最高のアフタヌーンティーの作り方第一話 私のアフタヌーンティー(2)

 紅茶用の湯を沸かすときには、ケトルに蓋をしないのが基本だ。
 業務用の巨大なケトルの表面に、五百円玉大の泡がぶくぶくと沸き上がるのを確認してから、涼音(すずね)はタイマーをかけた。空気をよく含んだ水を完全に沸騰させてから、三十秒後に火をとめる。
 ラウンジで供されるアフタヌーンティーの紅茶は、基本涼音たちラウンジスタッフが準備する。ゲストのくる時間に合わせて大量の湯を沸かすことから、ラウンジの仕事が本格的にスタートすると言っても過言ではない。
 今日は週末でゲストも多い。予約表でゲスト数を確認し、涼音は棚からティーポットを取り出した。
 桜山ホテルのラウンジでは、「ティーコレクション」として、常時二十種類以上の茶葉が用意されている。華やかな香りが特徴のダージリン、インドが産地のニルギリ、スリランカの高地で育まれたヌワラエリア、蘭の花の芳香を持つ中国のキーマンといったクラシックティーに加え、ベルガモットが香るアールグレイ、ウイスキーの芳醇な香りとカカオの実がブレンドされたアイリッシュウイスキークリームなどのフレーバードティー、ハーブと果物を組み合わせたアップルカモミールやオレンジルイボス、それから季節限定のシーズナルティー......。
 アフタヌーンティーを注文したゲストは、好きな茶葉を選んで何回でも紅茶をお代わりすることができる。分厚いティーブックを開いて茶葉を選ぶだけでも、わくわくした気分を味わってもらえるに違いない。
 桜山ホテルでは、サポーター社員も含め、ラウンジに立つ全員が、ティーインストラクターによる厳しい研修を受けていた。メニューに合わせて茶葉をセレクトするのは、パティシエの達也(たつや)やシェフの秀夫(ひでお)が中心だが、それを生かすも殺すも、涼音たちラウンジスタッフの腕にかかっている。ベテランの香織(かおり)に至っては、自らティーインストラクターと紅茶アドバイザーの資格まで持っていた。
 やはり、それくらいでないと、シェフたちからは相手にしてもらえないのだろうか。
 ティーポットを並べながら、涼音は小さく息をつく。
 もう四月の半ばを過ぎようとしているのに、未だにクリスマスアフタヌーンティーの企画に達也と秀夫の同意を得られていない。うかうかしていると、繁忙期のゴールデンウイークがやってきて、会議どころではなくなってしまう。
 このままでは本当に、香織が昨年作ったプランを踏襲することになりそうだ。
 しかしそれでは、せっかく念願のアフタヌーンティーチームに異動してきた甲斐がない。
〝だから、なんだよ〟
 先日の達也の冷たい眼差しを思い出し、涼音はますます重い溜め息をついた。
 単に留学をしているか否かを尋ねてみただけなのに、なにがそんなに達也の不興を買ったのだろう。別に留学をしていなくても、優秀なパティシエやシェフは山ほどいる。現に達也は自分と同世代という若さで、現場のチーフを任されているではないか。
 それをあんなに怒るなんて――。
 つまるところ、達也の度量が狭いだけだ。
 そう開き直ってみると、今度はだんだん腹が立ってきた。
 かくいう達也は、今日は仕込みを終えると、広報課に呼び出されてバンケット棟へ出向いている。前回飛び込みで桜アフタヌーンティーを食べにきた、〝美しすぎるイギリス人ジョッキー〟クレア・ボイルが桜山ホテルオリジナルの桜スコーンとよもぎスコーンをいたく気に入り、今回、バラエティ番組の特別枠で、チーフパティシエの達也との対談が組まれることになったのだ。
 アフタヌーンティーの本場、イギリスから来日中のクレアと、イケメンパティシエ達也が、東西のスイーツ談議に花を咲かせる企画らしい。
 テレビの露出は美味しいとは言え、今日はゲストの多い週末なんですけどね......。
 顔を寄せて話していた達也とクレアの様子を思い返し、涼音は思わず「けっ」と吐き捨てそうになる。
 いけない、いけない。
 涼音は慌てて姿勢を正した。こんなやさぐれた態度では、紅茶の味を悪くしてしまう。
 英国のアフタヌーンティーは、ホストのマダムもゲストと一緒になってお茶を楽しむのが慣例だ。ラウンジの自分たちも、ゲストを迎えるマダムになったつもりで心を込めてお茶を淹れなければいけないと、ティーインストラクターから教えられた。
 ホテルのラウンジによっては、既にお茶をカップに注いだ状態でゲストに提供することも多く、そのほうがたくさんのお茶をテイスティングしたいゲストからは好評だったりもするのだが、桜山ホテルでは、伝統的なイギリスの習慣に則り、ポットごとテーブルに運び、ゲストの眼の前で一杯めを注ぐ。一杯めは水色(すいしょく)と呼ばれる澄んだ色とふくよかな香りを、二杯めは紅茶本来の味と渋みを味わってもらうためだ。
 渋みが苦手なゲストには、二杯めからはミルクを入れて楽しんでもらってもいい。
「スズさん、桜ティー三つに、アールグレイ一つですぅ」
 ラウンジで注文を受けてきた瑠璃(るり)が、伝票を滑らせてくる。
「了解」
 涼音は湯を注いだティーポットをゆっくりと回し、ポット全体を丁寧に温めた。今日もまた、忙しい一日が始まる。
「やっぱ、シーズナルティーは人気ですねぇ」
 瑠璃が紅茶の缶をあけると、周囲に爽やかな茶葉の匂いが漂った。この時期、一番人気の桜ティーは、春摘みのダージリンに、「匂い桜」とも呼ばれるオオシマザクラの花と葉をブレンドした桜山ホテルオリジナルの瑞々しくも華やかなお茶だ。
 アフタヌーンティーの紅茶は、スイーツに使われている素材と同じフレーバーのものを合わせると相性が良くなる。涼音たちラウンジスタッフが薦めるまでもなく、ゲストもその旨を心得ているようだった。加えて、桜山ホテル名物の桜アフタヌーンティーは今月一杯で終わり、来月の五月からは新緑をテーマにしたグリーンアフタヌーンティーが始まる。季節限定の桜ティーは、この時期を逃すと、来年の春まで味わえない。
 涼音が温めたポットに、瑠璃がメジャースプーンで量った茶葉を次々に入れていく。茶葉の分量は、リーフの大きさによってそれぞれ異なる。大きなリーフなら山盛り一杯、細かなリーフならすりきり一杯が大体の目安だ。
「瑠璃ちゃん、いくよ」
「了解ですぅ」
 涼音が巨大なケトルを持ち上げ、できるだけ高い位置から勢いよく熱湯を注いでいくと、瑠璃が香気成分を逃さないように、すかさずポットのふたを閉めていく。既に阿吽の呼吸だ。
 このときポットの中では、茶葉が上下に激しく動く、〝ジャンピング〟と呼ばれる現象が起きている。研修の際、ガラスのポットを使って訓練したが、茶葉がダンスを踊るように激しく跳躍しながら湯を褐色に染めていく様子は、何度見ても興味深かった。
 ポットにティーコージーをかぶせ、砂時計をひっくり返す。蒸らす時間は約三分。砂時計が落ち切る直前に、ゲストのテーブルに提供する。
 トレイを用意していると、サポーター社員の呉彗怜(ウースイリン)が新たな伝票を手にやってきた。
 ゲストへのサービスを彗怜たちサポーター社員に任せ、涼音と瑠璃は第一波が収まるまで、配膳室(パントリー)でお茶の準備に追われた。
 やはり、季節限定の桜ティーの人気が圧倒的だ。ソメイヨシノはすっかり散ってしまったが、現在、桜山ホテルの庭園では遅咲きの八重桜が満開だった。
 桜アフタヌーンティーと桜ティーを味わいながら、桜の見納めをする週末は、誰にとってもとびきり優雅なものに違いない。その一刻を、一層忘れられないものにするための手伝いができればと、重たいケトルを持ち上げる涼音の手に力が入る。できるだけ高い位置にケトルを掲げるのは、お湯に空気を含ませて、茶葉のジャンピングを活性化させるためだ。
 第一波が収まる頃には、すっかり肩のつけ根がだるくなっていた。
「じゃあ、私、ラウンジに戻ってますぅ」
 ラウンジに向かう瑠璃の姿を見送り、涼音は次の予約を確認しようと、バックヤードに足を向けた。
 今日は午後から、誕生祝いのゲストが何組か入っている。デコレーションのクリームに立てるキャンドルを早めに用意しておこう。
 キャンドルの本数を計算しながらバックヤードの扉をあけた涼音は、そこに思いがけない人物がいることに眼を見張った。
 テレビ出演のために、バンケット棟へいっているはずの達也が、ノートパソコンに向かっている。
「飛鳥井(あすかい)さん? なんで、まだ、こんなところに......」
 言いかけて、涼音は口をつぐんだ。
 振り返った達也が、驚くほど蒼褪めている。こめかみには、汗まで滲んでいた。
 突然、体調でも悪くなったのだろうか。
「一体、どうしたんですか。収録始まるんじゃないんですか」
「なんでもない」
 心配して声をかけたのに、うるさげに首を振られた。
「悪いけど、出てってもらえないかな」
 つっけんどんに続けられ、涼音は耳を疑う。
「それ、どういう意味ですか」
「ちょっと急ぎなんだ」
「調べものなら、私も手伝いますけど」
「いや、時間がないから」
「だから、なにしてるんですか」
 覗き込もうとすると、達也が慌ててノートパソコンを閉じた。
 その瞬間、達也のパティシエコートのポケットからスマートフォンの呼び出し音が響く。達也が大きく舌打ちした。
 なんだかよく分からないが、相当取り込んでいる様子だ。
「お邪魔なようですので、退出します。では、どうぞごゆっくり」
 涼音が肩をすくめてバックヤードを出ていこうとすると、今度はいきなり腕をつかまれた。
「待って!」
「は?」
 あまりの訳の分からなさに、涼音は思い切り顔をしかめる。しかし、いつも冷静な達也が必死の形相を浮かべていることに気づき、さすがに異変を感じた。
「飛鳥井さん、なにがあったんですか」
 涼音は落ち着き払って、達也に向き直る。
 こういうときは、こちらも慌ててはいけない。
 できるだけ相手を安心させるように、静かな口調で、用件を聞き出すのが肝心だ。
「大丈夫です。お話ししてください」
 涼音は達也の眼を見て告げた。
 舐めてもらっては困る――。
 アフタヌーンティーチームでは新参者かもしれないが、自分は酔客の多い宴会担当で鍛えられ、接客コンテストでは優勝に輝いているのだ。
 相手がパニックを起こしかけている事態の対処法も、それなりにわきまえている。
 それでも達也はしばらく逡巡していたが、やがて覚悟を決めたように、ポケットから何かを取り出した。
「これ、読んでもらえないかな」
 差し出されたのが、手書きのメッセージカードであることに気づき、涼音は再び眉間にしわを寄せた。クレアからのカードのようだ。
「読めませんよ! それ、私信でしょう?」
「違う、違う。そうだけど、そうじゃない」
「なに、訳分かんないこと言ってるんですか」
「いや、クレアからだけど、そういうんじゃない。前回の感想を書いてきてくれたらしいんだ」
 しかたなく、涼音はそれを受け取った。読みやすいきれいな字で、日本独特のフレーバーを盛り込んだ、桜スコーンやよもぎスコーンに対するコメントが書かれている。
 確かに、意味深長な内容ではなさそうだ。
「広報課の野郎、こんなの直前に持ってきやがって......」
 ぶつぶつ呟いている達也に、涼音はクレアの感想を手短に訳していった。
「イギリスでは、スコーンに先にジャムを塗る〝ジャム・ファースト〟か、先にクリームを塗る〝クリーム・ファースト〟かで、インスタグラムでも盛んな論争が起きています。番組では、その辺もぜひお話ししましょうね......、だそうです」
 温かな文面に、クレアの薔薇が咲いたような笑顔が重なる。
「悪い、助かった......」
 達也の深い溜め息に、涼音はふと我に返った。
 あれ――?
 訝しさが込み上げる。
 この人って、英語ペラペラのはずじゃなかったっけ。
 前回は、クレアと流暢な英語で談笑していた。だから、涼音は達也に留学経験があると推測したのだ。
 再び、達也のスマートフォンが鳴り響く。
「今、いきます」
 ぶっきらぼうに応答し、達也がバックヤードの扉をあけた。
「あ、そうだ、遠山(とおやま)さん」
 一旦部屋を出かけていた達也が、なにかを思い出したように戻ってくる。クレアのカードかと思って差し出すと、「ああ」とそれをポケットにしまってから、「いや、そうじゃなくて」と、怖いような眼差しで見返してきた。
「このこと、誰にも言わないでくれ」
「え」
「頼む」
 勢いに押され、微かに頷く。
「助かる」
 言うなり、達也はパティシエコートの裾を翻して部屋を出ていった。
 どういうこと......?
 足早に遠ざかっていく後ろ姿を、涼音はただ茫然と見送ることしかできなかった。

最高のアフタヌーンティーの作り方

Synopsisあらすじ

老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?

Profile著者紹介

古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。

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