最高のアフタヌーンティーの作り方第四話 彼たちのアフタヌーンティー(8)

「......わ、悪い。つい、出そびれちゃってね」
 扉の陰で、秀夫が申し訳なさそうな顔をしている。
「須藤さん、まだ、帰ってなかったんですか」
 できるだけ冷静な声を出そうと、達也は努めた。
「うん......その......来週、元妻と娘がくると思ったら、なんか、落ち着かなくてね。妙に仕込みに時間がかかっちゃってね。スタッフは先に帰らせたんだけど」
 しどろもどろに、秀夫が言い訳めいたことを口にする。
「そうでしたか」
「うん、そうなんだ」
 互いの間に、気まずい沈黙が流れる。
 きっと帰ろうとしていたところに、ゴーランがやってきて自分と話し始めたので、出るに出られなくなってしまったのだろう。
 先刻の話を聞かれていたのだろうか。自分たちはずっと英語で会話していたので、日本語よりは聞き取りづらいはずだけれど。
 別に、聞かれたところで、まずい話をしていたわけではない。
 それにあんなの、やっぱりただの社交辞令だったかもしれないし――。
「それじゃ......」
「飛鳥井君」
 お疲れ様でした、と続けようとした達也を、秀夫が遮った。
「その気があるなら、いきなさいよ」
 案外強い調子で告げられて、達也は一瞬唖然とする。
「いや、その、もしかして、聞かれたくない話だったのかもしれないけれど、そういう理由で海外修業の経験がなかったのなら、一度くらい、向こうに滞在してみるのは悪くないと思うよ」
 すぐに言葉を返すことができなかった。
〝そういう理由〟
 自分にDXがあることを、達也はアフタヌーンティーチームでコンビを組む秀夫はもちろん、スー・シェフの朝子にも、人事にも告げていなかった。
 それは、社会人として、不誠実な対応だったのだろうか。
 押し黙る達也の前で、けれど秀夫はいつも通りの平静な眼差しをしていた。
「実は、若い頃、僕は古典菓子の研究をしていたことがあってね......」
 まさか。
「ウイーン古典菓子」
 思わず呟くと、秀夫の表情が固まる。
「えぇええええええっ!」
 一拍後、凄まじい大声をあげられて、達也のほうが仰天した。
「飛鳥井君、なんで、知ってるのっ?」
「いや、たまたまセレクトブックショップで本を見つけて」
「そんな......。とっくに絶版になってるはずなのに......」
 秀夫はふらふらと後じさり、そこにあった椅子にどさりと腰を下ろす。
「まさか、買ったとか?」
 恐々と尋ねられ、なんだか申し訳なくなってきた。
「買いました」
「読んだのっ?」
 秀夫の声がひっくり返る。
「よ、読みました」
 見る見るうちに、秀夫がゆでだこのように耳の先まで真っ赤になった。
「あの、須藤さん」
「悪い。ちょっと、立ち直るまで、時間が欲しい」
 それからものの十分ほど、秀夫はテーブルに突っ伏していた。
 二人だけのバックヤードに、壁に掛けられた時計の秒針の音だけがこちこちと響く。
 そろそろ、帰ったほうがいいかな――。
「あのう」
 恐る恐る声をかけた途端、秀夫ががばりと顔を上げた。
「飛鳥井君っ」
「は、はい」
 秀夫はなにかを言いかけたが、すぐに深い溜め息をつく。
「いやあ、参ったね......」
 それから再び黙り込んでしまったが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「読んでもらったなら分かると思うんだけど、あの頃、僕は一事が万事あんな調子でね。関西で一度、自分の店を潰しているんだ」
「えっ」
 秀夫がかつてパティスリーのオーナーシェフであったことを初めて知り、達也は驚いた。
「当時は既にヌーベルキュイジーヌブームだったんだけど、それに真っ向から勝負を挑むように、重たい古典菓子を並べた店でね」
 ヌーベルキュイジーヌ――それは七十年代から始まったフランス料理の革新だ。リッチなソースを多用する伝統的なフランス料理から脱却し、素材の持ち味を生かしたシンプルな調理法が求められ、その流れはデザート(デセール)類にも波及した。
 日本のフレンチ界でも、八十年代はヌーベルキュイジーヌが大流行した。
「それでもバブルの時期はまだよかったんだよ」
 秀夫は元々フレンチのシェフだったが、ヨーロッパで武者修行をするうちに古典菓子の魅力に目覚め、パティシエに転身した。秀夫が日本に持ち帰った伝統的な古典菓子は、ヌーベルキュイジーヌ大流行のアンチテーゼとして、たびたび話題になることもあったのだそうだ。
「リッチな古典菓子は、酒にも合うからねぇ」
 六本木の会員制のバーで、バブル時代のスノッブな男たちが、綺麗なドレス姿の女性を侍らせながらザッハトルテやアップルシュトゥルーデルを食べている姿を、達也も想像してみた。
 ところが、バブルがはじけて市場は一変する。
 健康ブームにも押され、砂糖やバターをふんだんに使う古典菓子は敬遠されるようになっていく。
「あの本を書いたのは、丁度そんな時期でね」
 時流に逆らうように、秀夫は必死に筆を振るった。随分攻撃的な内容になったのは、己の内心の焦りの表れだと、秀夫は白いものの混じる眉を下げて苦笑する。
「色々助言してくれる人もいたのに、誰にも耳を貸さなくて......」
 いつしか借金ばかりが膨れ上がり、店をたたむ以外になくなった。
「別に古典菓子が悪かった訳じゃない。今だって、古典菓子をメインに売っている老舗のパティスリーはたくさんある。ただ、僕は、自分が職人であることに、こだわりすぎてしまったんだ」
「職人......」
 達也が繰り返すと、「いや、それも違うか」と、秀夫は首をひねる。その口元に、自嘲的な笑みが滲んだ。
「僕はね、正直なことを言うと、嫌だったんだよ。ケーキバイキングだとか、デザートビュッフェだとか、なにより、そこに群がる女性たちが」
 男女雇用機会均等法の改正を受けて、八十年代後半から九十年代はあらゆる職場に女性たちが進出した。バブル経済の崩壊後、〝お試し期間〟を乗り切ろうと懸命に働く女性たちのパワーに、不景気にあえぐ多くの企業が支えられてきたと言っても過言ではない。
 やがて経済力を持つようになった女性たちが、様々なブームを牽引するようになった。スパ、アロマ、ヒーリング......。働く女性をターゲットにしたこれまでにないテーマのプロダクツが次々に誕生した。
 ティラミスやパンナコッタをはじめとする平成スイーツ革命の担い手も、圧倒的に社会に出た若い女性たちだった。
「でもね、僕はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。今思えば、こんな言い方は酷いのだけれど......」
 我が物顔で男社会に入ってきた小生意気な女たちに、自分の菓子を食べ散らかされたくなかったのだと、秀夫は言葉を濁しつつ語る。
 どうせ彼女たちは、ふわふわかとろとろしか求めていないのだし。
「フランスでは、菓子は〝おやつ〟ではなく、あくまでもデセールで、料理の延長線にあるものなんだ。ウイーンのカフェコンディライトでも、トルテとウインナーコーヒー(アインシュペンナー)を楽しんでいるのは、ランチを終えた後のビジネスマンばかりだった」
 自分の作る菓子は、もっと価値の分かる人間に食べてもらいたい。スーツを着たエグゼクティブな男たちに、高級な酒と一緒に商談をしながら楽しんでほしい。
 第一、若い女のために菓子を作るのは、大の男がやる仕事ではない。自分は伝統的な西洋菓子を作る、職人だ。
 それなのに、急に〝パティシエ〟を名乗る軟弱そうな男たちが大勢出てきて、女性好みの軽くてふわふわした菓子を大量に作り始めた。
 許せない。あんなものは本物の西洋菓子ではない。
 それに群がる価値の分からない女たちも。そんな小娘たちにおもねる軽薄な〝パティシエ〟も――。
「恥ずかしい話、あの頃は、本気でそう考えていたんだ」
 きまり悪そうに、秀夫は白髪交じりの頭に手をやった。 
 伝統的な古典菓子は女子供のためのものではない――。
 秀夫が書いた「ウイーン古典菓子」の本を達也がそう読んだのは、あながち間違いではなかったらしい。
「でも、今の須藤さんは、とてもそんなふうには見えません」
 達也は口をはさんだ。
「そりゃあ、色々失ったから」
 秀夫が寂しげな笑みを浮かべる。
「元々そんな考えだったから、かみさんにも酷くてね。家に帰ったら、コップに水をくむのも自分ではやらなかった。飯が口に合わないと、ぷいと外出したりね。ずっと支えてもらってきたのに、そのことにも気づけなかった」
 店をたたみ、逃げるように東京に出てきたときも、奥さんは幼い娘の手を引いて、黙って後をついてきたそうだ。
 それから秀夫はシェフに戻り、都内のフレンチや洋食の厨房を転々とし、最終的に桜山ホテルのバンケット棟のレストランにたどり着いた。奥さんもパートに出て、借金の返済に協力してくれたという。
「借金の返済がようやく終わり、娘も成人して、定年も見えてきて。いざ、これからが夫婦の時間だと思ってたんだがね......」
 借金の完済と同時に、離婚届けを差し出された。娘は完全に母親の側についていた。母と娘の間では、とうに決まっていた結論だったのだそうだ。
「二人がそんなことを話し合っていたなんて、少しも気づかなかったよ」
〝これで、お父さんも、もう大丈夫でしょう? 私もパートを続けるし、娘の就職先も決まったから、後はお互い自由にやりましょう〟
 淡々とそう告げて、母と娘は荷物をまとめてあっという間に去っていってしまった。二人の後ろ姿を、秀夫は茫然と見送ることしかできなかったという。
 秀夫はずっと、自分こそが一家の大黒柱なのだと固く信じていた。自分が苦労しているのだから、家族が苦労するのは当たり前。妻も娘も、己の付属品のように考えていた。
 ところが、一人になってみて初めて、自分がどんなに二人に支えられていたかを思い知らされた。
「毎日履く靴下がどこにあるのかも分からないし、洗濯機の使い方も、知らなかったんだ」
 整頓された部屋。清潔な衣類。快適な寝具。当たり前だと思っていた日常を保つのに、妻がどれだけ気を配っていてくれたのかを、ようやく悟った。
「定年を迎えた後、シニアスタッフとしてこのラウンジにきたときは、正直、腑抜けみたいな状態でね......」
 スイーツの添え物のサンドイッチ――。
 アフタヌーンティーのセイボリーなんて、そんなものだろうと考えていた。
 本当は、定年後は夫婦でもう一度小さなパティスリーか、レストランを開きたいと考えていたが、妻は長い間、引っ越し先のアパートの住所すら教えてくれなかった。
「よっぽど愛想をつかされてたんだろうなぁ」
 秀夫の語尾に溜め息が交じる。
 一人残された秀夫は、ラウンジの厨房で粛々と〝添え物〟のセイボリーを作り続けた。
「そうでしょうか」
 達也は再び口をはさむ。
「須藤さんのセイボリーは、充分に工夫が凝らされていると思います」
事実、秀夫のセイボリーを目当てに、アフタヌーンティーを昼食代わりに食べにくるゲストも多い。
「まあ、一応は長く調理人をやってるからね。半端なものは作れないだけだよ」
 秀夫が白髪頭をかいた。
〝職人〟を自認するだけに、根が真面目な秀夫は、結局、正統派フレンチの流れをくむキッシュやタルトレットを丁寧にこしらえていたのだろう。
「だけど、アフタヌーンティーなんて、最初は、やっぱり気が抜けてねぇ」
〝ただの茶と三段の皿にのっけただけの菓子に、そんな金を払う人間が、東京には大勢いるのか?〟
〝どうせなら、もっといいものをご馳走しろ〟
〝築地の寿司とか、浅草の牛鍋とか、銀座の天麩羅とか......〟
 電話口で騒いでいた父の声を思い出し、達也は唇を結ぶ。
 父もまた、アフタヌーンティーは、大の男が食べるものだと思っていないのだろう。
「もしかしたら、菓子に偏見を持ってるのは、僕自身だったのかもしれないよ」
 達也の心読んだように、秀夫が続けた。
「古典菓子の魅力に取りつかれたのは事実だけど、心のどこかで、差別化したかったのかもしれないな。〝おやつ〟じゃない、古典菓子だ。〝菓子や〟じゃない、職人だって。子供の頃から、〝お菓子やさん〟は、女の子の夢って、相場が決まっていたからね」
 性差にこだわってしまうのは、父や秀夫の世代なら、致し方がないのかもしれない。随分長い間、自分たちはそうした価値観の中で育ってきたのだから。
 男なんて、押しなべて〝女が腐った〟奴なのにさ......。
 達也はそっと自嘲する。
「でも、このラウンジのゲストを見るうちに、段々、気持ちが変わっていったんだ」
 達也の考えをよそに、秀夫が眼を細めた。
「あの本にも書いたけど、僕は〝甘いものが人を幸せにする〟っていう、曖昧なファンタジーが好きじゃなくてね。それより、伝統菓子の後ろにある、文化や風土や歴史に思いを馳せてくれと、そんなことばかり考えていたんだよ。しかし、そんなものは、料理人のエゴにすぎなかったのかもしれないな」
 そう語る口元に、柔らかな笑みがのぼる。
「ここでくつろぐゲストを見ていて、アフタヌーンティーっていうのは、時間なんだなぁってつくづく思うようになったんだ」
 初老の夫婦。母と娘。久々に会う友人同士。
 お茶とお菓子を楽しみながら、大切な人と語らう時間。
 ゆっくり過ごし、自分自身を解放する時間。
「そんな時間を、俺は女房にも娘にも、一度もプレゼントしたことがなかったんだ」
 いつの間にか、秀夫の一人称が、「僕」から「俺」に変わっていた。
 甘いものが人を幸せにするのではなく、それを味わう時間とゆとりが、人を本当に幸せにしているのかもしれない。
「そう考え始めたら、俺にも思い当たる節があってさ」
 秀夫の若い時代、ヨーロッパの厨房で日本人が働くのは容易なことではなかった。言葉の壁もあったし、明らかな差別もあった。だからこそ、なにくそと踏ん張ったし、それを乗り越えた矜持も持てた。
「でも。最近になって、一番思い出すのは、南仏のゆったりした時間なんだよ」
 緯度の高いヨーロッパでは、サマータイムがあることもあり、夏はなかなか日が暮れない。李(クウェッチ)の根元に寝転がり、夜の十時近くにようやく赤く染まる空を、いつまでも見つめていた。
 頬を撫でる風、クウェッチの甘酸っぱい香り、田園に暮れていく夕日――。
 そうした風景が、今も脳裏に鮮やかに焼きついている。
「飛鳥井君」
 秀夫が達也を真っ直ぐに見た。
「現地へいくと、見えてくるものは必ずある」
 達也は黙って視線を伏せる。
 目蓋の裏に、プロヴァンスの広大な果樹園が広がった気がした。
「幸い、このホテルには研修のための休職制度もある。それに、もし将来、自分の店を持つつもりがあるなら、現地修業の経歴はやっぱり武器になるよ」
 自分の店――。
 秀夫の言葉が、達也の胸の深い場所に落ちる。
 これまで、そんなことを考えてみたことはなかった。けれど、今まで心のどこかでうっすらと感じていたジレンマのような欠落が埋められたとき、そこに新しい未来図が浮かぶこともあるのだろうか。
「なんて、ね」
 秀夫が決まり悪そうに苦笑する。
「散々ヨーロッパで修業した上に、自分の店を潰してる俺が言っても、まったく説得力がないよなぁ......」
「須藤さん」
 達也は顔を上げた。
「奥さんとお嬢さんのアフタヌーンティーだけ、ザッハトルテを一緒に作りませんか」
 秀夫が小さな瞳をハッと見張る。
 ザッハトルテはウイーン古典菓子の代表だ。もっとも今回は、柚子ジャムという新しいアレンジを加えることになるのだが。
「喜んで」
 一瞬の戸惑いの後、秀夫は深く頷いた。

最高のアフタヌーンティーの作り方

Synopsisあらすじ

老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?

Profile著者紹介

古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。

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