはもしかしたら、母がやっと手に入れた「幸福」というものなのかもしれない。
 でも、どうしても、「裏切られた」という思いがふつふつと沸いてくるのだ。
 そうだ、あれもまた、彼らとの距離を広げたきっかけだと、弓香は新幹線の中で思い出して、唇を噛んだ。
 結婚したあと、もう一度だけ三人で食事をした。
 弓香は断ったのだが、「家族になったのだからもう一度会いましょう」と彼が主張した。
 彼を受け入れる気は無かったものの、いつまでもつんけんしていてもしかたがないし、結婚までしてしまったら今後付き合っていくしかない、と半ば諦め、少しは仲良くしなければとは思っていた。
 弓香も社会人だ、子供じゃない。
 今度は銀座の、やっぱり中華料理店だった。まさおはよっぽど中華が好きらしい。というより、外食は中華が一番、緊張しないですむそうだ。本当に年寄りだなと弓香は思った。
 まさおは前よりもたくさん紹興酒を飲んだ。できるだけ、緊張を解こうとしていたようだった。弓香に自分から「どんな仕事をしているのですか」「会社は楽しいですか」と何度か尋ねてきた。
 弓香も言葉少なに、質問に答えた。
 和んだ宴、とまではいかないにしろ、まあまあ、以前よりはちゃんと会話が成立していた。会の終盤、コースの締めの麺類をすすっていると、饒舌になったまさおが唐突に言った。
「弓香さんに一つお願いがあるのです」
 弓香と母は顔を見合わせた。その表情で、弓香は、母も初耳のことなのだ、と知った。
「......なんですか」
「私も優子さんと結婚したのですから......弓香さんにもぜひ『お父さん』と呼んでほしい」
 はあ? と答えそうになった口をつぐむのだけが精一杯だった。
「そして、うちの家族の一員として馴染んで欲しい」
 何も言えなかった。
「よろしくお願いします!」
 まさおの声だけが個室の中に響いた。
 なぜ、そんなことを唐突に言い出したのか、まったく理解できなかった。弓香はもちろん、前の不実な浮気男が自分の父親だなんて思っていない。だけど、まさおはただの母の結婚相手で、自分の父親ではない、絶対に。
 弓香は断らなかったけど、イエスとも言わなかった。
 大阪に行ってから母とは一ヶ月に一回くらいはLINEでやり取りをしていた。
 ほとんどは母がメッセージを送ってきて、弓香がスタンプで返事をするだけだった。 盆や正月の長期の休みは、友達との旅行やスキーに使った。出張で数ヶ月に一度は東京に帰ったけど、ホテルを取って知らせることもなかった。
 そのまま数年が経ってしまって、彼とも母ともほとんど会っていない。  
 
 気が付いたら、うとうとと眠ってしまっていた。目が覚めると、東京駅だった。
 そのまま総武線に乗り、君津で接続する内房線に乗り換えた。駅からはタクシーで病院に向かう。
 東京駅から三時間近くかかった。
 病院に着く頃にはそろそろ空が暗くなっていた。ぐったりと疲れ、「ママがまさおなんかと結婚しなければ、東京の病院だったはずなのに」と思うと、さらに頭にきた。
 すでに面会時間は過ぎているはずだった。
 正面玄関から入って、受付に向かう。受診時間も終わっていて、若い女性が一人だけ座っていた。
「すみません、後藤弓香と申します」
 なんだか、自分の名前さえ言えば、すぐに理解してもらって案内してもらえると信じ込んでいた。
 しかし、彼女は小首をかしげた。
「後藤優子、いえ、平原優子の娘です」
「ええと」
「この病院にいるはずなんですが」
「少し、お待ちください」
 彼女はパソコンを打って、何か調べ始めた。そこで、気が付く。東京の大学病院ほどではないが、ここもそこそこ大きな市民病院だ。たくさんの患者さんが入院しているはずだし、名前を言っただけですぐにわかってくれるわけではないのだ、母も患者の一人でしかないのだ、と。
 弓香はもう一度、彼女に声をかけた。
「......母は昨日ICUに入って......あの、昨夜、死んだと聞きました」
「え、ああ」
 彼女はやっと事情をわかってくれたようで、うなずいた。パソコンをのぞき込む。
「それでは、地下の霊安室にいらっしゃってください。まだ、そちらにいらっしゃるはずです」
「地下ですね。ありがとうございます」
「あの」
 弓香がきびすを返してエレベーターホールに向かおうとすると、彼女が呼び止めた。「このたびはご愁傷様でした」
 そして、深々と頭を下げた。
 何か、急に胸にずしんときた。

母親からの小包はなぜこんなにダサいのか

Synopsisあらすじ

吉川美羽は、進学を機に東京で念願の一人暮らしをはじめる。だがそれは、母親の大反対を振り切ってのものだった。
頼れる知人も、また友人も上手く作れない中で届いた母からの小包。そこに入っていたものとは……?

Profile著者紹介

原田ひ香(はらだ ひか)
1970年神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。
著書に『三千円の使いかた』、『口福のレシピ』などがある。

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