最高のアフタヌーンティーの作り方第一話 私のアフタヌーンティー(1)
待ちに待っていた季節が、ついにきた。
遠山涼音(とおやますずね)は、思い切り深呼吸する。一瞬、鼻の奥がムズムズしたが、眼の前に広がる光景の美しさは、花粉症の不快感を十二分に上回っていた。
爛漫と咲きほこるソメイヨシノが小高い丘を薄紅色に染めている。
花びらが舞う裾野には、しめ縄をかけられた大きな楠の御神木。小さな水車を回す、澄んだ川のせせらぎ......。
新卒採用されてから七年目になるというのに、この庭園を見ていると、ここが都心の真ん中にあることを忘れてしまう。
やっぱり、私、桜山(おうざん)ホテルに勤められてよかった――!
もちろん、いいことばかりではないけれど、広大な庭園の四季折々の美しさには、入社以来いつも心を慰められてきた。特に、桜が満開になるこの季節の華やかさといったら......。
今年は三月に冷たい雨が続き、桜の開花が例年よりも随分遅れたが、四月に入るとソメイヨシノが一斉に花開いた。
もともとこの一帯は、ヤマザクラやカスミザクラ等、野生種の桜が自生していた場所で、往時は「さくらやま」という通称で知られていたという。明治時代に景勝に惚れ込んだ某侯爵がこの地に邸宅を構え、加えて八品種の桜を千本以上植えたのが、現在の庭園の礎になっていると聞く。
早咲きの河津桜や寒緋桜から、遅咲きの八重桜まで、二月下旬よりゴールデンウイーク明けまでなんらかの桜を楽しめる庭園ではあるが、やはり、一番数の多いソメイヨシノが一斉に咲くと、本当に春がやってきたという気分になる。
「おはようございます!」
園内のあちこちで庭木の世話をしている職員たちに声をかけながら、涼音は軽やかに石段を上った。涼音が勤務するホテル棟は、桜の霞みに包まれた丘の頂上にある。
結構な距離と坂道だが、季節の花々や小川や水車や、古(いにしえ)には荷役を担う人々が喉を潤したと伝えられる井戸の傍の水鉢などを眺めていると、少しも苦にならない。最寄り駅から出る社員用のシャトルバスもあるのだが、よほどの悪天候でない限り、涼音は毎朝早起きしてこの庭園内を歩いて通っていた。
会議のある週明けは、特に就業時間が早い。六時起きは少々つらかったけれど、この季節の庭園の美しさには代えられない。
こんなに広大な土地が、昔は個人宅だったというのだから驚きだ。
なにせ、庭園内にお社(やしろ)まであるのだから。
朱色の鳥居の奥のお稲荷さんに一礼し、涼音は先を急いだ。
もっとも、栄華を極めた侯爵の大邸宅は、第二次世界大戦時の東京大空襲で灰燼に帰してしまう。そして、戦後に侯爵と同郷だった財閥系の観光会社が土地を引き継ぎ、邸宅の跡地に建設したのが、この桜山ホテルだ。
そうした由緒正しいホテルではあるが、涼音がなんとしてでもここに就職したいと切望していたのには、もう一つ、大きな理由があった。
それは、桜山ホテルのラウンジが、東京で初めて本格的なアフタヌーンティーを提供したと言われていることだ。
アフタヌーンティー。銀色に輝く三段スタンドのお皿に盛られた、愛らしいマカロンやタルトレット等の小型菓子(プティ・フール)、焼き立てのスコーン、上品なフィンガーサイズのサンドイッチ......。
香り高い紅茶と共に饗される、エレガントで華やかな究極の〝おやつ〟。
涼音の家は決して裕福ではなかったが、子供の頃からおやつの時間だけは決して欠かすことがなかった。台所には、陶器の大きな菓子鉢があり、そこにはたくさんのお菓子が常備されていた。もちろん、ホテルのアフタヌーンティーのように凝ったスイーツではない。菓子鉢に盛られているのは、カステラ巻き、栗まんじゅう、豆大福、アンパンといった、どこにでもある庶民的なお菓子ばかりだった。
今も涼音が暮らす家は、祖父の代から続く小さな町工場(まちこうば)で、母屋に隣接した工場で働いている祖父や父は、三時になると旋盤を回す手をとめて、おやつを食べに勝手口から台所に上がってきた。幼い頃の涼音は、祖父や父のお相伴にあずかって、菓子鉢のおやつを一緒に食べるのが大好きだった。
父はそれほどではなかったけれど、特に祖父の滋(しげる)は大の甘党で、祖母や母がたまにうっかりしていて菓子鉢に塩せんべいしかないようなときは、商店街の菓子屋まで自らひとっ走りするくらいだった。
小さな工場の創業者でもある涼音の祖父は、元戦災孤児だ。
昭和二十年の東京大空襲で家を焼かれた祖父は、そうとも知らず、疎開から帰ってきた上野駅で、延々両親の迎えを待ち続けていたという。戦後、少年保護団体に保護されるまで、少年時代の祖父は上野の地下道で生き延びていたらしい。
そうした経験があったせいか、祖父は甘いお菓子に並々ならぬ思いを寄せていた。無論、幼い涼音はそんなことを知る由もなく、只々、皆と一緒に甘いお菓子を楽しんでいたのだが、五年前に他界した祖母は、祖父のために、いつもお菓子を切らさないように気を配っていた。
〝涼音、お菓子はちゃんと味わって食べなきゃいけないぞ。寝っ転がってテレビを見ながら食べたり、だらしなく際限なく食べたりしちゃ駄目なんだ〟
涼音の頭に手を置き、言い聞かせるように滋は眼を細めた。
〝お菓子はな、ご褒美なんだ。だから、だらしない気持ちで食べてたら、もったいない〟
ご褒美は、受け取る側も誇りを持たなければならないのだと、祖父は語った。
二歳年上の兄の直樹(なおき)は、成長と共に菓子鉢への興味を失い、寝っ転がって漫画雑誌を読みながらポテトチップスをかじったりするのを好むようになっていったが、涼音は祖父の言葉が忘れられず、今でも甘いお菓子を特別なものに感じている。
お菓子はご褒美――。
初めて女性ファッション誌で、三段スタンドで饗されるアフタヌーンティーの存在を知ったとき、これほど 祖父の言葉を体現している〝おやつ〟はないだろうと涼音は感激を覚えた。
もうすぐ還暦を迎える母の時代、良くも悪くも、女性は結婚退職するのが当たり前だったそうだが、平成生まれの涼音はそうはいかない。結婚しても、子供を産んでも、女性も男性も関係なく、ずっと働き続けなければならないのだ。
年金も当てにできないし、社会福祉だってどうなるか分からない。
そう考えると、浮き立っていた心が少しだけしぼむ。
けれど、それが、平成不況の中で育ってきた自分たちの現実だ。
でも、だからこそ。世知辛い世の中に立ち向かうためにも、ときにはご褒美が必要だ。
なにかの本で、平成はIT革命の時代であるのと同時に、スイーツ革命の時代でもあったのだと読んだことがある。饅頭、大福、羊羹、キャラメルといった定番のお菓子ももちろんいいけれど、そこに、パンナコッタやティラミスやクレームブリュレ等の目新しいスイーツが登場したのは、すべて平成に入ってからだ。
それは、男性同様、否、それ以上に働くことを強いられた女性たちのささやかな贅沢。
居酒屋の酒や肴だけでは満たされない女性たちが求めたご褒美こそが、甘いお菓子と香り高い紅茶の組み合わせ(マリアージュ)だったのではないだろうか。
その最たるものこそが、憧れのホテル・アフタヌーンティー。
正直、普段使いできる価格のものではない贅沢な〝おやつ〟だが、だからこそ、頑張った自分への最高のご褒美にもなる。
就職活動中、下手な鉄砲も数を打てば当たるとばかりに、ありとあらゆる企業のエントリーシートをダウンロードしまくっていた涼音は、桜山ホテルの新卒採用者用ページにたどり着いた瞬間、雷に打たれたようになった。
職種紹介の中、ひときわ輝いているページがあった。
マーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチーム。髪をアップにした、いかにも感じのよさそうな女性が、穏やかな笑みを浮かべてインタビューに答えていた。主な任務はラウンジでの接客だが、季節ごとにテーマを変えるアフタヌーンティーの開発も手掛けているという。
アフタヌーンティーの開発――。その一言に、涼音は完全にノックアウトされた。
しかも、桜山ホテルは、アフタヌーンティーブームの先駆けともいえる存在だ。涼音が初めて雑誌で眼にした華麗なアフタヌーンティーも、実は桜山ホテルのラウンジで供されていたものだった。
それからは就職浪人も辞さない覚悟で、桜山ホテルへの入社だけを目指し、涼音は努力に努力を重ねた。TOEICの点数も大幅に上げたし、ホテル業界では必須の中国語も簡単な日常会話ならなんとか通じるレベルにまで鍛錬した。
度重なる面接を勝ち抜き、ついに入社が決まったときは、嬉しさのあまり卒倒しそうになった。
ところが――。新入社員研修を経て最初に配属されたのは、ホテル棟ではなく、バンケット棟の宴会担当だった。落ち込まなかったと言えば嘘になる。
酔客からセクハラまがいの扱いを受けて、トイレに駆け込んで泣いたこともあった。
けれど、そのたびに、この広大な庭園の四季折々の自然の美しさに慰められた。庭園を管理するスタッフたちのたゆまぬ努力の賜もあり、春はホテルの代名詞である桜が爛漫と咲きほこり、初夏には澄んだ小川に蛍が舞う。秋はイロハモミジやハウチワカエデが赤く染まり、冬にはもう一つの名物である約百種類の椿が次々と花を咲かせる。
加えて、涼音にとってもう一つの心の支えとなったのが、一人の先輩の存在だった。
園田香織(そのだかおり)。研修でお世話になったその人こそが、涼音の人生を変えるきっかけとなった、職種紹介のページでインタビューに答えていた、アフタヌーンティーチームの先輩だった。
いつかきっと希望の部署に異動できるという香織の励ましを信じて踏ん張り続け、ついには社内の接客コンテストで優勝するまでになった。涼音は元来、自分で決めた目標に向かって努力をするのはまったく苦にならない質(たち)だ。
〝あれだけ必死になってりゃ、当然だよ〟
〝なんか知らないけど、変に頑張っちゃってさ......〟
そういう自分を煙たがる向きがあることも知っている。
背後で囁かれた陰口が甦り、胸がチクリと痛んだ。
昔からそうだった。文化祭や部活で涼音が張り切れば張り切るほど、孤立してしまうことがままあった。
でも――。ちゃんと、認めてくれる人だっていたんだ。
今年から、涼音は念願かなって、アフタヌーンティーチームへ異動することができた。
研修時代より涼音の努力を買っていた香織が産休を取ることになり、後任に自分を指名してくれたのだ。
苦節七年。三十路を手前にして、ようやく夢の職場に手が届いた。
「わあ......」
最後の石段を登り切り、涼音は小さく感嘆する。風が吹くたびに満開の桜がはらはらと花びらを散らし、息を呑むほどに美しい。
今日も一日頑張ろうという気力が、胸の奥から湧いてくる。
あれこれと指導をしてくれていた香織が先月末より産休に入り、これから先は涼音も中心になって、ベテランが抜けた穴を埋めていかなければならないのだ。
正直に言えば、香織の不在は心もとないが、やりがいは大いにある。この日の会議のために、涼音は入魂の企画書を用意した。
なにしろ、香織が抜けてからの初めてのプレゼンだ。
一つでも採用されるプランを提案しようと、涼音は張り切ってホテル棟のロビーに足を進めた。
誰もいない更衣室で制服に着替え、涼音は手早く髪を整える。
桜山ホテルのラウンジスタッフの制服は、クラシカルな黒のワンピースだ。シンプルなデザインだが、脇の目立ちにくいところに、深めのシームポケットが二つ付いている。メモを入れたり、名刺を入れたりするのに、このポケットが大いに役立つ。
ホテルのシンボルカラーである桜色のスカーフを首に巻き、一つ息をついた。
まずはプレゼン。とっておきの企画を、調理課のアフタヌーンティー担当に披露するのだ。
涼音が人数分の企画書をファイルに入れていると、更衣室の扉が乱暴にあけられた。
「おふぁようございあーす」
大きなマスクで顔を覆った林瑠璃(はやしるり)が、長い髪を振り乱して入ってくる。
「あ、おはよう、瑠璃ちゃん」
入社三年目の瑠璃は、年齢や社歴でいえば涼音の後輩に当たるが、アフタヌーンティーチームでのキャリアは彼女のほうが長い。香織から初めて瑠璃を紹介されたとき、その容姿に涼音は軽く衝撃を受けた。
栗色の髪。色白の肌にぱっちりとした大きな瞳。まるでフランス人形のような可愛らしさ。
入社初年度からホテルの顔であるラウンジに配属されるためには、これくらいのルックスが必要になるのかと、少々臆した気分にもなった。
だが――。
「今日、花粉すごいですねぇ。スズさん、また庭歩いてきたんですかぁ。まじ、ありえないっしょ」
ロッカーをあけてマスクを外す瑠璃の顔には、眉毛がほとんどない。奥二重の眼も相当に腫れぼったい。
更衣室の瑠璃は別人だ。
特に会議のために就業時間が一時間早くなる週明けは寝起きに近いすっぴんで、ほとんど誰だか分からない。
「今、桜綺麗だよ。満開」
「花見なら、週末オールでやりましたよぉ。まあ、正直言って、花よりアルコールですけどぉ」
ホテル勤めである以上、土日勤務は避けられないが、パリピ――パーティー大好き人間を自認する瑠璃は、どれだけ遅くなっても、仕事が終わると必ず繁華街に繰り出すという。
「だから超寝不足ですよ。なんでいっつも会議週明けなんですかねぇ。こっちは一分でも長く寝てたいのにぃ」
ぼやきつつ、瑠璃はてきぱきと着替えていく。ぼさぼさの髪を尋常ではない速さでまとめ、「うおっしゃぁ」と気合を入れて、勢いよくメイクに入る。眉なしのすっぴん状態から、毎朝、ものの五分程度でフランス人形に変身するのだから、本当にたいしたものだ。
聞けば、瑠璃は大学時代、老舗デパートの化粧品売り場でアルバイトをしていたことがあるそうだ。そこで、メイクの早技をたたき込まれたらしい。
〝就職できなかったら、早技メイクのユーチューバーで生きていこうと思ってたんですよぉ〟
香織が開いてくれた涼音の歓迎会で、顔の半分だけメイクして「劇的ビフォアーアフター」を体現するという、捨て身の芸を披露してくれた瑠璃は、あっけらかんとそう言った。
今も瑠璃はロッカーの扉についているミラーを覗き込み、ものすごい勢いで顔を作り上げていく。
「会議室にいってるね」
アイラインをぎゅうぎゅう引いている瑠璃の後ろ姿に声をかけ、涼音は一足先に更衣室を出た。「ふぁーい」と後ろで声が響く。
ひとたびラウンジに出れば、ギャルっぽい言葉遣いも完璧な敬語に変わるのだから、つまるところ、要領がよいのだろう。
最初こそびっくりしたけれど、今では涼音は、瑠璃の変わり身の早さに一目置いていた。
香織が不在な今、アフタヌーンティーチームのラウンジ担当の社員は、涼音と瑠璃の二人だけだ。実際の現場は、桜山ホテルではサポーター社員と呼ばれる、パート制の契約社員たちによって支えられている。サポーター社員の中には、正社員である涼音のほうが恐縮してしまうほど、優秀なスタッフもいる。
社歴二十年の香織が入社した当初は、サポーター社員よりも正社員のほうが多かったというのだから、ホテル業界も長い不況の中で様変わりしてきたということなのだろう。
押しなべて不景気な平成の中でも、金融危機や震災等、特に就職氷河期の底をつくような時期が何度かあった。たった数年で、正規か非正規かの袂が分かれてしまう時代は、不確かであると同時に不公平だとも思う。
桜山ホテルへの就職にこだわっていた涼音自身、兄の直樹からは「選り好みしていられるお前は贅沢だ」と散々腐された。兄は東日本大震災直後に就活を始めなければならない世代だった。
もっとも、子育て等のライフワークバランスのために、あえて長時間勤務のないサポート社員を選択する向きもあるという。これからの時代は、今まで以上に様々な働き方が模索されていくのかもしれない。
大勢のサポーター社員のシフトを組むのもまた、香織から引き継いだ大事な仕事の一つだった。
軽くノックしてから会議室の扉をあければ、既に二人の男性が席についていた。
調理課でアフタヌーンティーを担当する、パティシエの飛鳥井達也(あすかいたつや)と、セイボリーと呼ばれる食事系を受け持つシェフの須藤秀夫(すどうひでお)だ。
「おはようございます」
いささか緊張を覚えながら、涼音は声をかける。
「おはよう」
すぐに返事をしてくれたのは、初老のベテランシェフ、秀夫だ。秀夫は既に定年退職を迎えているが、その後、シニアスタッフとして、アフタヌーンティー専用のセイボリーを担当している。瑠璃からの情報によれば、秀夫は熟年離婚をしていて現在は独身らしい。涼音自身はあまり社内の人たちのプライベートに関心がないが、穏やかで優しそうな人なのに、意外だなと思った記憶がある。
対して同世代の達也は、微かに顎を引いただけだった。
達也は数年前に外資系ホテルから引き抜かれてきたという、若きチーフパティシエだ。細い鼻梁に、涼しげな眼もと。端正な容貌を買われてか、桜山ホテルのアフタヌーンティーを紹介するメディアにもたびたび登場している。
雑誌のページで達也が紹介されているのを見たときは、正直、涼音もほんの少しだけ胸がときめいた。
でも、アフタヌーンティーチームへの異動を切望したのが、達也目当てだなんて断じて思われたくない。第一......。
「すみませぇん、遅くなりましたぁ」
そこへ、完璧なフランス人形仕立てとなった瑠璃が、小首を傾げながらやってきた。毎度ながら見事な変貌ぶりに、涼音は内心感嘆する。
全員がそろったところで、涼音はさっそく企画書を配った。
桜山ホテルのラウンジでは、約二か月に一度、テーマを変えて新作のアフタヌーンティーを提供する。テーマを決めるのは、七か月から八か月前からだ。
春爛漫の今、初めて涼音が中心になってプレゼンするのは、クリスマスアフタヌーンティーということになる。
まずは調理課の代表である二人にプレゼンし、それが通れば試作品を作り、マーケティング部の部長やサービス課の課長以下、サポート社員の代表にも試食をしてもらい、高評価が得られれば、ようやく商品化がかなうのだ。
今年に入ってから約三か月間、香織が産休に入る直前まで、涼音も間近で段取りを勉強してきた。もうすぐ出産予定日を迎える香織に安心してもらうためにも、今までにない斬新なクリスマスアフタヌーンティーを提案したい。
ところが。
「ちょっと待って」
できるだけ丁寧に分かりやすくと心を砕きながら説明をしていると、途中で達也の声が飛んだ。
「あのさ、随分、分厚い企画書作ってきてるけど、これ、全部説明するつもりでいるの?」
達也の視線が掛け時計に注がれていることに気づき、涼音は少々焦る。毎回週明けに会議が設定されているのは、月曜日のゲストが比較的少ないからなのだが、達也としては仕込みまでの時間が気になるのだろう。
「あ......、ええと、それじゃ詳細は後で読んでいただくのでも構わないんですが......」
「だったら、一押しのプランだけ、さっさと説明してもらえないかな」
出た。
これだから、この人目当てで異動してきたなんて、絶対に思われたくないのだ。
以前から愛想のいいタイプではないと感じてはいたものの、香織が抜けてから、とっつきにくさに一層の拍車がかかったようだ。
とはいえ、職人なんて、基本、こんなものなのかもしれない。
「一押しは、なんといっても、クリスマスプディングです」
気を取り直し、涼音は企画書をめくる。
「これはアフタヌーンティー発祥のイギリスの正当なクリスマスデザートで、リキュールをたっぷりかけたプディングに火を灯して燃え上がらせるのが......」
「待ってよ」
またしても達也からストップがかかった。
「それを、全部のテーブルでやるつもり?」
「クリスマスプディングだけ、後出しする形でも......」
「そんな手間のかかることを、クリスマスの繁忙期にやるわけ?」
冷笑的な物言いに、さすがにムッとする。アフタヌーンティーチームでは新参者かもしれないが、涼音とて、接客業のキャリアは相応に積んできたのだ。
「でも、今までこの手法を取ったアフタヌーンティーは他にありません。お客様に特別な時間をご堪能いただくためにも......」
「そりゃそうだよ。アフタヌーンティーは基本昼間だろ。クリスマスプディングに火を灯したところで、そうそう綺麗には見えない」
「だから、いつもより少し照明を落として......」
「あのさ、遠山さん、このクリスマスプディングって、ちゃんと食べたことある?」
痛いところを突かれ、涼音は言葉に詰まる。イギリス菓子の本を読んでいる最中に、クリスマスに火を灯して食べるプディングがあると知って、それだけでうっとりとしてしまったのだ。加えて、本のページに載っていた青い炎に包まれたプディングは、とても綺麗でロマンチックだった。
「それ、見かけほど美味(うま)くないから」
絶対零度の口調で、達也が切り捨てる。
会議室の中に、気まずいムードが満ちた。
「そ、それじゃ......、イギリス伝統のミンスパイ......」
なんとか切り返そうと、涼音はさらに企画書をめくる。
こちらは、英国児童文学に登場するクリスマスのお菓子の定番なのだが。
「あー、ドライフルーツを混ぜ込んだミンスミートは、日本人受けしないかもしんないねぇ。果物と肉の組み合わせっていうのはさ。ほら、酢豚にパイナップルが入ってるのが許せない人、結構いるからねぇ」
秀夫が申し訳なさそうに、白い毛の混じった眉を寄せた。
あれ――。
もしかして、私、また、空回りしてる?
〝なんか知らないけど、変に頑張っちゃってさ......〟
背後から囁き声が聞こえたようで、涼音の額に冷や汗がにじむ。
「え、えと、それじゃ、世界のクリスマスのお菓子の大集合。スウェーデンのサフラン入りのパン、ルッセカットに、ハンガリーの芥子の実を使ったロールケーキ、ベイグリに......」
「あのさ、目新しければいいってもんでもないから」
達也のあきれたような声が響いた。
「いや、よく調べてもらってるとは思うよ」
一応助け舟を出してはくれたが、秀夫の語尾にも苦笑が混じる。
「でも、もう少し、普通でいいんじゃないかな」
「す、すみません......」
涼音は赤くなって下を向いた。ちらりと視線を走らせると、瑠璃は腕を組んでじっと考え込んで――否、完全に眠り込んでいる。
「じゃ、仕込みがあるから、今日はこの辺で」
達也が勢いよく立ち上がった。
「初めてだから気張るのは分かるけど、別に妙な爪痕とか残そうとしなくていいからさ。園田さんが昨年作ったプランを踏襲する手もあるんだし。俺と須藤さんで、ある程度のアイディアを出すこともできるしね。後......」
醒めた眼差しで、達也は涼音を見る。
「こんな分厚い企画書、読んでも全然頭に入ってこないよ」
素っ気なく言い捨て、企画書をテーブルに置いたまま、達也は会議室を出ていってしまった。軽く肩をすくめ、秀夫がその後に続く。
残された企画書を、涼音はぼんやりと眺めた。
「あれ? 会議、終わりました?」
ぱちりと眼をあけた瑠璃が、あくびを噛み殺しながら大きく伸びをしてみせた。
その晩、涼音は家族全員分の夕食の後片付けを終えると、台所のテーブルで、一人でメモを作っていた。テーブルの上には、英国菓子やアフタヌーンティーに関する資料が並べられている。居間からは、両親が見ているテレビの音が漏れ聞こえていた。
実家で過ごす、いつもの夜だ。
しかし、朝の会議のことを思い返すと、涼音は自分でも知らないうちに深い溜め息をついていた。
せめて、企画書を最後まで読んでくれたっていいじゃない――。
今日は週明けにしてはゲストが多く、ラウンジに出てからは懸命に接客に当たっていたため考える暇がなかったが、今になってどんよりと気分が落ち込んでくる。
前から薄々察してはいたけれど、調理課の二人は、自分のことを新しい戦力というより、香織の「穴埋め」としか思っていないみたいだ。
〝別に妙な爪痕とか残そうとしなくていいからさ〟
達也の醒めた眼差しが脳裏に浮かび、涼音はますます胸の奥が重くなる。
あの人、もしかして、私のこと嫌ってるんじゃなかろうか。
気負いすぎてしまった自覚はあるけれど、なにもあんな言い方をしなくてもいいと思う。
自分はただ、できうる限り最高のアフタヌーンティーを提案したいだけなのだ。
でも。
最高のアフタヌーンティーって、一体、なんだろう。
涼音は、スコーンやタルトレットや銀色のカトラリーが並ぶ美しい表紙の本を眺めた。
〝茶と菓子のことなんかで、悩んでんじゃねえよ〟
三十歳になると同時に家を出ていった兄の直樹がここにいたら、間違いなくそう言うだろう。先月、祖母の法事で家に戻ってきたときにも、涼音がアフタヌーンティーの資料を広げているのを見て、呑気な仕事だと兄は半ば呆れていた。
就活で散々苦労した末、直樹は教育系の雑誌を編集する小さな出版社の営業職に落ち着いている。最近では、主に注意欠陥多動性障害(ADHD)等の学習障害を持つ子供向けの教材を担当しているらしい。昔なら〝落ち着きのない子供〟で一括りにされていたところを、今は早いうちからいろいろな診断名がつくことが「良いことなのか悪いことなのかよく分からない」と直樹は言っていた。
子供の教育の悩みを持つ家庭に訪問販売をすることもあるという兄の仕事に比べれば、確かに自分が従事する仕事は優雅な類に当たるのかも分からない。
それでも、決して苦労がないわけではない。ラウンジの接客は立ち仕事だし、始終ゲストの様子に気を配っていなくてはならない。一日が終わると、ぐったりだ。
涼音はだんだん煮詰まってきていた。
出産予定日の迫っている香織に相談するわけにもいかないし、瑠璃は端から新しいプランに関心がなさそうだし......。このまま時間ばかりが経てば、本当に去年の香織のプランを焼き直す形になってしまうかもしれない。それだけは、なんとしても避けたい。
別に自分の爪痕を残したいとかではないけれど、ようやく憧れの職場に異動できたのだから、現時点でのベストを尽くしたいのだ。
もしかしたら、こういうところが、うざいって思われるのかな――。
涼音が悶々としていると、台所の扉ががらりとあいた。
「おじいちゃん」
パジャマ姿の祖父の滋が立っていた。
「もう寝たんじゃなかったの?」
「ちょっと小腹が減ってな」
残り少ない白髪をかきながら、滋が台所に入ってくる。
「それなら、いいものがあるよ」
涼音は微笑んで立ち上がった。冷蔵庫からピスタチオとチェリーのタルトを取り出し、お湯を沸かす。残ったスイーツをたまにお持ち帰りできるのが、アフタヌーンティーチームの密かな特権だ。祖父は紅茶よりも緑茶が好きなので、煎茶の用意をする。
「綺麗なお菓子だなぁ」
クッキー生地にピンクのチェリーと萌黄色のピスタチオのフィリングが詰められたタルトを、滋は眼を細めて眺めた。
八十を過ぎてから、祖父は町工場の経営を父に任せて悠々自適の隠居生活を送っているが、現役時代と変わらず、今も甘いお菓子に眼がない。
「うちのラウンジで出してる、桜アフタヌーンティーのスイーツの一部なの」
桜アフタヌーンティーは、桜山ホテルの名物ともいえる人気商品だ。定番の桜の花びらをトッピングしたスコーンに加え、今年はチェリーや苺など、ピンクのスイーツがふんだんに盛り込まれている。
「涼音、仕事はうまくいってるのか」
お茶が入るのを待ちながら、滋が何気なく声をかけてきた。
「うん、それがねぇ......」
急須を手に、涼音は小さく息をつく。
「理想と現実は、やっぱり違うよね」
祖父の湯飲みにお茶を淹れ、涼音は愚痴り始めた。達也のことは、大げさなくらい嫌みな奴として話しておいた。
「私は、最高のアフタヌーンティーを作りたいんだけど」
「最高のアフタヌーンティーか......」
煎茶をすすりながら、滋は英国菓子の本を手に取る。
「こういう本を読むのも大事な勉強だろうが、お客を見ているほうが、いろいろと分かってくるもんじゃねえのか」
祖父の言葉に、涼音は「確かに」と頷いた。
実際にラウンジで接客をするようになって、これまで知らなかったことにも気づくようになった。
「そう言えば、最近は、一人でアフタヌーンティーを食べにくるお客さんも多いんだよ。特にね、すごい人がいるの」
新作アフタヌーンティーが出るたび、必ずラウンジを訪れる一人客が、サラリーマン風の中年男性であることを話すと、滋も「ほほう」と面白そうな顔になる。
「見た目はちょっと冴えないただのオジサンなんだけど、マナーがすごく綺麗なの」
涼音は数回接客しただけだが、それだけでも仕草の美しさに眼を奪われた。ローテーブルに案内したときは、必ずティーカップをソーサーごと胸の高さまで持ち上げる。カップのハンドルには決して指を通さず、そっとつまむようにして背筋を伸ばしてお茶を飲んでいる姿は、変な話、ヴィクトリア朝の貴婦人のようなのだ。
季節のスイーツに合わせた紅茶のセレクトも、スイーツを食べる順番も毎回完璧で、あの達也ですら一目を置いているのだと、瑠璃から聞かされた。ラウンジが混まない平日を狙って現れるあたり、わざわざ有給休暇を取っているのかも分からない。
〝あるいは、冴えないサラリーマンを装った、どっかの大富豪だったりしてぇ〟
ロッカールームで素顔に戻った瑠璃は、きゃはきゃはとはしゃいでいた。
ある意味有名なその人物は、ラウンジスタッフの間では〝ソロアフタヌーンティーの鉄人〟と密かに称されているらしい。
だが、最近、涼音が少し気になっているのは、一か月に一度必ずやってくるもう一人の〝一人客〟だ。
「その人は普通のOLさんみたいなんだけど、ものすごく美味しそうに、食べてくれるの」
ソロアフタヌーンティーの鉄人と違い、彼女はマナーが完璧なわけではない。一番下の皿から、必ず自分の皿に一旦載せてから、といった基本的なルールは一切無視し、一番上の皿から直接手に取って食べてしまったりするけれど、ひと口ごとに心底幸せそうな表情を浮かべる。
そのうっとりとした表情を見るたび、涼音まで嬉しくなるのだ。
「そいつはいいなぁ」
タルトを咀嚼しながら、滋が相好を崩した。
「そのお嬢さんにとっちゃ、お前がサービスするアフタヌーンティーが、最高のご褒美なんだろうなぁ」
皿に落ちたピスタチオのクランブルまで丁寧に拾い、滋は舌鼓を打つ。
「しかし、本当に美味いお菓子だな」
祖父の感嘆に異存はない。
サクサクとしたクッキー生地に、甘酸っぱいチェリーのフィリング、ほろりとこぼれる香ばしいピスタチオのクランブル......。達也が作るスイーツは、見た目が美しいだけでなく、食感も楽しく、味も素晴らしい。
率直に言って嫌な奴だけれど、パティシエとしての才能はたいしたものだ。
しかも意外なことに、達也の評判は、一緒に働いているパティシエたちの間では、決して悪くない。以前のチーフパティシエはやたらと長い報告書を書かせる人で、それだけで大変だったが、達也は実務主義なので助かると、若手パティシエたちが話しているのを聞いたことがあった。
〝こんな分厚い企画書、読んでも全然頭に入ってこないよ〟
随分と素っ気なく言い捨てられてしまったが、恐らく達也は合理的なだけなのだろう。
「こんなの、ばあさんにも食べさせてやりたかったなぁ」
滋がしんみりと呟いた。ハッと我に返り、涼音も少し寂しくなる。
「ねえ、おじいちゃん......」
二人きりのこの機会に、涼音は以前から気になっていたことを切り出してみた。
「お兄ちゃんも私も工場を継がなかったけど、それでよかったのかな」
小さな町工場ではあるが、祖父にしてみれば、祖母と二人三脚で苦労して立ち上げた城だったはずだ。
「なにを、バカな」
だが、滋はあっけらかんと笑った。
「もう町工場の時代でもないしな。あの工場は、お前のお父さんの代で終わりだ。直樹とお前は、自分の選んだ道をいけばいい」
「そうか......そうだよね」
「そうだぞ」
祖父の屈託のない微笑みに、いつしか涼音の心も軽くなる。
自分の選んだ道だもの――。
これくらいの悩み、別にどうってことない。
気がつくと、深夜に祖父と向き合って食べた甘酸っぱいタルトは、不思議なくらい涼音の気持ちを落ち着かせてくれていた。
翌日も、アフタヌーンティーのサービスが開始になる正午から、涼音たちは大車輪で接客に励んでいた。桜山ホテルのアフタヌーンティーは、達也のスイーツもさることながら、ベテランシェフ秀夫のセイボリーも人気があり、昼食代わりに食べる人も多いのだ。
「リャンイン」
第一波が落ち着き、バックヤードで二時間後のゲストの予約表をチェックしていると、背後から声をかけられた。サポーター社員の呉彗怜(ウースイリン)が、ファイルを片手に立っている。
同じワンピースを着ているのに、スカートから伸びる脚が真っ直ぐで長い。抜群のスタイルを誇る北京出身の彗怜は、まだ二十代だが既に一児の母だった。
「今天有没有中国顧客(今日、中国からのゲストはいますか)?」
中国語で話しかけられ、涼音はいささか焦る。
「あー、えーと、有、有(います、います)」
「幾点来(何時にみえますか)?」
「三点半(三時半です)」
かろうじて答えると、「合格」と、彗怜は微笑んだ。アフタヌーンティーチームに配属されて以来、涼音は暇を見ては彼女に中国語の指導をしてもらっている。ちなみに、「リャンイン」は、涼音の中国語読みだ。
「週明けの会議はどうだった?」
彗怜が流暢な日本語に切り替える。
「うーん、不太好(あんまりうまくいかなかった)」
そこから先は中国語では無理なので、涼音も日本語で概ねのことを手短に説明した。
「火を灯して食べる、クリスマスプディングね......」
彗怜は考え深い顔になる。
「いいアイディアだと思ったんだけどな」
二人でラウンジに向かいながら、涼音は未練がましく眉を寄せた。
「それは、どうでしょう」
「え......」
しかし彗怜にきっぱりと首を横に振られ、言葉を飲み込む。
「だって、リャンイン、このラウンジの客層をもっとちゃんと見たほうがいいよ。ここは、外資系ホテルの高層ラウンジじゃないもの」
彗怜の冷静な言葉に、涼音は改めてラウンジを見回した。桜山ホテルのラウンジは低層階だが、ホテル自体が小高い丘の上にあるため、大きな窓からは庭園の桜や緑をゆっくりと眺められる作りになっている。大都会を見下ろす壮大なランドスケープがない代わりに、四季折々の自然の温かみにあふれている。そのせいか、客層も、常にスマートフォンやノートパソコンを覗き込んでいるスノッブ感の漂うビジネスマンより、落ち着いた年配の人たちが多かった。
そう言われると――。
ブルーの炎に包まれる、ちょっと刺激的なプディングより、粉砂糖をまぶした王道のシュトーレンとかのほうが好まれるかもしれない。
「そういうのを、紙上談兵と言います」
「え、難しすぎるよ」
「〝机上の空論〟」
言い残し、彗怜はにこやかな笑みを浮かべて、お茶のお代わりを勧めに、テーブルの間を歩いていった。
背筋の伸びた後ろ姿を見送りながら、昨夜も滋から「本よりも客を見ろ」と言われたことを、涼音は思い出していた。
やっぱり、自分はまだまだだ――。
伏せていた視線を上げると、ふと、一人の女性が眼に留まる。
あ、あの人。
思わず予約表で確認してしまう。涼音が気になっているOL風の女性は、西村京子(にしむらきょうこ)さんというらしかった。化粧けのない顔に度の強い眼鏡をかけた少々地味な女性は、今日も幸せそうにアフタヌーンティーを頬張っている。
大粒の苺を載せた、桜風味のムース。フランス産グリオットチェリーのコンポートがたっぷり入ったタルト。卵の黄身のソースを添えた瑞々しいグリーンアスパラガス。サーモンとそら豆と新じゃがのキッシュ......。
一口食べるたび、京子はうっとりと目蓋を閉じる。
見ているこちらまで、よだれが湧いてきてしまいそうだ。
涼音はそれまで、アフタヌーンティーと言えば、〝お茶会〟に通じる社交の場なのだと思っていたが、ソロアフタヌーンティーの鉄人や、京子の姿を見るにつれ、ああして一人で集中して食べるのもまた、良いものだと思うようになっていた。
しかもそれは、アフタヌーンティーの食べ方として、あながち間違ってはいないのだと、最近知るようになった。なぜなら――。
「スズさん!」
そのとき、突然、腕をつかまれた。
お昼休憩に入っていたはずの瑠璃が、顔を真っ赤にして意気込んでいる。
「どうしたの?」
「いいから、ちょっときてください」
涼音はラウンジの指揮を彗怜に任せ、瑠璃に引きずられるようにしてバックヤードまで戻ってきた。
「すごいことになりましたよ!」
バックヤードの扉を後ろ手に閉めるなり、瑠璃が鼻息を荒くする。
「さっき広報課から連絡が入って、なんとなんと、あのクレア・ボイルがこれからラウンジにくるそうです」
「クレア・ボイル?」
「スズさん、知らないんですか! 美しすぎるイギリス人ジョッキーを! ありえないっしょ!」
憤慨しながら、瑠璃がスマートフォンの画面を突きつけてきた。
そこには、栗毛の競走馬に跨った金髪の美女が写っている。
「今、短期免許で大井競馬場に参戦している美人女性ジョッキーですよ。綺麗、上手い、強いの三拍子。地方競馬にやってきた大輪の赤い薔薇。先週の開催時は、大井の帝王を凌いで三連勝。クレアのおかげで、私の馬券も花盛りですよ!」
半分以上なにを言っているのか分からない。
このフランス人形の中に入っているのは、パリピではなく、実はオッサンなのではないかという疑念が湧いた。
しかし肝心なのは、バンケット棟の茶室で雑誌の取材を受けていた有名美人ジョッキーが、ホテル棟のラウンジに桜アフタヌーンティーがあると聞いて、ぜひ賞味したいと言っているらしいことだった。
こんなときのために、桜山ホテルのラウンジには、個室が用意されている。
「個室の予約、入ってなかったよね」
「大丈夫です!」
「それじゃ、私、取材協力でアフタヌーンティーの紹介も入れてもらえないか、広報課に確認してみる」
涼音とてマーケティング部の社員だ。その辺は抜かりがない。
「じゃ、じゃじゃじゃ、じゃあ、じゃあ、ラウンジ公式SNS用の撮影もさせてもらえないか聞いてみてくださいっ!」
大興奮の瑠璃に個室の準備を任せ、涼音は広報課と連絡を取りつつ厨房に走った。
達也と秀夫を呼び出し、訳を説明すると、二人ともこうした事態には慣れているようで、落ち着いた様子で引き受けてくれた。
「へえ、ボイル騎手がねぇ」
秀夫はクレア・ボイルを知っているらしく、しきりに頷いている。
「あの、飛鳥井さんは、ラウンジを代表してクレアさんの接客もお願いできないでしょうか。メディアでアフタヌーンティーの紹介もしてもらえることになったので」
突然のことなので、さぞや嫌みを言われると覚悟していたのだが、意外にも達也は無言で頷いた。
「すみません」
「いや、今日は比較的余裕があるから」
言葉少なく告げて、達也は厨房に戻っていく。「ボイル騎手かぁ」と呟きながら、秀夫もいささか浮かれた様子で後に続いた。二人の後ろ姿を見送りながら、別段嫌われているわけではなさそうだと、涼音は密かに胸を撫で下ろす。
さて、こうしてはいられない。
個室に向かい、瑠璃と共にテーブルセッティングに精を出した。白いテーブルクロスの上に、桜の生け花を飾り終えたところに、広報の男性とカメラマンに伴われて一人のスレンダーな金髪美女がやってきた。
クレア・ボイルは写真以上に華やかで、快活によく笑う、とても感じの良い女性だった。フランス人形の皮をかぶった瑠璃は瞳を潤ませてクレアに近づき、「You are so sweet(可愛い人ね)」なんて言われている。調子に乗った瑠璃は、公式SNS用の写真以外にも、何枚も私用の写真を撮らせてもらい、大はしゃぎだ。
涼音は競馬に詳しくないが、こんなに美しい女性が、男性騎手たちに交じって馬を駆るとはなんだか信じられなかった。
やがて、桜アフタヌーンティーを載せた三段スタンドと共に、真っ白なパティシエ服に身を包んだ達也がやってきた。桜の花やヨモギを使った桜山ホテル独自のスコーンについて流暢な英語で説明する達也に、クレアは興味深そうに頷き返している。
必要があれば通訳を買って出ようと思っていたのだが、その心配は全く無用だった。達也は涼音以上に英語が達者だ。
でも、そうだよね――。
考えてみれば、達也は元々外資系ホテルでパティシエをしていたのだ。留学経験だってあるに違いない。
顔を寄せて話しているクレアと達也は、実に絵になる。見目麗しい二人の様子を、カメラマンが何枚も写真に収めていった。
「Enjoy your time(お楽しみください)」
一通りの説明を終えると、達也は恭しく頭を下げて退出する。瑠璃を部屋に残し、涼音も後を追った。
「飛鳥井さん、ありがとうございました」
「いや、これも仕事だから」
達也がちらりとこちらを振り返る。
「でも、英語すごくお上手ですね。やっぱり、ロンドンとかパリとかに、留学されてたんですか」
何気なく尋ねただけなのに、その途端、達也の眼差しがすっと刺すように冷たくなった。
「してない」
「え?」
「留学はしていない」
立ちどまり、達也が正面から涼音を見据える。
「だから、なんだよ」
あまりに強い口調に、涼音は返す言葉を失った。
大きく舌打ちし、達也が踵を返して去っていく。
な、なに、あれ......。
嫌われていたわけではないと、思い直したばかりなのに。
一体なんなの、あの態度......!
涼音は憤然として、遠ざかっていく背中をにらみつけた。
続く
Synopsisあらすじ
老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?
Profile著者紹介
古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。
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