最高のアフタヌーンティーの作り方第二話 俺のアフタヌーンティー(2)

 久々の休日はよい天気に恵まれた。
 桜山ホテルでは、シェフ・パティシエでも、ひと月に八日の休みを取ることができる。町場のパティスリーに比べると、やはり恵まれた環境だと達也は思う。
 とは言え、繁忙期の連休や土日にチーフであるシェフ・パティシエが休むことはありえない。したがって、休みは概ね、会議のないときの週明けや、比較的予約の少ない週半ばに限られている。もっとも、休日はできるだけ一人で過ごしたい達也にとって、町中が余り混雑しない平日の休みは、願ってもないものだった。
 この日、達也は地下鉄を乗り継ぎ、調理本や食に関する専門書を集めたセレクトブックショップにやってきていた。
 店内には、専門的な輸入書をはじめ、国内外の様々な食に関する本や雑誌が陳列されている。本格的な和食から電子レンジを用いた簡単料理、美食からダイエット食までと、その傾向は多岐にわたるが、棚を眺めていると、なんとなく昨今の食に対する関心の特徴や傾向が見えてきたりする。
 以前、達也の調理学校の恩師が、このセレクトブックショップに併設されているキッチンスタジオで、レシピ本出版記念のワークショップを行ったことがあった。挨拶がてらに顔を出して以来、休みの日に、達也はちょくちょくここへきて、棚を眺めてみるようになった。
 カフェに隣接したお洒落な店内で、百花繚乱と並べられている料理本の表紙を見るうちに、達也は今更のように、自分がずいぶん遠くまできた気分に襲われた。
 十代の自分が、三十を過ぎた今の自分を見たら、一体、なんと言うだろう。
 そこそこよくやっていると満足するだろうか。
 それとも、まだこの程度なのかとがっかりするだろうか。
 達也が菓子職人の道に足を踏み入れることになったのは、高校時代に父がリストラ解雇されたことがきっかけだった。
 元々達也は茨城の小さな田舎町の出身だ。町内には大きな川が流れていて、お盆の時期には水害の霊を慰めるために灯籠を流す習慣があった。いつしかそれが観光行事にもなり、同時期に花火大会が催され、多くの観光客を集めるようになった。
 町の産業は、農業と観光が中心で、地元のほとんどの友人たちは実家の観光農園を継いでいる。
 達也の父は工務店で事務職をしていたが、会社が大手に吸収合併された際に、あっさりとリストラ解雇された。現在父は、繁忙期の間だけ、同級生が経営する観光農園を手伝っている。
 父の姿を間近に見ていた達也は、この頃から手に職をつけたいと思うようになった。大学への進学は端から考えていなかった。
 経済的な問題もあったし、もう一つの問題もあった。
 小学生のときから、達也は本を読むのが苦手だった。先生の話す授業の内容はよく分かる。文章も短文であれば、問題ない。算数の文章問題などはむしろ得意だ。ところが、長文になると、途端に文章の意味が頭に入ってこなくなる。どこが単語の区切りになるのかが分からない。特に、長い文章がずらずらと並ぶ物語を読み通すことが、どうしてもできなかった。
 読書感想文の宿題は、映像化されているものを選び、それを見ながら無理やり原稿用紙の升目を埋めた。聞こえてくる台詞をそのまま必死に書き写し、「これは感想文ではない」と担任からこっぴどく怒られたこともある。なまじ算数や理科の成績が良かっただけに、国語の読み書きをさぼっていると思われたのだ。
 今でも長い文章を読んだり書いたりするのは得意ではないが、母国語である日本語に関しては、成長と共にある程度までは改善することができた。
 ところが中学に入り、英語を眼にした瞬間、達也は大いに戸惑った。ローマ字の一文字一文字や短い単語なら、かろうじて認識できる。発音や会話も、耳で聞く分には問題ない。
 けれど、教科書に印字されている長い綴り(スペル)がどう見ても理解できない。どこをどう読んでいいのかがさっぱり分からない。
 果たしてこれが言葉なのか。まるで奇妙な虫が並んでいるのを眺めているような気分だった。
 結果、成績は散々だった。
 それでも、当時は〝英語が苦手〟くらいにしか思っていなかった。
 残念ながら、自分は勉強に向いていないらしい。ならば進学をあきらめ、早いうちから手に職をつけたほうがよいのではないか。周囲の友人たちのように、「継ぐべきもの」を持っていない達也は、そう割り切るようになった。
 元来、手先は器用なほうだし、「読み書き」以外のことであれば、総じて呑み込みも早い。
 父は一人息子の成績不振を不満に思っていたようだが、母は「手に職をつけたい」と言う達也に賛成してくれた。
〝調理人なんて、いいんじゃないの〟
 母の何気ない一言を手掛かりに、まずは古本屋で大判の料理本を買ってみた。家庭用のフランス料理の本だったと記憶している。
 料理などそれまでほとんどしたこともなかったが、とりあえず手に入りやすい食材のメニューを見つけ、本の通りに作ってみた。本には写真がたくさん載っていて、レシピも短文で分かりやすかった。なにより、材料が何グラム、オーブンの温度は何度、焼く時間は何分と、全ての工程がきちんと定められているのが、几帳面で明快なものを好む達也の嗜好に合致した。科学の実験でもするようなつもりで、達也は正確に料理を作り上げた。
 やってみると調理はなかなか面白かった。
 しかも、完成した料理が、両親や祖父母に大好評だったのだ。
 気をよくした達也は、本に載っている料理を一つ一つ作っていった。特に興味をひかれたのが、デザートの焼き菓子だ。基本は粉と砂糖と卵とバターなのに、配合と調理の仕方によって、しっとりとしたスポンジ生地になったり、サクサクとしたタルト生地になったり、ふわふわのシュー生地になったりする。面白くてたまらなかった。
 折しも、数年前からパティシエという言葉が流行り始め、製菓の道に進めば、くいっぱぐれることがないのではと単純な思いが頭をよぎった。 
 早速達也は製菓学校の資料を集めたが、東京の有名な製菓学校は入学金も受講料も驚くほど高かった。しかし根気よく調べたところ、入学金や学費も安く、設備もよさそうな理想的な学校が見つかった。
 女子大付属の栄養専門学校の製菓課だ。
 受験方法が面接のみというのもありがたい。
 但し、女子大付属ということもあり、入学してみると、男子生徒は全体の一割にも満たなかった。加えて、本命の女子大に入れずに仕方なく専門学校にやってきたような女子と、その女子が目当てのような男子が多く、正直、生徒のレベルが高いとはいえなかった。
 田舎町から出てきて、父の退職金を切り崩しながら学費を賄ってもらっていることを自覚している達也は、遊び半分の彼ら彼女らを後目(しりめ)に、必死になって調理を学んだ。ほかの生徒たちがそれほど熱心でなかったおかげで、オーブンやミキサーやフードプロセッサー等の設備を、独占状態で使うこともできた。
 専門用語はフランス語だったが、スペルを覚える必要はなく、塗る(ナッペする)、敷く(シュミゼする)、と、動作と一緒に単語を一つ一つ頭に入れた。
 作れば作るほど腕が上がり、腕が上がれば上がるほど、製菓が面白くなっていった。
 それに......。
 達也は本棚の中から一冊の本を取り出す。
 良き師にも巡り合えた。
『みんなが食べられる優しいお菓子』――。アトピー持ちの子供や、糖質制限のある高齢者向けのレシピ本を自費出版した高橋直治(たかはしなおはる)は、専門学校時代に達也に眼をかけてくれた恩師だ。
 ページをぱらぱらとめくり、先生らしい本だと達也は思う。
 重度の小麦粉アレルギーを持つ息子がいる直治は、小麦や乳製品を使わない、身体への負担が少ないお菓子のレシピをいくつも考案していた。
 直治が決して高名なシェフでないことを、今の達也は知っている。けれど、直治はこれまで達也にいくつもの大きな影響を与えてくれた。
 良くも悪くも――。
 そう思った瞬間、チリッと胸が痛む。
 達也は小さく首を横に振って、本をもとの場所に戻した。

最高のアフタヌーンティーの作り方

Synopsisあらすじ

老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?

Profile著者紹介

古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。

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