最高のアフタヌーンティーの作り方第三話 彼女たちのアフタヌーンティー(4)

「そう! ママ友!」
 香織が悲痛な声を張り上げる。
「子供さえ産めば、すぐにママ友ができると思ってたの。でも、全然そんなことなかった。入院中仲良くしてるのは、私より一回り以上若い、二十代、三十代のママばっかり。そこへずかずか入っていくことなんてさすがにできないし。四十代で初産のママなんて、近くに誰もいない。ネットやSNSでは、アラフォーのママ友たちが楽しそうにしてるのに、実際問題、どこで自分と同じ世代のママ友に出会えるのか、さっぱり、ちっとも、分からない!」
「いやいやいや、香織さん、ちょっと考えすぎですよぉ」
 興奮する香織を、瑠璃がなだめにかかった。
「歳なんて関係ないですってぇ。香織さん、若いし、綺麗だし、話だって合うしぃ」
「そうですよ」
 涼音もすかさず相槌を打つ。
 ラウンジでは、香織を中心に、二十代も三十代も四十代も、世代ギャップなどなく、一つにまとまっていたではないか。その事実は、穏やかな香織の人となりによるところが大きかったはずだ。
「それは、仕事だからでしょ」
 だが、香織は醒めた眼差しで呟くように言う。
「今回、私は思い知ってしまったの。会社から一歩外に出ると、私はただの〝高齢出産者〟なんだって」
 高齢出産者――。社内では、上からも下からも信頼されている香織が疲労と孤独を滲ませていることに、涼音は改めて戸惑いを覚えた。
 正直、〝ママ友〟なんて、未婚の自分にとっては煩わしいもののように感じられてしまう。けれど、四十代で初めて出産を経験した当の香織からすれば、産後の不安と子育ての大変さを分かち合える〝ママ友〟と巡り合えなかったのは、世界から取り残されるに等しい大問題だったようだ。
 夫が遅くに帰ってくるまで、朝から誰とも口をきいていない状態に、香織は幾度も押し潰されそうになったという。
「でも、帰ってきたら帰ってきたで、〝なんか食べるものない?〟とか平気で言うしね。〝簡単なものでいいから〟ってすぐ言うけど、そんなに〝簡単なもの〟なら、自分で作ればいいじゃないの!」
 まるで箍(たが)が外れたかのように、香織は胸の奥に抑え込んでいただろう思いを、とめどなく吐露し始めた。
 五時間以上に及ぶ陣痛との戦いの末、結局緊急帝王切開になったこと。それを聞いた姑の「あら、自然に産めなかったの?」という無神経な一言。お腹の傷が痛む中での、ほとんど絶え間のない授乳。毎晩の夜泣きによる寝不足。磯子(いそご)に住む母と、近所で暮らす姑が、たびたびヘルプにきてはくれるものの、二人とも孫を奪い合うばかりで、香織が本当にして欲しい家事には案外非協力的であること。
 孫をあやす時間よりも、家事を手伝う時間を増やしてほしいと告げたところ、実母からまで「私はお手伝いさんじゃない」と、憤慨されたそうだ。
「悪いけど、今、この家に本当に必要なのは、孫に好かれたい〝ばあば〟じゃなくて、有能なお手伝いさんだから」と、香織は嘆いていた。
 夫は朝から晩まで外で働いているので、まったく戦力にならない。
「なのに、子供を可愛がるだけで、イクメン面(づら)なんてしてほしくないのよ」
 子供が夜泣きしても、隣でいびきをかいている夫の寝顔に、本気で殺意を覚えたと香織は眼差しを尖らせた。
「にこにこ笑ってる赤ちゃんが可愛いのは当たり前。私だって、春樹が笑ってるのを見るたび、心の底から幸せになる。どんなに大変でも、あの子が宝物であることに変わりはないの。でも、そういう天使のときだけ猫可愛がりして、大泣きし始めたら、〝やっぱりママじゃないと〟って、私のところへ連れてくる父親ってどういうことよ。オムツなんて誰だって替えられるし、ミルクなら、男でもあげられるでしょう!」
 香織の勢いに、涼音も瑠璃もこくこくと頷くことしかできない。
「おまけに、授乳ってものすごく痛いの」
 突如ひそめられた声音の真実味に、涼音はごくりと唾を呑み込む。
「これも高齢出産のせいだって、義母は言うんだけど......」
 不本意そうに前置きした上で、香織は自分の母乳の出がよくないことを打ち明けた。ところが生命力のかたまりのような春樹君は、毎回食らいつく勢いで乳房に向かってくる。そして、乳の出が悪いと知るなり、首を振り回して猛烈に乳首を引っ張るのだそうだ。
「もう、痛くて、痛くて......。あんな小さな唇に、どうしてあんなすごい力があるんだろう」
 香織はトレーナーの上から胸を押さえた。
 授乳というと、穏やかな表情で幼子(おさなご)を胸に抱く聖母マリアのようなイメージしかなかったため、生々しい話に涼音は圧倒されてしまった。
 あまりにつらいので、香織は現在、母乳とミルクを併用して春樹君を育てることにしているという。だが、近所に住むお姑さんは完全母乳にこだわりがあるため、これまで良好だった関係に、にわかにひびが入り始めているらしい。
「あれ、見て」
 部屋の隅に積まれている段ボール箱を、香織が顎でさし示した。
「全部ウイキョウのエキスなの。飲むと母乳の出がよくなるって話だけど、どこまで信憑性があるんだろうね」
 やつれた頬に、苦々しい笑みが浮かぶ。
「どの道、そろそろ離乳食に変わるのに。でも、そうなったらなったで、お手製じゃないととか、またいろいろ言われるんだろうな。本当に余計なお世話だよ。ウイキョウだって、私が自分で飲みたくて飲むならいいけど、強制されると、なんだか......」
 堰を切ったように話し続けていた香織の言葉が、突然途切れた。
 香織はうつろな表情で、積みっぱなしになっている段ボール箱をぼんやりと眺めている。
「香織さん?」
 涼音が呼び掛けた途端、香織はハッと我に返った。
「ご、ごめんなさい。私、お茶も出さないで、こんな話ばっかり......。すぐお茶淹れるね。授乳があるからカフェインは控えてるんだけど」
 いつもの気遣いを取り戻し、香織が大いに恐縮しながら席を立つ。
「手伝いますよ」
「いいの、いいの。座ってて」
 香織は押しとどめようとしたが、涼音も瑠璃も一緒に台所に立つことにした。
 食洗器のおかげか、キッチンはリビングほど荒れてはいなかった。ラウンジの配膳室(パントリー)の要領で、涼音たちは茶葉から丁寧にカフェインレスのハーブティーを淹れた。
「こんなの、本当に久しぶり」
 リビングに戻ると、香織がようやく見知った柔らかな笑みを浮かべながら、大きなポットを傾ける。洗濯物や書類だらけの雑然としたリビングに、アップルカモミールティーの甘い香りが漂った。
「これ、飛鳥井さんからです」
 涼音がお皿に並べたプティ・フールを差し出す。
 和栗のモンブラン、スイートポテト風フィナンシェ、カボチャの種を飾ったパンプキンスコーン......。オータムアフタヌーンティーの人気スイーツばかりだ。
「飛鳥井さんのスイーツ、懐かしい。早速いただきましょう」
 書類を押しやり、三人でテーブルを囲む。
 モンブランを一さじ口に入れた瞬間、突如、香織の瞳から、涙がぽろりと零れ落ちた。
「わ! 香織さん、どうしましたぁ?」
 気づいた瑠璃が仰天する。
「美味しくて......。それに今日、二人に会えたことが嬉しくて......」
 肩を震わせて泣き出してしまった香織のことを、涼音は決して大げさだとは思えなかった。
 お菓子はご褒美――。祖父、滋の口癖が脳裏をよぎる。
 旦那さんもお姑さんもお母さんも、それぞれ気を遣ってはいるのだろうが、お腹を裂き、乳房を吸われ、文字通り、満身創痍になって頑張ってきた香織には、誰よりもそれを受け取る権利がある。
 きっと香織は、お茶の時間など思い出すこともできない毎日を送っていたのだろう。
 自分はなにもできないけれど、こうして一緒にお茶を飲むことならできる。
 サクサクしたクッキー生地の上に絞られたマロンクリームの中に、和栗の甘露煮がごろりと丸ごと入ったモンブランは、ほんのりラム酒が効いていて、申し分のない美味しさだった。
 さすが飛鳥井シェフ......。
 定番菓子でありながら、独特の洗練された後味がある。食べ応えがあるのに、しつこすぎず、ひと口ごとに、後を引く「余韻」が残る。
 達也の仕事の確かさに、涼音は素直に敬意を覚えた。
「ラウンジの皆は元気?」
「それが......」
 古株だった彗怜が突如辞めてしまったことを伝えると、「そうだったの」と、香織は少し顔を曇らせた。
 だが、二杯目のアップルカモミールティーを飲む頃には、蒼褪めていた香織の頬に、ほんの少し血の気が戻ってきた。
「私もなんとか来年には復帰したいんだけど。見て、これ。全部、保育所の資料なの」
 トースターで温めたパンプキンスコーンを頬張りながら、香織が散乱している資料に手を伸ばす。
「うちはフルタイムで共働きだから、ある程度の利用指数はとれるんだけど、今どき、ほとんどの家庭がフルタイムの共働きでしょうしね」
 利用指数というのは、その家庭の「保育の必要度」を点数化したもので、その点数によって国が定めた設置基準を満たす「認可保育所」に入れるか否かの判断がなされるという。
「うちの区では五つの認可保育所に申し込みができるんだけど、どこを選べばいいか見当もつかないから、一つ一つ資料を取り寄せて、見学するしかないのね。それが予約するだけでも大変で......」
 子育てと同時進行で、所謂「保活」を行わなければならないのがまた一苦労なのだと、香織は深い溜め息をついた。
 認可に落ちたときの「すべりどめ」として、国ではなく都の定めた設置基準を満たす認証保育所、認可外の保育所も当たっておかなければならない。
「少子化、少子化って言われながら、待機児童が一向に減らないのが現実なの。だからって、がらがらの認可外保育所があったら、それはそれで、こっちも警戒しちゃうし」
 香織の眼差しが遠くなる。
「やっぱり、情報交換できるママ友が必要よね」
 口コミサイトなども利用しているが、ネット上の情報は、どこまで信用していいか判断に困るという。
「だったら、施設が充実していて、保育士の配置もきちんと国の基準で定められている認可保育所に入れるのが、やっぱり安心じゃない」
 認可保育所の保育料は、前年度の親の所得によって決められる。両親ともに正規社員である香織の家の場合、保育料はある程度高く設定されることになる。それでも、運営に国からの公費補助が入っている認可保育所は、認可外の保育所に比べれば、ある程度保育料が抑えられる。しかし、そのため多くの家庭から毎年申し込みが殺到し、結果熾烈な競争率になってしまう。
 現在、必死に情報収集や見学をして、最大数の認可保育所に申し込みをしたところで、来年の一月の通知ですべてが落選している可能性もある。
「だけど、一番つらいのは......」
 フィナンシェに伸ばしかけていた香織の指先がとまった。
「それなら仕事を辞めて、子育てに専念しろって言われることね」
 語尾がかすれるほどに小さな声だった。
 実際、香織の家は、どうしても共働きをしなくてはならないほど困窮してはいないのだろう。シングルマザーや、非正規勤務の家庭に比べれば、確かに「保育の必要度」は低くなる。 
「でも、そうしたら私、母乳の出の悪い、高齢出産者でしかなくなってしまう」
 香織が自嘲気味に呟いた。
 涼音は無言でカモミールティーの澄んだレモンイエローに眼を落とす。
 部屋の隅に積まれたウイキョウのエキスの入った段ボール箱の無言の圧力。
 ラウンジをまとめ、ティーインストラクターや紅茶アドバイザーの資格を持ち、数々のアフタヌーンティーのヒット作を手掛けてきた優秀なプランナーの香織が、母乳の出の良し悪しの前で無力化される理不尽。
 平成のスイーツ革命を牽引してきたのは、間違いなく、社会で経済力を持つようになった女性たちだ。しかしその裏側で、女性は女性にだけ課される、産む、産まないという選択のプレッシャーにさらされ続けている。
 そして出産した後も、自分の人生と子育てを、どこかで天秤にかけられる。
 そんな重さ、比べられるわけがないのに。
 どれだけ法が整おうと、周囲が理解の体(てい)を装おうと、〝母親〟の重責は、昔も今もたいして変わらない。
 香織の裕福そうな環境を羨んでいた自分の単純さを、涼音は恥じた。
 駅前のブティックで買い物をしたり、緑道で犬を散歩させたりしていた一見優雅な女性たちの背後にも、のっぴきならない現実があるのかもしれない。
「香織さん、これ、めっちゃ美味いっすよ」
 瑠璃がわざと無邪気にフィナンシェをかじってみせる。
「本当だね」
 改めてフィナンシェを口に運んだ香織が微笑んだ。
 促されたように、涼音もフィナンシェに手を伸ばす。スイートポテト風味のフィナンシェは、こっくりと甘いはずなのに、微かに苦い味がした。

最高のアフタヌーンティーの作り方

Synopsisあらすじ

老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?

Profile著者紹介

古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー