母親からの小包はなぜこんなにダサいのか第四話 お母さんの小包、お作りします(1)

 都築さとみが実家についた時、母の都築めぐみがため息をつきながら電話を切ったところだった。
 丸い背中、薄くなった頭頂部、すり切れたフリース......目に飛び込んできた母の情報はすべてマイナスのことばかりだったが、さとみはすべて無視して、思い切り叫んだ。
「ただいまー」
「......おかえり」
 それでも、振り返った母は弱く微笑んでくれた。
「何? 誰と電話してたの?」
 さとみが尋ねると、「お客さん」とぽつりと答えた。
「え、お客さんて? どういうこと?」
 続けざまに尋ねると、母はやっと考えごとから解き離れたように表情を変え、「疲れたでしょ。何か食べる?」と立ち上がった。
「うん」
「ご飯食べてきたの? 電車の中では?」
「お昼は向こうで食べたけど......夜はまだ食べてない」
 本当は食べられなかった、のだ。
 ガレージに車を駐めていた父が家に入ってきた。黙ったまま、奥の部屋に入っていく。
「お父さん、ありがと」
「うん」
 昔から無口な父だ。
 父の後ろ姿に母が声をかけるのかと思ってたけど、何も言わなかった。
 両親の関係、家の雰囲気が今ひとつつかめない。家に帰ってくるのは十年以上ぶりだ。もちろん、数年に一度くらいは正月に帰省していたけど、本格的に「帰ってくる」のは。
「お茶漬けかなんか、食べる?」
「そうね」
 お茶漬けどころか、ステーキくらい食べられそうな勢いだったけど、そうも言えない。
「あんたの部屋、片付けておいたから」
「ありがと。じゃあ、荷物置いてくるよ」
 二階の一番端の四畳半の部屋。昔は季節ものの布団を置いていた場所が中学生の時、さとみの部屋になった。それは今でも変わらない。
 ベッドと学習用机、小さな本棚。それ以外は何もない。
 東京から引っ張ってきた二個のスーツケースを置いたら、いっぱいになってしまう広さだ。ベッドに座ると、それはきしんだ音を立てた。目の前に貼ってあるのは十代の頃ファンだった関ジャニのポスター、本棚には数冊のコミック。それ以外に彩りはない。
 ――帰ってきちゃったな。
 しかし、いつまでも感慨に浸ってもいられなかった。
 なんと言っても、さとみは腹が減っているのだ。
 下に降りる前、弟、隆の部屋をノックした。
 返事の前にガラリと開けると、ベッドで漫画を読んでいる。
「帰ったよ」
 なんの返事もない。
「しばらく、よろしくね」
 やっぱり、返事はなかった。高校生なのだから、こんなものかもしれない。
 階下に降りると、母がテーブルの上にご飯を用意してくれていた。
 白いご飯の脇に、サツマイモと豚肉を煮たものときんぴらが少しずつ小皿にのっている。その横に、袋入りのお茶漬けの素が置いてあって、向かいの母と自分の両方に湯飲みがあった。
 母はすでに茶を煎れて飲んでいた。
「お茶漬けにする? それとも、卵でもかける?」
「あ、卵にする」
 間髪入れずに答えると、母は立って冷蔵庫を開けた。生卵を小鉢に入れて出してくれた。
「卵、焼こうか?」
「ううん、生でいいよ」
 母が少し、ほっとしたような気がした。疲れているのかもしれない。
 さとみはすでに箸を取って、サツマイモの煮物を頬張っていた。
 甘辛く煮付けられていて、うまい。きんぴらはゴボウではなく人参とジャガイモだ。家で採れた野菜だろうことは、聞かなくてもわかる。七味はかかっていない。お祖母ちゃんが辛いものは嫌いだからだとさとみは知っていたが、少し物足りなかった。
「これ、おいしいね」
 黙っているのも、気まずいので口を開いた。
「傷物だけど、紅はるかだからね」
「へえ、うちでも紅はるかなんて作ってるんだ」
「傷が大きくて、熟成させたら腐りそうなやつを使ったの。まだあんまり甘くないから、砂糖と醤油を入れて煮たのよ」
「うちの肉じゃがだね」
「じゃがいもじゃないわよ」
「肉サツマ、か。おいしいよ」
 卵を割って箸で崩し、ご飯にざっとかけた。醤油もかけたところで気がついて、目で探した。
 実家の食卓の横には昔から小さなワゴンが置いてあって、そこにさまざまな調味料がのっている。そこから好きなように自分で取るようになっていた。
 砂糖の入れものを開けてさじの半分ほどを醤油の上にかけ、さらに味の素の容器をつかんでざざざっとかけた。
 それらを箸でがーっとかき回してかき込む。砂糖や味の素をかけるのは、昔から実家でやっていたやり方だ。
 うまい。やっぱり、うちの米はうまい。
 茶碗を下げた時、母がさとみの顔をじろじろと見ていることに気づいた。思わず、目を伏せてしまう。
「あんた、お腹空いているの?」
 せっかく料理を褒めてあげたのに、母の顔に笑顔はない。
「あー、うん」
「そうなの? どうしたの?」
 母はいぶかしそうに、眉の間にしわを作った。
「どうしたのって......別に。ちょうど、時間が合わなくて食べられなかったから」
「ふーん」
「ふーんて、何よ」
「だってあんた、ここ数年、帰ってきてもずっと家のご飯食べなかったじゃない。糖質が多いとか、砂糖使いすぎだとか、甘いものばっかだ、とか言って」
「そうだったっけ」
 とぼけたけど、もちろん、覚えている。
「そうよ。家に帰ってきても、こんなの食べられないって、野菜とサラダしか食べてなかったじゃない。コンビニまでわざわざ車を出して、冷たいチキン買ってきてたじゃない」
「まあ、あの頃はダイエットしてたからね」
「そうなの」
 母の不審そうな目は変わらない。
 気持ちはわかる。だって、当時は今より八キロも痩せていたのにダイエットしていた。今の方がずっとダイエットが必要なのに何を言ってるの? と思っているのだろう。
「どうしたの?」
 母がもう一度聞いた。
「何が」
「お正月でもないのに急に帰ってくるし」
「帰ってきちゃ、いけない?」
 母はいいえ、と首を振った。
「いけなくはないけど、どうしたのかと思って。いったい、あんた、いつまでここにいるの?」
 母のあまりにもまっすぐな瞳を直視できず、また目を伏せてしまった。

 この時、実は仕事をやめてきたのだ、と言ったら、母はどんな顔をしただろう。
 言ってしまえばよかった。だけど、とっさに何も言えず、「しばらくね」と言ってしまった。
 そんなことを考えながら寝落ちしてしまった。そして、ぐっすり眠って目覚めたら、もう家から誰もいなくなっていた。
 久しぶりとは言っても、やっぱり実家なんだな。こんなに深く眠れたのは久しぶりだ、としみじみ噛みしめながら階下に降りた。家中がしーんと静まりかえっていた。皆、畑に行ったのだということはわかっていた。
 食卓の上には特に書き置きなどはないが、新聞紙が伏せてあって、それを取り除くと朝食があった。パンと目玉焼きと野菜サラダ。たぶん、野菜はやっぱり家で採れたものだろう。
 冷蔵庫から牛乳を出して、それと一緒に食べていると居間の時計が大きな音で鳴った。ぼーん、ぼーん、ぼーん、という大きな音を無意識のうちに数えていると、それは八つで止まった。
 八つ? 今、八時か、と思う。
 正直、そりゃ、明け方から働いている家族たちと比べれば遅いが、放蕩娘が東京から帰ってきて最初の朝としては悪くない時間だと思う。
 三年前の正月に帰ってきた時はたぶん、十時過ぎまで寝ていて、それを誰もとがめなかったはずだ。
 でも、なんだろう、この罪悪感は。
 これは自分がこれからここに住もう、いや、もうここしかいるところがないとわかっているからの「気後れ」「気兼ね」というものなのか。
 それとも、昨夜の母の視線......どことなくこちらをうかがっているような、うたがっているような視線のせいなのか。
 朝食の上に乗っていた新聞に目を通す。日本とアメリカの首脳が会ったの、話したの、という記事をぼんやりと眺めるが、頭に入ってこない。考えてしまうのは自分の来し方行く末......つい、昨日までいた街、東京でのことだった。
 ずうっと真面目に十八まで勉強してきて、東京の大学に入った。両親は地元の大学に入ってほしがったけど、それを振り切って出てきたのは、決して遊ぶためではない。当時は真剣に勉強をしたかった。それには地元や実家の生ぬるい空気の中では駄目だと思っていた。そして、実際、大学では真面目に経済学を勉強し、サークルでは英語劇をやった。大手町の外資系金融会社という自分ができる中で最高の仕事についた。
 それなのに。 
 二十四歳の時から五年間、ずっと妻子ある男と付き合ってきた。
 ああ、もう、と頭を抱えたくなるくらい、馬鹿な話である。
 でも、あの頃、自分は他の道はなかった、とも思う。
 いっぱいいっぱいまで頑張って、ほとんど男子とも付き合わずにいたのに、たまたま取材を受けたテレビディレクターの駒田に騙されてしまった。ニュース番組を作っている制作会社のディレクターで、局の職員でさえなかった。「今、輝いている女たち」......ミニコーナーとしてもつまらない名前だった。
 今思えばただ忙しいだけのつまんない男だった。見た目も、ちびでデブでハゲだった。なんで自分があの男に落ちたのかわからない......と言えればいいのだが、よくわかる。
 一見華やかそうな、楽しそうな世界を見せてくれた。そして、物慣れた雰囲気に、めろめろになったのだ。自分はそういうものに飢えていた。十八から四年+二年東京にいて、一流企業に入っても、ずっと真面目に過ごすだけの人生だった。だから、自分の大切な二十代後半の五年をすべてあの男に費やしてしまった。
 費やしたのは歳月だけではない。
 お金もだ。
 彼は出会った当初こそ金払いがよく、いろいろな場所に連れて行ってくれた。しかし、付き合いが始まると、実は制作会社は薄給だし、私立の小学校に行かせている息子の学費がすごくかかるのだと言って、さとみがほとんど払うことになった。そのくせ、派手好きの見栄っ張りで、食事は有名フレンチ、ホテルは高級ホテルに泊まりたがった。
 さとみは彼と付き合うまで、質素な生活をしていた。給料は悪くなかったけれど、会社に電車一本で行ける錦糸町の月八万の賃貸マンションに住み、家に帰れる時は自炊をした。それで貯まっていた二百万近い貯金は、一年前、彼が独立して、ドキュメンタリー番組をつくる制作会社を立ち上げる時、渡してしまった。
 だって、彼はどうしても会社を作りたいと言ったのだ。今のままでは妻と離婚しても、子供の学費と養育費の両方は払えない。そのためには自分の会社が必要なのだ、と言ったから。
 二人の未来のために会社を作りたい。君にも手伝って欲しい。会社が軌道に乗ったら、役員として迎えたい。君のように英語にも金融にも長けた人材が必要だ。君のスキルならどんな会社にも行けるだろうが、うちに来て欲しい。もちろん、君との間に子供が欲しい。
 でもそのためには今の会社の給料では無理だ。君との子供も私立に行かせたいし......というか、今の妻は馬鹿だから子供もいい私立学校には行かせられなかったんだ。君との子だったら幼児舎だって夢じゃないと思う。東京の起業家は二人目の妻とか普通だから大丈夫。
 彼の言葉を信じ、自分もその夢に乗っかった。全部、彼に渡した。それどころか、彼の借金の保証人にまでなった。
 起業を手伝って欲しいと言われて、会社もやめた。彼が借りた、有楽町のマンションの一室に閉じこもって、朝から晩まで働いた。
 しかし、会社が軌道に乗り始めると、彼はさとみを遠ざけるようになった。いろいろと理由が作られて、さとみは出社できなくなり、家での作業を命じられるようになった。
 その代わり、彼の妻が会社内に入ってきて我が物顔に振る舞うようになったらしい。らしいというのは、さとみと一緒に働いていた、ADの女の子が話してくれるのを聞いただけだからだ。
「駒田さんの奥さんが会社でいばるようになって、本当にやりにくいんですよ。あれじゃ、都築さんが気の毒だって皆、言ってます」
 さとみは苦笑いして聞くしかなかった。
 結局、彼は離婚どころか、別居さえしなかった。
 さとみは、自分の部屋に閉じこもることが多くなった。他にしようがなかった。気持ちはどんどん落ち込んでいき、思いあまって彼に電話した。せめて、金を返して欲しいと頼むと彼は電話に出なくなった。数ヶ月して、やっと電話に出てくれたのは......彼の妻だった。これ以上付きまとうようなら、夫を寝取ったさとみを訴える、慰謝料をもらう、と言われた。
 なんだか恐ろしくなって、何も言えなくなってしまった。
 再就職したいと思いながら、金と男をいっぺんになくし、気力がまったくなくなった。当然、すぐに金は底をつき、マンションを出ることになった。
 東京には特に頼れるあてもなく......家を引き払う当日、実家に「これから帰るから」と連絡をした。
 それは、親だっておかしく思うだろう。正月にはまだ少し間がある時期に娘が突然帰ってきたら。
 そこまで思い出して、ふと手元を見たら、その新聞紙は何月も遅れたものだった。

母親からの小包はなぜこんなにダサいのか

Synopsisあらすじ

吉川美羽は、進学を機に東京で念願の一人暮らしをはじめる。だがそれは、母親の大反対を振り切ってのものだった。
頼れる知人も、また友人も上手く作れない中で届いた母からの小包。そこに入っていたものとは……?

Profile著者紹介

原田ひ香(はらだ ひか)
1970年神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。
著書に『三千円の使いかた』、『口福のレシピ』などがある。

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