最高のアフタヌーンティーの作り方第三話 彼女たちのアフタヌーンティー(5)

 帰りの電車の中で、涼音はすっかり考え込んでしまった。
 キャリアに資格に家庭。すべてを手に入れているように思えた香織が、孤独と疲労に苛まれている現実。とても、仕事の相談など持ちかけられる雰囲気ではなかった。
〝それこそ、余計なお世話だけど......〟
 帰り際、香織は言いづらそうに告げた。
〝もし子供が欲しいなら、出産は早いほうがいいと思う。とにかく、体力もいるしね〟
 海外セレブの高齢出産に勇気づけられていた自分が言えた義理ではないのだけれど、と、香織はきまり悪そうに眉を寄せた。
 本心から出た言葉だったのだと思う。
 でも――。
 十年近く前、ありとあらゆる企業のエントリーシートをダウンロードしまくり、必死に就職活動をしていたとき、涼音の眼に飛び込んできた一枚のページ。
 桜山ホテルの職種紹介欄で、輝くような笑顔でインタビューに答えていたのは、三十代の香織だ。 
 涼音だって、仕事が面白くなってきたばっかりだ。きっと、これからどんどん、世界が広がっていくのだろう。
 ある程度経験を積んだ三十代は、ようやく自分の力を実感しながら働くことができる。恐らく時間なんて、あっという間に過ぎてしまうに違いない。
 それなのに女性には、三十五歳で高齢出産という動かしがたい壁がある。
 社会人キャリアが真に花開こうとする時期と、出産適齢期がちょうど重なっているジレンマ。
「スズさん、座りましょっか」
 瑠璃の声に、涼音はハッと我に返った。眼の前の席が二つ空いている。
「ごめん、ちょっと、ぼんやりしちゃった」 
 並んで座席に腰かけながら、涼音は無理やり笑みを浮かべた。
「いやあ、結構しんどい現実見ちゃいましたよねぇ......」
 心なしか、瑠璃も少しぼんやりしている。
「でも、瑠璃ちゃんは、ちゃんと婚活してるんでしょう?」
 そう口にしてから、涼音は自分でも唖然とした。間もなく三十になるというのに、涼音自身は〝婚活〟なんて、とんと無縁だ。とにかくアフタヌーンティーチームの仕事に慣れたくて、それ以外のことを考える余裕がなかった。
 第一、自分が結婚したいのかどうかも分からない。
 恋人らしい相手がいた時期もあるが、涼音が自分のことに夢中になっているうちに、大抵自然消滅してしまった。
 高齢出産の壁が、ぐいっと圧力を増した気がした。
「まぁ、自分は子供欲しいですからねぇ」
 瑠璃が腕組みして頷く。
「育休取れる正社員(せいしゃ)のうちに、とっとと結婚して出産したいですよ。この先、会社だって、どこでなにがどうなるか分からないですしねぇ」
 今が楽しければ文句はないと割り切る瑠璃は、会社の行く末にも、たいして期待していないようだった。
「ま、二十八で第一子は産みたいですね。それが理想年齢らしいし」
 とうにその年齢を過ぎている涼音は絶句する。
「だって、私の周囲の男じゃ、一軒家とか、お掃除ロボとか、食洗器とか、望めないですから。体力勝負でいくしかないですよぉ」
 淡々と話しつつも、瑠璃は悲愴感がないのがあっぱれだ。
「なんか、瑠璃ちゃんって、達観してるね」
「どうでしょう。でも、そうしないと、まじ、やっていけない気がするのかもしれませんねぇ。パリピてって、実は打たれ弱い奴が多いんすよ。盛り下がるのが怖いから、最初から〝うぇーい〟って言ってるようなもんなんで」
 へらへらと笑った後、瑠璃はちょっと真面目な顔になる。
「スズさんは、どうしてそんなに頑張れるんですか」
「え?」
 予期せぬ質問に、涼音は虚を突かれたようになった。
「だって、頑張ったって、裏切られる可能性のほうが高いじゃないですかぁ。この世の中、色々と」
「えーと......」
 涼音は口ごもる。
 宴会担当を経て、憧れのアフタヌーンティー開発にかかわれるようになった自分の張り切りぶりは、新卒入社時からラウンジに配属されている瑠璃からすれば、やはり鬱陶しかったのかもしれない。
 だけど。
「頑張りたいから、かな......」
 口に出すと、バカみたいだった。
 一瞬、瑠璃がきょとんとしたのが分かり、涼音は猛烈に恥ずかしくなる。
 今を楽しみつつも、きちんと将来を見据えている瑠璃のほうがよっぽど大人だ。
「まあ、そこがスズさんのいいところですよね」
 瑠璃が屈託なく笑ってくれたことで、幾分かは救われた。
「ごめんね。鬱陶しいよね」
「謝る必要ないですよ。それに、全然鬱陶しくなんかないです。スズさんは、私が頑張ってるんだから、あんたも頑張れとか絶対言わないじゃないですかぁ。働け、産め、輝けとか言ってくるオッサンのほうがよっぽど鬱陶しいです」
 瑠璃はあっけらかんとしているが、涼音はいささかきまりが悪かった。
 自分が眼の前のことだけに夢中になって、将来のことをなにも考えていないような気がしてきた。
 もうすぐ還暦を迎える母の若かりし時代、女性は結婚したら退職するのが当たり前だったそうだ。寿(ことぶき)退社という言葉は、そうした時代から生まれたのだろう。
 それに比べれば、現代に生きる涼音たちの選択肢は多い。
 けれど、働いて、産んで、輝くとなると、そこにかかる負荷が尋常でないことは、香織の現状からも明らかだ。
「うちの母はバブルなんですけどぉ」
 涼音の考えを読んだように、瑠璃が話題を変えた。
「バブル世代の女性は、はっきり分かれてたらしいですね。キャリア組と、子育て組に」
 かつて就職枠が、営業や企画立案を行う「総合職」と、一般事務のみに従事する「一般職」に分かれていたという話は、涼音も知っている。
 本来これは男女共通の枠だったが、端から「一般職」を目指す男性はほとんどいなかったので、「総合職」と「一般職」の選択は、往々にして男女雇用機会均等法施行後の新卒女性に向けて設けられていたと聞く。
「但し、このキャリア組っていうのがものすごく大変だったらしくて。うちの母は最初は総合職で会社に入ったんですけど、早々にドロップアウトして、でき婚したんですよ」
 できたのがこの私、と、言うように、瑠璃は自らを指さす。
「育児法とかがちゃんと整う前だったんで、当然、退職して、同期のキャリア組が華やかに活躍してるのを指くわえて見てたらしいんですけど、バブルって、本当にすごかったらしいですよ」
「バブルかぁ」
 生まれたときからずっと不景気しか知らない涼音にも、その響きが纏うきらびやかさは想像ができた。
「若い女性がチームリーダーになって、ばんばん海外出張とかもいってたんだそうです」
「海外出張......」
 海外なんて、涼音は格安ツアーですらいったことがない。本場英国のアフタヌーンティー巡りをしてみたいとは思うけれど、経済的にも時間的にもそんな余裕はなかった。
「なんと、スーツケースやパスポート等の準備代まで会社の経費」
「え!」
「ホテル代はもちろん、海外先のディナーも全部会社持ち。国内でも接待会食だらけ。なんでもかんでも、経費、経費。とにかく、経費、とことん落ちまくりだったんだそうです」
 リサーチのために、自腹で他のホテルのアフタヌーンティーを食べている涼音からすれば、これまた夢みたいな話だ。
「ワンレン、ふぁっさーの、眉毛、ふっとーの、肩パット、びっしーの、ピンヒール、カッツカツーのボディコンおねえさんが、国内外のオフィス街を颯爽と闊歩しまくってたわけですよ」
 講談師のような瑠璃の口調に、ワンレングスのロングヘア―をなびかせる、くっきりと化粧を施した華麗な女性の姿が、涼音の脳裏にも浮かんだ。
 結婚や出産なんて、どこ吹く風。働く女性のフロンティアだったバブル世代のキャリア女性たちは、永遠に美しく、強くたくましいはずだった。
「でも、ここからがホラーなんですよぉ......」
 瑠璃が急に声を潜める。
「そのキャリア組だった女性たち、今じゃほとんど会社に残っていないそうです」
「それって、つまり......」
「どこかで栗鼠(りす)と虎に出会ったんでしょうねぇ」
 瑠璃は昭和のオヤジのようなダジャレを口にしたが、あまりふざけているようには思えなかった。
 男性以上に猛烈に働いてきた女性たちは、登るだけ登った梯子を、ある日突然外されたということか。
「まあ、うちの会社だって、現場は女性ばっかりなのに、経営陣は全員オジサンですもんねぇ」
 確かに、と、涼音は部長以上の面々を思い浮かべる。
 役員に至っては、ものの見事に初老の男性しかいない。
 しかし、それでは、フロンティアだったキャリア女性たちはどこへ消えたのか。
「本当に実力のある人は自分で起業して、今もきらっきらのぎらんぎらんだそうです」
「そうじゃない人は?」
「母曰く、怖くて連絡取れないそうです」
 瑠璃の言葉に、涼音も背筋がひやりとするのを感じた。
 会社から一歩外に出ると、自分は高齢出産者でしかないと香織は言った。けれど、結婚や出産などどこ吹く風と、仕事に邁進してきた女性たちは、職場を失ったら、一体どこに道を見つければいいのだろう。
 アフタヌーンティー開発に夢中になるあまり、婚期を逃し、産期を逃し、最終的にはラウンジを追い出されて、にっちもさっちもいかなくなっている将来の自分の姿が浮かび、涼音は本気で恐ろしくなる。
 やっぱり、自分も婚活を始めたほうがいいのだろうか。
 でも、なんのために?
 瑠璃のように、本気で子供が欲しいと思っているわけではない自分が婚活をする意味はなんだろう。
 再び考え込み始めた涼音の肩を、瑠璃が勢いよく叩く。
「やっぱ、今をハッピーに生きるしかないっすね。どうですか、スズさん。新作アフタヌーンティー開発もいいですけど、今週末当たり、うちらとオールで飲み会(パーリー)」
「......それは、遠慮するかな」
「遠慮しないでくださいよぉ」
 瑠璃はおどけながら、「じゃあ、また、明日」と乗り換えの駅で電車を降りていった。
 パーカーのフードを深くかぶった瑠璃の後ろ姿を見送りながら、涼音は軽く息をついた。
 結婚しようが、子供ができようが、働くのが当たり前とされている男性たちは、こんなことで悩むことなどないのだろうな、と、単純に羨ましくなる。
 出産は女性にしかできない大事な仕事、と考える向きもある。
 確かに子供が産めるのは女性だけ。しかし、だから、育てるのも女性でなければならないのだろうか。
 母親が自分の夢を追おうとすると、子供を差し置いて、と非難の視線を向けられる。母親のくせに、なにをしているのかと。
 父親だって親なのに。
 もう、やめよう。
 涼音は一人、首を横に振った。
 考えれば考えるほど、気分が重くなってくる。
 気持ちを切り替えようと、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。ネットニュースをつらつらと眺めているうちに、一つの見出し(ヘッドライン)に眼がとまる。
〝この冬、美しく燃えるクリスマスプディングが登場〟
 あれ? これって。
 涼音は軽く瞳を見張る。
 六本木の五つ星外資系ホテルのアフタヌーンティーで、涼音も企画書に書いた、火を灯して食べるクリスマスプディングが提供されるらしい。
 同じことを考えている人がいたんだな――。
 記事をスクロールするうちに、しかし、涼音は自分の眼を疑った。
〝見た目にも美しい、イギリスの正統なクリスマスデザートをアフタヌーンティーに取り入れようと企画したのは、今回、新しくプランナーに就任した、シャーリー・ウーさん......〟
「えぇえええええっ!?」
 電車内にもかかわらず、涼音は大声をあげてしまった。
 青い炎に包まれたクリスマスプディングと共に写真に納まっているのは、カメラ目線でにっこりと微笑む呉彗怜だったのだ。

最高のアフタヌーンティーの作り方

Synopsisあらすじ

老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?

Profile著者紹介

古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。

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