北条氏康 巨星墜落篇第三十四回

十五
 四月下旬、武田信玄が駿河から兵を退いて甲府に帰ったのは、武田を取り巻く状況が悪化したことを悟ったからである。
 実際、北条氏による外交と軍事による圧伏は着実に信玄を追い込んだ。
 五月初め、北条氏と長尾氏の同盟が成立した。
 信玄は南北からの挟撃を警戒しなければならなくなった。長尾軍が北信濃に侵攻し、北条軍が南から攻め上ってきたら、どうにも防ぎようがない。
 五月中旬には今川氏真の懇願に応えるという形で、氏政の嫡男・国王丸が今川の家督を継いだ。衰退しているとはいえ、今川氏は駿河の支配者である。武田を追い出せば、労せずして駿河が北条の領土になるということだ。
 武田は同盟を踏みにじって駿河に攻め込んだ侵略者として世間から冷たい目を向けられるが、北条は救世主として世間から好意的に見られる。狼の皮を被った武田と羊の皮をかぶった北条が激しい鍔迫り合いをしているわけだが、どちらが勝ったとしても今川は駿河を奪われるわけであった。
 国王丸が今川の家督を継いだ直後、北条と徳川の同盟が成立した。
 武田の敵が更に増え、信玄はいっそうの苦境に追い込まれた。
 万が一、長尾、北条、徳川が一斉に信濃や甲斐に攻め込む事態になれば、武田の滅亡が現実味を帯びてくる。それほど深刻な事態である。
 北条氏としては、強固な武田包囲網が完成したわけで、あとは信玄を料理する絶好の時機をじっくり見極めればよかった。
 が......。
 七月になって風向きが変わった。
 氏康と氏政が腰を抜かして驚くほどの事態が出来し、一夜にして武田を取り巻く景色が変わった。
 信玄の外交力によるものであった。
 七月末、長尾景虎と武田信玄が和睦したのである。
 これを「甲越和与(こうえつわよ)」という。
 信玄は笑いが止まらなかったであろう。
 最も恐るべき敵を、もはや怖れる必要がなくなったのである。
 お互いに腹の底から憎み合っているが、それだけお互いのこともよくわかっている。
 信玄は、景虎が信義を守る人間だと承知しているから、和睦したからには、その約束を遵守すると確信できる。つまり、北からの脅威がなくなった。
 景虎にとって、この和睦は決して愉快ではない。
 本音を言えば、不愉快極まりない。
 にもかかわらず、渋々、和睦に応じたのは、将軍・足利義昭からの強い要請によるものだ。義昭を動かしたのは織田信長である。
 義昭は、政治や軍事など、将軍としてやらなければならないことの一切を信長に委ねており、言うなれば、操り人形に過ぎないから、信長の指図には決して逆らわない。
 信長をして義昭を操らせ、「甲越和与」を実現させたことが、すなわち、信玄の外交力の凄味なのである。
 風間(かざま)党の間者からの報告で、武田と長尾の和睦を知った氏康は、
「あり得ぬ」
 と叫ぶや、手近にあった茶碗を壁に投げつけた。
 その夜から寝込んでしまったのは、それ以前から体調が思わしくなかったところに、不愉快な知らせを聞き、怒りで血圧が上がりすぎたせいであった。
 氏康とすれば、
(長尾に裏切られた)
 と歯軋りする思いであったろう。
 武田が駿河に攻め込むまで、長尾景虎こそが北条氏にとって最大の難敵だった。
 その難敵に頭を垂れ、和睦を願い、同盟を望んだ。関東管領職を譲り、養子まで差し出した。
 長尾と武田が和睦すれば、氏康の思惑は根底から崩れ、すべての努力が無駄になる。
 実際、「甲越和与」が成立するや、長尾景虎は北信濃ではなく、越中に兵を出した。
 北条氏にとって、越中など何の意味もない。
 しかし、武田氏にとっては、そうではない。長尾景虎が信濃以外の土地に兵を出すのは喜ばしいことなのだ。
 後顧の憂いがなくなった信玄は、それまで以上に旺盛に活動を始めることになる。
 その狙いは、北条氏の打倒だ。
 今や今川の当主は国王丸である。
 北条氏を打ち負かせば駿河が手に入るし、うまくいけば伊豆や相模にまで領土を広げることができるかもしれないのだから、一石二鳥、いや、一石三鳥、四鳥のうまい話であった。

十六
 八月二十四日、信玄は満を持して甲府から出陣した。碓氷(うすい)峠を越えて西上野に入ると、西上野から武蔵に攻め込んで、まず御嶽城を、次いで鉢形城を攻めた。勝頼を大将とする別働隊は滝山城を攻めた。
 鉢形城は氏邦の、滝山城は氏照の城である。
 短期間の攻撃ですぐに兵を退いているから、本気で攻め落とすつもりではなく、武田に逆らうと、息子たちを攻め殺してやるぞという氏康への恫喝であった。
 氏邦も氏照も武田とは戦っていない。
 籠城せよ、城から出てはならぬ、という小田原からの指示を守ったわけだが、現実問題として、武田軍とは戦いようがなかった。
 滝山城を攻めた後、信玄は勝頼と合流し、武蔵から相模に攻め込んだ。
 大胆不敵というしかない。
 八年前、長尾景虎が相模に侵攻し、小田原に向けて進軍したときは十万という途方もない大軍を率いており、北条氏は手も足も出なかった。
 信玄が率いているのは二万ほどである。
 二万も大軍には違いないが、北条氏の力は八年前よりずっと大きくなっており、その気になれば、五万や六万の兵を動員できる。
 信玄が駿河に攻め込んだときには、事前に根回しして今川の重臣たちの寝返りを画策していたから、氏真に味方する者はほとんどいないと見切っていた。
 今度は違う。
 武田軍を取り囲むのは小田原の指示に忠実な城ばかりで、小田原から命令があれば、その城から北条兵が群がり出てくるのだ。
 しかも、氏真と違って、氏康は名将だし、氏政は猛将だ。相模で立ち往生すれば、二万の武田軍が包囲殲滅(せんめつ)される怖れすらある。
 が、信玄は、
(そうはならぬ)
 と見切っている。
 間諜からの知らせで、氏康が病に臥していると知っていたからである。
 戦に関しては、信玄も氏康も慎重なやり方をする。
 念入りに下調べをし、調略など様々な根回しをして、相手より多くの兵を集め、
(これならば勝てる)
 という確かな見通しを持ったときだけ、軍事行動に踏み切る。
 だからこそ、長尾景虎とは徹底的に決戦を避けた。勝てるという見通しが持てないからである。
 二人とも慎重派だが、信玄の目から見ると、氏康は自分以上に慎重で、常に石橋を叩いて渡るようなやり方をしている。
 八年前、長尾景虎の小田原攻めの際、氏康は一貫して籠城策を取った。何があろうと城を出ぬ、景虎とは戦わぬ、と貝のように城に閉じ籠もった。
 後に、景虎と氏康の戦い方を知った信玄は、氏康の籠城策を知り、
(自分には真似ができぬ)
 と舌を巻いた。
 自分ならば、一度か二度は手合わせをして、その後で籠城するだろうと考えた。一度も戦うことなく、自分の領地を焼かれ、領民が殺されるのを目の当たりにし、村や町が略奪されるがままにしておくのは、常人では神経が持たないはずである。
 それほど慎重で我慢強いのが氏康である。
 氏康が健康であれば、武田軍を上回る軍勢を集め、決戦を挑んでくるかもしれないが、今の氏康は病で臥しており、出陣できる状態ではない。武田と北条の雌雄を決する大切な戦いの采配を倅(せがれ)の氏政に委ねるものかどうか......。
 そこまで考えると、
(北条は籠城するだろう)
 と、信玄にはわかるのだ。
 信玄と氏康の息子たち、勝頼と氏政も似たような武将である。勇猛ではあるが、思慮が足りないというところが、そっくりなのである。とても名将という器ではない。自分が氏康と同じ立場にいたら、勝頼に全軍の指揮を委ねたりはしないだろうと信玄は考える。負けたら取り返しがつかないからだ。家が滅びるかもしれない。
 ある意味、今の氏康の気持ちを信玄ほど理解できる者は他にいないかもしれなかった。

十七
「父上、お加減はいかがですか?」
 氏政が布団の傍らに腰を下ろしながら訊く。
 頬の肉が落ち、目の下には濃い隈ができている。血の気がまったく感じられないほど顔色も悪く、?のように白く見える。その顔を見るだけで、氏康が死の病に取り憑かれていることが氏政にもわかる。
 できれば、このまま静かにゆっくり休ませておきたいと思うが、そうもいかない事情がある。
 氏康の指図が必要なのだ。
「父上」
 もう一度呼びかけると、氏康が氏政の方に顔を傾け、薄く目を開ける。
「ああ、おまえか」
「お休みのところ、申し訳ありませぬ」
「構わぬ。どうであった?」
 小田原城の大広間で重臣会議が行われた。
 話し合いの内容を知らせに来たのだな、と氏康にはわかっている。
 八月下旬、西上野から武蔵に攻め込んだ武田軍は、武蔵の各地を荒らし回り、九月になると相模に侵攻した。
 藤沢、茅ヶ崎、大磯、国府津(こうづ)と海岸沿いに西進し、九月二十九日には小田原城下に着陣した。
 ここに至るまで、北条軍とは小競り合い程度の戦いをしただけで、あたかも無人の荒野を行くが如く、武田軍はやりたい放題に暴れ回った。
 長尾景虎が小田原城に迫ったときは、北条軍は籠城して決戦を避けたので、景虎は攻めあぐねて鎌倉に引き返した。兵糧が乏しくなったので、長い戦いは無理だと判断したのである。
 たまたまそうなったのではなく、長尾軍が兵糧を手に入れられないように氏康が画策したのだ。
 武田軍が城下に入った今、氏康は同じような手配りを氏政に命じた。武田軍に対する兵糧攻めである。武田軍の進路に当たる村や町では、あらかじめ領民が避難し、食料も運び去った。
 武田軍は、村や町を焼き払ったり、寺社を破壊したりすることはできるが、兵糧を手に入れるのに苦労している。長尾軍と同じように、遠からず武田軍は去るであろう。
 そのとき、北条軍は、どうするのか?
 長尾軍のときと同じように去るがままに任せるのか?
 それとも追撃するのか?
 かつての長尾軍は十万、今の武田軍は二万である。
 当然ながら、重臣会議の議論は沸騰する。
 小田原城と、その周辺にいる兵を集めるだけで、二万になる。武田軍と同数だ。相模各地で籠城している兵を招集すれば、優に四万を超える。
 長尾軍に攻められたときとは、北条軍の地力が違うのである。
 それだけの兵力を即座に集めることができるのに、なぜ、指をくわえて武田軍が去るのを見送らなければならないのか......そう声高に叫ぶ者が多い。
 氏政は、
「御本城(ごほんじょう)さまのお考えも伺わなければならぬ」
 と、その場を収めた。
「そうか」
 氏政の話を聞いて、氏康は目を瞑る。
(また眠ってしまったのか)
 そう氏政が心配になるほど、氏康は長く目を開けなかった。
 が、やがて、目を開けると、
「兵糧が尽きて、武田が兵を退いたら、その後を追うがいい......」
 氏邦と氏照に武田を追わせて足止めさせよ、その方とわしが後詰めとなって、武田に止めを刺すのだ、とかすれ声で言う。
「え、父上も出陣なさるのですか?」
 氏政が驚く。一人では体を起こすこともできず、厠に行くことすらできないのに、戦に出られるはずがないではないか、という顔である。
「わしも行く。そこが死に場所になるかもしれぬ」
 覚悟を決めたような物言いである。
「......」
 氏政は何も言うことができない。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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