母親からの小包はなぜこんなにダサいのか第三話 疑似家族(3)

 最初に来た誘いのメールをよく覚えている。交換した名刺の会社用のアドレスに「明日、喜楽に行くんですけど、よかったらどうですか。この間、お話ししてとても楽しかったから」と送られてきた。「お忙しかったら、遠慮なく断ってください」と付け加えられていたのも、好ましかった。
 迷いながらも、では私も明日うかがいますと返事をした。ご飯は一人でも食べるんだし、と自分に言い聞かせた。その日は、彼は愛華の勘定も持ってくれた。自分が誘ったのだから、と言って。そんなふうになんのてらいもなくごちそうしてくれる男も初めての経験だった。
 その後、何度か店で会った後、会社の近くの別の店でランチを食べた。さらに会社帰りに会って、イタリアンレストランでお酒を飲みながら、「付き合おうよ」と告白されるまで一ヶ月ほどだっただろうか。
 一番驚いたのは愛華自身だった。
 嫌いじゃない気持ちはあったものの、「まさか、私がこんな人と」という気持ちがずっとあった。
 だから、嘘を訂正する機会がなかった。
 二度、三度と会う度に正直に話そうと思った。けれど、「いや、これが最後のデートかもしれない。こんな人が自分と付き合うわけないのだから、好きになるわけがないのだから」と心の中で言い訳した。自分から連絡することはほとんどなく、幸多から誘われた時だけ会ったのは、最初についた嘘のせいで自信が持てなかったからだ。しかし、もしかしたら、そんな消極的態度が、幸多の興味をさらにかきたてたのかもしれない。
 だいたい、嘘をついていたのはごくわずかなことだ。家族のことだけ。それ以外はすべて正直に話していた。
 大学は奨学金とアルバイトで自分の力で行った。授業や復習を優先するために夜の店で働いたこともある。奨学金返済のためとにかくお給料が良く福利厚生がしっかりしている会社を探した。会社に入って三年間は安いシェアハウスに住み給料のほとんどを奨学金の返済に回して完済した......。
 人によっては引いてしまうような経験も、幸多は熱心に聞いてくれて、「愛華は生きる力が強いんだね。ものすごく尊敬するよ」と褒めてくれた。
 恵比寿と中目黒にある部屋に「もう越してきなよ、一緒に住もうよ」と言われたのが出会って三ヶ月後のことだった。
「同棲すると、結婚までたどり着けないって言うよ」
 たった一人、学生時代からの付き合いで、愛華のことをなんでも知っている親友、楓(かえで)にそう言われた時など、思わず吹き出してしまった。
 だって、絶対に「結婚するわけなんてない」のだから。
「ありえない、ありえない」
 愛華は、食べ物も飲み物も二百九十円均一の居酒屋で、顔の前で手を振った。楓とはいつもこの店だ。七時までに来店すれば、一杯目は百五十円で飲める。
「あの人、すべてを持ってる人なんだよ。家族全員がちゃんとしてるの。男兄弟三人は皆、私立の学校に通って、お父さんもお母さんも大学出......ううん、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんも大学出てて、親戚にお医者さんや学者の人もいるの。それをね、自慢するわけじゃなくて、自然に話すの、ちょっとした会話の中で出てくるの......そんな人と私が結婚するなんて絶対あり得ないから」
 将来を諦めているからこそ、今を楽しみたいと思う。
 幸多はいい人だ。優しくて、おおらかで、当然、女を殴ったり、お金を借りようとしたりしない。
 何より、経歴や家柄のことで人を馬鹿にしたりしない。
 なんの屈託もなく、まっすぐ育ってきて、人に悪意があるなんて思ってもない。もしも、この人の側にいられるなら、数年で別れることになっても幸せだと思う。
「そんないい人だからこそ、賢く注意深く振る舞って、結婚まで持って行きなよ! だって、彼は付き合って数ヶ月で一緒に暮らそうって言い出すほど、愛華に惚れてるんでしょ。それをうまく使ってさ」
 そんなことはしたくないと思う。そんな高望みをしたら、一番つらくなるのは自分自身だ。
「愛華、そんなに卑下することないよ。今まで頑張ってきたじゃん。美人だし、頭いいしさ。奨学金をもう全額返したの、本当にすごいと思うよ」
 楓は東北出身で、両親は学費や生活費を全額賄えなかったらしい。愛華よりは金額は少ないが、奨学金を借りていた。彼女はまだそれを返済できないでいる。
「それがどんなに大変なことか、私にはわかるもん」
「ダメダメ」
 愛華はできるだけ深刻にならないように、また、大きく手を振った。
「そんなこと言ってくれるの、楓だけだよ......結婚なんてことになったら、私のすべてのことを向こうの親に話さなきゃならないしさ。キャバもやってたなんて、絶対許されないよ」
「そんなの、言わなきゃいいじゃない」
「だって、彼は親とめっちゃ仲良しなんだよ。全部、話すと思う。それに何より、こっちは嘘ついてるからね」
「たいしたことじゃないよ。キャバのことや、借金のことは話したんでしょ。だったら、愛華の親のことだって、別にどうってことないんじゃない。愛華がなんで嘘ついたのかもわかってくれるって」
 楓の父親は地元の工場で働いていて、母はパート勤めらしい。収入は少なくて学費を全額は出せなかったけど、優しい親だ。会ったことはないが、楓の話のはしばしに出るのを聞くだけで、普通の温かい家庭が思い浮かぶ。
 だから、楓はわからないのだ。
 それがどんなにすごいことなのかということが。

 愛華が「群馬のありんこ」さんから品物を受け取る時はとても注意深くしている。
 必ず、幸多がいない時間を配達指定し、彼が帰宅する前に伝票を段ボール箱から剥がして、粉々に破いて捨てる。
 幸い、彼の平日の帰宅時間は愛華より少し遅いから、これまで失敗したことはなかった。
 それで届いた野菜を使い、最近は彼のお弁当も作るようになっていた。
 別に彼に合わせて尽くしているのではない、と自分に言い聞かせている。愛華はもともとお弁当を作っていた。おにぎり二個にゆで卵、くらいの簡単なものだが、お金はかからないし、気の合わない同僚と無理に顔を付き合わして食べる必要もない。しかも、愛華の仕事は、担当している派遣社員から相談も受ける。中には昼休みしか電話できない、という人も多いから、デスクに座ったままで食べられる弁当はとても良い。
「いーなー、いーなー、僕も愛華のおにぎり食べたいなー」
 そんなふうにねだられて、たいした手間でもないから、と一緒に作るようになった。二人分ならおにぎりを握るより、弁当箱に詰めた方が早いし楽だ、と曲げわっぱの弁当箱までネットで注文してしまった。ありんこさんから買った新米を詰めると、彼は大喜びした。会社でも「彼女の実家の米なんだ」と自慢しているらしい。
 休日は郊外にちょっとしたドライブや旅行に行くのが彼の趣味で、ストレス解消だった。日帰り温泉に入ったり、動物園で日がな一日、猿の親子を眺めたりする。一緒に行く愛華も、気持ちがのびのびとほどけていくのがわかった。
 ただ、美しい田園風景を見ながら、「愛華が育ったのはこういうところなんだね? きれいでいいなあ」と彼が悪気なく言うのに、うまくうなずけないだけで。
 こんな幸せに慣れすぎてはいけない、と思いながら、すでに受け入れてしまっている自分がいる。こんなはずでない、と思いながら、生活がどんどん彼色に染められていく。
 これは「普通の生活」というものなんだろうか、それとも、「とんでもない高望みの、自分には分不相応の生活」なんだろうか。
 愛華は時々、夜中にふと目が覚める。そして、月明かりの中で、すぐ横で寝ている男の寝顔を見つめてしまう。なんの恐れもなく、疑問もなく、これが当たり前だというように、すうすうと寝息を立てて寝入っている男。長い睫毛が時々震えているのを見ると、もしかして、夢を見ているのかもしれない。
 愛華は彼の裸の肩に顔を押し当てる。彼が下着一枚なのは寝入る前にセックスしたからだ。彼はその後、すぐに寝てしまう。
 もしも、と思う。もしも、この生活が長く続かなくても、終わってしまっても、誰かを恨んだり、悲しんだりすることはやめよう、と心から思う。だって、自分は今、とても幸せなんだし、満たされているのだから。
 幸せだと思っているのに、涙がぽろぽろと出るのはなぜなんだろうか。
 指先でそれをぬぐったとたん、彼が愛華をぎゅっと抱きしめた。驚いて顔を見ると、目はつぶったままだ。彼は寝ぼけながら、自分を抱きしめたのだ。
 幸福と隣り合わせに感じる不安。息が苦しくなり、愛華はなかなか寝付けなかった。

母親からの小包はなぜこんなにダサいのか

Synopsisあらすじ

吉川美羽は、進学を機に東京で念願の一人暮らしをはじめる。だがそれは、母親の大反対を振り切ってのものだった。
頼れる知人も、また友人も上手く作れない中で届いた母からの小包。そこに入っていたものとは……?

Profile著者紹介

原田ひ香(はらだ ひか)
1970年神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。
著書に『三千円の使いかた』、『口福のレシピ』などがある。

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