最高のアフタヌーンティーの作り方第三話 彼女たちのアフタヌーンティー(8)

 その日、涼音はそのままなにもせずに家に帰ってきた。
 せっかく表参道まで出かけたのだから、他の人気パティスリーを回ったり、お洒落なカフェでランチを食べたりすることもできたのだろうけれど、とてもそんな気分になれなかった。
 昼食を作ろうと台所に入ったものの、自分がなにを食べたいのか分からない。
 冷蔵庫の扉をあけたまま、涼音はぼんやりと視線を漂わせた。
 時刻は既に三時を過ぎている。空腹なはずなのに、冷蔵庫の中のどの食材を見ても、たいして食指が動かされない。
 小さく溜め息をつき、涼音は冷蔵庫の扉を閉めた。
 老好人(ラオハオレン)。
 繰り返された中国語の意味を、先程辞書で調べてみた。
 お人よし――。その言葉には、日本語同様、多少の嘲りの意味が込められているのは明らかだ。
〝これまで誰にも差別を受けたことがない、びっくりするほど心が健康な人〟とも、呉彗怜は言った。
 そんなことないよ、彗怜。
 涼音は心に呟く。
〝あれだけ必死になってりゃ、当然だよ〟
〝なんか知らないけど、変に頑張っちゃってさ......〟
 自分が張り切るたび、背後で囁かれた陰口が、生々しく甦った。
 確かに、涼音はなにかに夢中になると、周囲が見えなくなる傾向がある。
 人の心の機微にも、なかなか気づくことができない。
 しかし、そういう自分の単純さや鈍感さを悟るたび、涼音もまた傷ついてきた。
 自分は、己にとって都合の良い面しか見ることができないのだと。
 今回も、彗怜の本音に気づくことなく、その優秀さに頼ってしまっていたことを、涼音は深く恥じていた。自分にとっての待望の異動が、彗怜のかねてからの期待を打ち壊すものだったとは、夢にも思っていなかった。
 それなのに、彗怜は割り切って、私に助言したり、中国語を教えたりしてくれていたんだ。
 正社員と契約社員の待遇の格差に秘められた屈託に気づかず、彼女を〝友人〟だと思っていた自分は、ただの甘ったれだ。
 異動は努力を認められての抜擢だと、硬く信じ込んでいた。
 でも、本当は......。
 香織は自分が怖かったのだと指摘した、彗怜の確信に満ちた表情がちらつく。
 私のほうが御しやすかっただけ、なのかな――?
 香織が産休から戻ってきたら、今の立場をあっさり受け渡すつもりかという彗怜の問いかけが、ぐるぐると頭の中を回る。
 皆で力を合わせて働く、なんていう理想は、正社員という立場に護られた自分だから口にできる、綺麗ごとに過ぎないのか。
 育休の取れる正社員のうちに子供を産みたいと言っていた瑠璃は、しかし、その会社自体が今後どうなるか分からないとも言っていた。
 今後どんどん制限されていくであろう駒を奪い合わずに、気持ちよく働いていく方法は本当にどこにもないのだろうか。
 ずっと憧れてきた華やかなラウンジが急に殺伐とした場所に感じられ、涼音はにわかに疲労を覚える。
 結局、なにも作る気になれないまま、キッチンテーブルの椅子に腰を落としたとき、祖父の滋が袋を手に台所に入ってきた。
「お、涼音、今日は休みか。ちょうど良かった」
 滋が満面の笑みをたたえ、袋を差し出してくる。中には、熱々のあんまんが三つ入っていた。
「そこのコンビニで、今日から売り始めたんだ。お前も一つ食べないか」
 祖父が相変わらず三時のおやつの習慣を守っていることに気づき、涼音は椅子から立ち上がった
「それじゃ、お茶を淹れるね」
 お湯を沸かし、緑茶の用意を始める。勝手知ったる作業なのに、気分を持ち直せない涼音は、たびたび上の空になって手をとめた。
「涼音、お前、どうかしたのか」
 滋の湯呑みと、と兄の湯呑みを間違えて出しそうになったとき、ついに訝しげに声をかけられた。
「おじいちゃん、ごめん」
 どうにかお茶を淹れ、涼音は項垂れる。
「ちょっと、色々、自信がなくなっちゃって......」
「一体、なにがあったんだ」
 滋が向かいの椅子に座った。
「いいから、話してみろ」
 言い渋る涼音に、滋が畳みかけてくる。
 湯呑みを手渡しながら、涼音はぽつぽつと事のあらましを語った。あんまんが冷めるのも構わず、滋は話に耳を傾けてくれた。
「結局私は、自分の見たいものしか見てこなかったんだと思う」
 誰の本音にも気づくことができず、ただ単純に、自分の努力が認められたのだと信じ込んでいた。
 しかし、現実は、涼音が思っているように簡単ではなかったようだ。
「でも、その先輩はお前に優しくて、その仕事仲間はお前にとって頼もしかったんだろう?」
 黙って聞いていた滋が、やがて口を開く。
「それは......、そうだけど」
「だったら、それで、いいじゃないか」
 お茶を一口飲み、滋があんまんをかじった。
「現実なんてのは、いつだって、厳しいもんだ。それが分かったうえで、美しい面を見るのも一つの覚悟だ」
 あんまんを咀嚼しながら、祖父が続ける。
「俺は、昔、〝浮浪児〟と呼ばれた時期があってな、その頃は、かっぱらいでも、掏りでも、追い剥ぎでも、なんだってやったもんだよ」
「おじいちゃんが?」
「ああ、そうだ」
 半信半疑で聞き返すと、深く頷かれた。
 涼音の祖父、滋は元戦災孤児だ。疎開先から帰ってきたとき、祖父の家族も家も、東京大空襲ですべてが失われてしまっていた。滋は上野の駅前で、迎えにくることのない両親を、何日も何日も、延々と待ち続けていたそうだ。
 結局誰もこないとあきらめに至ったとき、祖父は上野の地下道の片隅で生きることを決めた。
「保護されるまでは、とにかく、人殺し以外、なんだってやったよ。いや、あのまま、地下道に居たら、結局はやくざの使い走りにでもなって、人殺しだってやってたかもしれない」
「おじいちゃん......!」
 あまり昔の話をしようとしない祖父から初めて聞く言葉に、涼音は驚く。
「本当の話だ」
 滋が湯呑みをテーブルに置いた。
「そうでもしなきゃ、生きていけなかった。一人で警察にいくのは、まだほんの子供だった俺には恐ろしかったしな」
 ある日、ホームに忍び込んで、田舎から出てきたらしい老婆の荷物を奪おうとしたとき、突然、一人の女性から「おやめなさい」と肩をつかまれた。
 いつもなら体当たりして逃げるところだ。
 ところが、女性の姿を見た瞬間、少年だった祖父は金縛りにあったように動けなくなってしまったという。
「本当に、女神だと思ったんだ」
 少年時代の祖父の前に立っていたのは、着物姿の見たことがないほど美しい女性だった。
「あれは六月の日だった。東京大空襲があった三月から着の身着のままだった俺は、相当汚く、臭かったはずだよ」
 だが女性は、祖父の手を取って「一緒に警察にいきましょう」と諭した。
「感化院へはいきたくはないでしょう。あそこへは慰問にいったことがあるけれど、とても寂しいところだった、と、その人は言うんだ」
 感化院とは、今でいう少年院のようなところだ。番号で呼ばれるそんなところよりは、警察を通じて孤児院へいくほうがましだろうと、女性は祖父を懸命に説得したそうだ。
 あまりの熱心さに根負けし、祖父が曖昧に頷くと、女性はにっこりと微笑んだ。それから、持っていた鞄から小さな包みを取り出して、父の手に握らせた。
 中には、小ぶりの牡丹餅(ぼたもち)が二つ入っていた。
「よく聞き分けてくれました。ご褒美ですよ」と、女性は言った。
 あまりのことに祖父はぽかんとしたが、「お上がりなさい」と促され、恐る恐る口にした。
 そのときの、脳髄まで痺れるようなあのうまさ。
「甘いものなんて、久しく口にしていなかったからな。本当に、その瞬間、もうこれで死んでも構わないと思ったよ」
 無我夢中で平らげていると、女性は自分のことを語ってくれた。
「その人は、舞台女優だったんだよ。これから広島の軍需工場へ慰問公演に向かうところだと言っていた。牡丹餅は、餞別にと家族が特別に、大事にとっておいた砂糖と小豆と糯米を放出して、こさえてくれたものだったらしい」 
 大切な餞別を惜しげもなく与えてくれた女性に伴われて祖父は警察に向かい、その結果、少年保護団体に保護されることになったのだ。
「今でも、あの牡丹餅の味が忘れられない」
 やがて、日本が負けて戦争は終わったが、孤児院での日々はつらいことが多かった。
 けれど、忘れられない〝ご褒美〟があったから、祖父はどんなに酷く大変なことにも、耐え忍ぶことができたという。
 住み込みで働くことが決まり、孤児院を出たとき、祖父は自分に〝ご褒美〟をくれた女性にもう一度会いたいと思った。
 そして消息を調べていくうちに、「演劇疎開」という名目で広島に慰問に赴いた劇団員が、看板女優を含めて、全員、新型爆弾で死亡していたことを知った。
「その看板女優が、俺にご褒美をくれた女神さまだ」
 そこまで話すと、滋はふつりと口を閉じた。
〝涼音、お菓子はちゃんと味わって食べなきゃいけないぞ。寝っ転がってテレビを見ながら食べたり、だらしなく際限なく食べたりしちゃ駄目なんだ〟
〝お菓子はな、ご褒美なんだ。だから、だらしない気持ちで食べてたら、もったいない〟
 瞬きと同時に、ぽたりとテーブルにしずくが落ちる。
 気づくと、涼音の瞳から涙があふれていた。
 子供の頃から繰り返し聞かされてきた祖父の言葉の真意を、初めて知った気がした。
「おじいちゃん......」
 涙ながらに呟いた涼音を、滋がいつくしむように眺める。
「現実なんてのは、本当に、いつだって惨(むご)いもんだ。今も昔もな。今は戦争中の世の中とはまったく違うが、お前たちにはお前たちの大変さがあるんだろう。でも俺は、あの人が見せてくれた美しさをずっと心に留めて生きてきた。これからだって、そうだ」
 自身に言い聞かせるように頷き、滋は続けた。
「人が生きていくのは苦いもんだ。だからこそ、甘いもんが必要なんだ」
 眼の前に、あんまんを載せた皿を差し出される。
「ほれ、食え」
 涼音はまだ仄かに温かいあんまんを手に取った。
 いつも自分は、己にとって都合の良い面しか見られない。
 彗怜から本音を打ち明けられたときからずっと、そんな思いに苛まれていた。
 でも、都合の良い面を見ることと、物事の美しい面を見ることは、きっと違う。
 香織が自分にとって良い先輩で、彗怜が頼りになる仕事仲間だったこともまた、れっきとした真実だ。
「おじちゃん、ありがとう」
 いただきます、と手を合わせて、涼音はあんまんを一口かじった。
 柔らかな皮の中から、甘い餡が滑らかに溶け出す。
 人気パティスリーのタルトは味がしなかったが、祖父と食べるコンビニのあんまんは、しみじみと美味しかった。

最高のアフタヌーンティーの作り方

Synopsisあらすじ

老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?

Profile著者紹介

古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。

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