最高のアフタヌーンティーの作り方第二話 俺のアフタヌーンティー(3)
調理学校卒業後、達也は町場のパティスリーに就職した。洗い場の仕事に始まり、朝から晩までオーナーシェフや先輩に怒鳴られながら仕込みをする毎日に追われた。
バレンタインデー、ホワイトデー、クリスマス等の繁忙期は、連日終電が当たり前。特にクリスマス前や年末は、最寄り駅のカプセルホテルに詰め込まれて眠るのが常だった。
それでも確実に現場の技術が身についたので、不満はなかった。パティスリーでの厳しく忙しい日々の中で、達也は「手に職をつける」という、一番初めの目的を果たすことができた。
転機がやってきたのは、社会に出てから三年後の二〇一一年の春だ。
東北に甚大な被害を及ぼした東日本大震災から一か月後。店頭に出すケーキ類(アントルメ)を一通り作れるようになった達也のもとに、かつての師である直治から連絡が入った。
未だに避難所での生活を強いられている人たちに、焼き菓子やケーキを届けるボランティアに参加してもらえないかという打診だった。東京は自粛ムードで店はそれほど忙しくなかったし、三年間の修業を経て、そろそろ次の店へ移ろうかと考え始めていた矢先の狭間のような時期だったので、達也は直治の申し出を受けることにした。
そして、直治と共に、まだ津波の傷跡も生々しい東北の避難所を巡った。
クッキーやサブレ等、日持ちのする焼き菓子を配布したほか、達也たちは火を使わないクリーム系のケーキの仕出しを行った。
そのとき自分に向けられた笑顔の数々を、達也は今でも忘れることができない。
ずっと生のケーキが食べたかった! こんなに美味しいケーキは初めて!
あちこちから大きな歓声があがった。
小さな子供からお年寄りまで、クリームを頬張るなり、誰もが満面の笑みを浮かべ、心から喜んでくれた。
あのとき達也は、菓子作りを一生の仕事にしようと、本気で心に決めたのだ。
東京に戻ってから、達也は菓子作りの本場のフランスへの留学を視野に入れ、苦手だった外国語と改めて真剣に向き合おうとした。
しかし、フランス語でも英語でも、ローマ字の綴りは、相変わらず達也の眼には「虫」にしか映らなかった。
リスニングやスピーキングはできるのに、どんなに頑張っても綴りが読めない。もちろん、書くこともできない。
徐々に達也は、自分の状態が「苦手」などという範疇では片づけられないことに気づき始めた。
もしかしたら、飛鳥井君は、DXなんじゃないのかな――。
苦悩を打ち明けたとき、直治からそう告げられた。
DX?
聞いたこともない言葉だった。
このとき達也は、DX――読字障害(ディスレクシア)という概念があることを初めて知った。
NPO法人でボランティアをすることの多い直治は、そういう症例を聞いたことがあると話してくれた。アメリカのマサチューセッツ州や、ハワイのホノルルには、成人向けの夜間クラスを含めたディスレクシアの生徒専門の私立校もあるのだと。
アメリカでは一〇から二〇パーセントの子供に、DXが見られるという報告まであるらしい。
直治のアドバイスに従い、達也は両親にも内緒で、生まれて初めて大学病院で知能検査を受けてみた。その結果、日本語の読み書きには大きな支障がないものの、ローマ字に関して極度の読字困難が見られることが判明した。
苦手だったのではない。それは先天的な脳の働きの問題らしかった。
努力したところで、克服できる類のものではなかったのだ。
留学など、到底望めるはずがない。
〝留学経験がなくても、素晴らしいシェフやパティシエは大勢いる。今や製菓の技術は日本のほうが上と言っても過言ではないんだし......〟
愕然とする達也を、直治はそう言って励ました。
そして、もしよければ自分の知り合いがいる外資系ホテルで働いてみてはと提案してきた。
〝今日本に進出している外資のホテルは設備も素晴らしいし、大きなコンクールに出場できる環境も整っている。留学しなくても、様々な国のスタッフと仕事ができる。世界が大きく広がるはずだよ〟
その外資系ホテルが、世界的にも有名な五つ星ホテルだったことに達也は驚いた。
あのとき、どうして不審に思わなかったのだろう。
それほど有名なシェフでない直治に、なぜそんな伝(つて)があったのか。
だが、本当に面接日まで指定されて、達也は完全に舞い上がった。面接の際、履歴書と一緒に大学病院の診断書を持っていくようにと言われたことにも、なんら引っ掛かりを覚えなかった。
すんなりと採用が決まったときは、直治も一緒に喜んでくれた。
〝よかった! このホテルはね、最近ダイバーシティーの採用枠に、とりわけ力を入れてるんだよ〟
直治に他意があったとは、今でもまったく思っていない。
多様性(ダイバーシティー)の採用枠。
その言葉の意味を、達也自身がもっと深く考えるべきだったのだ。
だが、当時の達也はすべてを自分の才能の故だと思い込んだ。
無理もない。あの頃の自分は、世間を知らないくせに、根拠のない自信だけは山のように持っていた二十代半ばの若造だったのだから――。
達也の口元に、苦い笑みがのぼる。
実際、二十代で飛び込んだ外資系ホテルの厨房は刺激的だった。シェフ・パティシエは、世界的な製菓技術者コンクールに何度も入賞している三十代の若き中国系イギリス人。いかにも親方的な町場のパティスリーのオーナーシェフとは違い、スタイリッシュなスポーツマン風で、人気運動部の主将のような爽やかな雰囲気を持っていた。一緒に働くスタッフの中には、イギリスや香港出身の人もいて、厨房では英語が飛び交うことも多かった。
スー・シェフを目指す同世代の日本人スタッフたちと共に、達也も競うように英会話の習得に精を出した。通勤時間も、休憩時間も、就寝前も、スマートフォンで英会話アプリを聞きっぱなし。イヤフォンを耳に入れたまま、よく朝まで眠ってしまったものだ。
スペルを読むことに比べれば、耳から英語を覚えることはそれほど難しくなかった。調理学校で、フランス語の専門用語を一つ一つ覚えていったように、達也は厨房で耳と身体を使いながら、英会話を身につけていった。
最初の一年は日本人スタッフ同士の仲もよく、推進力のあるシェフの下、まさに部活動のように情熱を込めて働いた。
周囲の様子がおかしくなり始めたのは、達也がシェフから腕を認められ、コンクールに出場することが決まってからだ。コンクールでの入賞順位で、次のスー・シェフが決まると噂された。一つ所に留まることを考えていない外国人スタッフたちの態度はあまり変わらなかったが、それまで和気藹々と仲良くやってきたはずの日本人の同僚たちの様子が微妙に変化した。
やがて達也は、一緒に仕上げを担当しているアントルメンティエの同僚が、陰で自分を「ダイバーシティー枠採用」と吹聴していることに気づいてしまった。
「共に飴細工(ピエスモンテ)の国際コンクールに出よう」と、入社以来、励まし合ってきた相手だった。達也は自分がDXであることを打ち明けていたが、「製菓の腕には関係ない」と、ずっとわだかまりなく接してくれていた。
しかし、いざ、世界的に有名な五つ星ホテルの厨房のスー・シェフの地位がかかるとなると、状況は違うようだった。
「スー・シェフに〝グレーゾーン〟は困る」
「あいつの採用は会社の社会貢献アピールだから」
表面的には今までと同じように振る舞いながらも、背後でそんな言葉が囁かれるようになった。〝グレーゾーン〟というのは、障碍者手帳は出ていないが、病院からなんらかの診断を受けている人間を指す言葉だ。
そうした雑音を振り払うようにして挑んだ結果、達也は国内予選を通過し、国際コンクールに出場することになった。
しかし、そこでも達也がDXであることがついて回った。海外のメディアの記者たちは、達也にインタビューするときに、必ずそれを尋ねてくる。ホテルの広報課が作成している達也の英文プロフィールに、DXであることが明記されていたからだ。
自分に詳しい説明がないままプロフィールが公開されていたことに、達也は広報課とシェフ・パティシエに抗議した。だが、シェフは落ち着き払った口調で達也に告げた。
ホテル・オーナーも、現場の自分たちも、達也がDXであることを理解した上で採用している。そのため、職務中にも、達也が困らないように配慮してきた。コンクールでも、同様の配慮は成されるべきだ。プロフィールに障害を明記することに、一体なんの問題があるのかと。
理路整然とした説明に、達也はなにも言えなかった。
確かに、達也は仕上げ(アントルメンティエ)を担当しながら、英文のメッセージプレートを書くような仕事を回されたことは一度もなかった。
あれもまた〝配慮〟だったのだろう。
その事実が、胸の中に重く落ちた。
同僚が揶揄していたように、自分の採用が「社会貢献アピール」だけだったとは思わない。そもそもDXは、製菓の腕とは関係ない。そう考えながらも、〝配慮(コンスィダー)〟と言う言葉が、耳を離れなかった。
国際コンクールで上位入賞を果たしたにもかかわらず、達也はその直後に衝動的に外資系ホテルを辞めてしまった。
このままでは、たとえスー・シェフになっても、シェフ・パティシエになっても、一生自分がDXであることにつきまとわれると思ったからだ。
〝配慮〟されながら、シェフになるのはごめんだった。
以来、恩師である直治とも連絡は取っていない。
恐らく直治は、シェフとしてではなく、NPO法人のボランティアとして、外資系ホテルの人事担当者とつながりを持っていたのだろう。そのことを悪いとは思わないし、外資系ホテルでの経験は貴重なものだったと今でも感じている。
特に、国際コンクールに参加させてもらえたことは大きな財産だ。
後に桜山ホテルから声をかけられたのも、国際コンクールで入賞したキャリアを見込まれてのことだった。
だから、直治にも、自分を抜擢してくれた中国系イギリス人のシェフ・パティシエにも感謝はしている。
しかし、達也は桜山ホテルに移る際、自分がDXの診断を受けていることをオープンにしなかった。
幸い、年俸制の外資系ホテルと違い、桜山ホテルの経営陣も人事部のスタッフたちも比較的鷹揚で、達也のキャリアに余計な詮索はしなかった。
そして、現在。
自分の父親より年長のシニアスタッフ、セイボリー担当の須藤秀夫とコンビを組み、達也は桜山ホテルのアフタヌーンティーチームのシェフ・パティシエを問題なく続けている。
日本で初めてアフタヌーンティーを提供したと言われる伝統のレシピを守り、ラウンジスタッフたちの意見を参考に、独自のスペシャリテも制作する。
仕事は明快で、忙しくも淡々と流れていく。
今の環境に不満はない。
〝俺がディスレクシアだったとして、チームになにか迷惑をかけたことがあったかよ! 一度でも、満足のいかないジュレやムースやガトーを作ったことがあったかよ!〟
ラウンジスタッフの涼音に言い返した自分の声が甦り、達也は眼を閉じた。
もしかしたら、あの言葉を本当にぶつけたかった相手は、彼女ではなかったのかもしれない。
達也は目蓋をあけて、ぎっしりと料理本が詰めこまれた本棚を改めて見回した。
ふと、一冊の本の背表紙が目に留まる。
「え......」
思わず声が漏れる。
須藤秀夫?
同姓同名だろうか。それとも、あの秀夫が書いた本だろうか。
手に取ってみて、達也は軽く眼を見張った。
それは、ウイーンの古典菓子について書かれた本だった。
出版は、一九九〇年代。今から三十年前か。
あの人、もとは菓子職人だったのか――。
そう言えば、秀夫はむきエビのカクテルを、お菓子に使うブリオッシュに詰めていた。
達也は暫し茫然と、本を手に立ち尽くした。
Synopsisあらすじ
老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?
Profile著者紹介
古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。
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