最高のアフタヌーンティーの作り方第三話 彼女たちのアフタヌーンティー(6)
一体、どういうつもりなんだろう。
表参道のカフェのテラスで、涼音は通りを行き交う若い人たちの姿を見ていた。早く着きすぎてしまったので、待ち合わせの時間まではまだ少し間がある。
だが涼音は、手元の文庫本に集中することがどうしてもできなかった。
指定されたのは、最近話題のパティシエがオーナーを務めるパティスリーに併設されたカフェだ。ノルマンディーのパティスリーで修業を重ね、彼の地の三ツ星ホテルでシェフ・パティシエを務めていたというオーナーの経歴が、専門誌や女性誌でも注目されている。
こうしたスイーツ業界の新しい情報を貪欲にキャッチしている勉強熱心なところは、彼女らしいともいえるのだけれど......。
文庫本をテーブルに伏せ、涼音は改めて周囲を見回した。
平日の午前中にもかかわらず、ほとんどのテーブル席が流行に敏感そうな女性たちで埋まっている。テーブルにはハーブを活けた一輪挿しが置かれ、硝子のコップに注がれた冷たい水も、仄かにミントの香りがした。いかにも、女性好みの設えだ。
パティスリーに、ギモーブや焼き菓子を買い求めにくるお客も後を絶たない。
お洒落なパッケージに入った色とりどりの可愛らしいギモーブは、ちょっとした贈り物にうってつけだろう。
贈り物といえば――。
週末、突然、達也から小さな袋を手渡されたことを、涼音ははたと思い返す。
先週、涼音はついに三十回目の誕生日を迎えた。
瑠璃が大げさに「おめでとうコール」をしたので、涼音が三十歳になったことは、あっという間にラウンジ中に広まってしまった。秀夫や他のサポーター社員たちからも、そろって「三十路、おめでとう」と冷やかし半分の声をかけられた。
そのときはまったく無関心だった達也から、帰りがけに、いきなり呼びとめられた。
〝これ〟
にこりともせずに渡された袋の中には、達也が現在力を入れている、ドライフルーツと洋酒を組み合わせたケーキが入っていた。
干した果物を洋酒に漬けて戻すと、フレッシュなフルーツとはまた違う濃縮された美味しさが生まれる。アマレットに漬けたドライアプリコットとアーモンドムースを合わせたケーキは、洋酒のほろ苦さが効いていて、まさに三十代を迎える大人の女性にぴったりのエレガントな味だった。
最近、飛鳥井さんって、本当に変わった。
涼音は頬杖をついて、表参道のケヤキ並木をぼんやりと眺める。
不愛想なのは相変わらずだが、「妙な爪痕を残そうとするな」と、冷たく牽制されていた当初に比べると、随分印象が異なる。
あの頃は、本当に嫌な奴だと思っていた。
でも、今は......。
シェフ・パティシエになっても、一人で試作品を作っている勉強熱心な後ろ姿が目蓋に浮かぶ。
支えている頬が、いつの間にか微かな熱を帯びていることに気づき、涼音は自分でもぎょっとした。
なに、のぼせてるの!
頬杖を外し、大慌てで首を横に振る。
あれを贈り物と思うのは、さすがに自意識過剰だ。
たまたま誕生日と聞いたから、試作品を包んでくれただけだろう。
よく考えてみれば、達也は愛想がないだけで、元々案外親切なのだ。常連の京子がアフタヌーンティーを半分も食べないままラウンジを出ていったときも、日持ちのするプティ・フールをテイクアウト用のバッグに詰めてきてくれたし、涼音たちが香織の家を訪問するときだって、手土産用にスコーンやフィナンシェを見繕ってくれた。
そうした優しさになかなか気づけなかったのは、調理場を束ねるシェフ・パティシエとして率直に意見を言う達也のことを、涼音が端から嫌な奴だと決めつけていたからだ。
達也が変わったわけではなく、自分がようやく、その人の本質に気づけるようになっただけなのだろう。
別に、自分だけが親切にされているわけではない。
こんなことで、仕事仲間を変に意識するなんて、あまりに子供じみている。
しっかりしなくっちゃ。
ミントの香りがする水を飲み干し、涼音は姿勢を正した。
調子に乗って勘違いしそうになっている自分を知られたら、今度こそ達也から本当に軽蔑されてしまう。
せっかく、香織の後任として、認められつつあるのだから。
努めて冷静になると、もう一つ、気がかりなことが脳裏に浮かんだ。
年末年始、桜山ホテルでは、バンケット棟のレストランに、マンハッタンでミシュランの二つ星を獲得した、アメリカ人シェフを招聘することが決まった。それに伴い、会議では英文の資料が配布されることが増えてきている。
涼音たちが担当するホテル棟のラウンジでも、何品かコラボ用のメニューを用意する予定だった。
英文資料に眼を落とす達也の姿を見るたび、涼音は内心ひやひやしてしまう。
涼音の推測が正しければ、達也にはアルファベットの綴りを単語として認識できない読字障害(ディスレクシア)がある。
もっとも、それを単刀直入に指摘してしまったときには、激しく拒絶された。
〝俺がディスレクシアだったとして、チームになにか迷惑をかけたことがあったか! 一度でも、満足のいかないジュレやムースやガトーを作ったことがあったかよ!〟
あのときの達也の剣幕を思い返すと、今でも心臓がひゅっと縮みそうになる。
つい、良かれと思って口出ししてしまったが、誰にでも触られたくない部分があるのは、当然のことだろう。
もう、お節介なことをするつもりはない。
しかし、テレビ番組の収録直前に、イギリス人ジョッキー、クレア・ボイルからの直筆メッセージを渡され、脂汗を流していた達也の様子を思い返すと、涼音はやっぱり不安な心持ちに襲われる。
何事もなければいいのだけれど......。
すっかり考え込んでいた涼音は、背後から人が近づいてくる気配にまったく気づけなかった。
「お待たせ、涼音(リャンイン)」
突然、声をかけられ、飛び上がるほどに驚いてしまう。
「どうしたの? お化けでも見た?」
涼音の驚愕ぶりに訝しげに眉を寄せているのは、スタイリッシュなスーツに身を包んだ呉彗怜(ウースイリン)だった。
Synopsisあらすじ
老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?
Profile著者紹介
古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。
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