最高のアフタヌーンティーの作り方第三話 彼女たちのアフタヌーンティー(1)

 竹竿を組んだ棚にずらりと吊るされた江戸風鈴が、からころと軽やかな音を立てる。
 休憩中に庭園に出てきた涼音は、木陰のベンチに腰を下ろした。
 昼下がりをすぎても、八月の日差しは一向に衰えることがない。例年同様、うだるような暑さが続いているが、沢の音(ね)が響く緑陰は、とても都会の真ん中とは思えない涼やかさだ。
 ベンチの上で、涼音(すずね)は大きく伸びをした。緑の匂いに、全身の疲労が抜けていく。
 ゲストが多いときはバックヤードで手早く昼食を済ませるが、繁忙期のお盆を過ぎるとホテルを訪れる家族連れや団体客も随分と落ち着いてきた。
 まだ日差しが強いせいか、今は広い庭園内にほとんど人影がない。ミンミンゼミとアブラゼミだけが、競い合うようにして鳴いている。
 昼休憩とはいえ、涼音たちラウンジスタッフが休息を取れるのは、午後三時過ぎになることが多かった。シフトがうまく組めなければ、もっと遅くなる。
 朝食以降、夜八時のディナーまでなにも口にすることができなかった英国の女性貴族たちも気の毒だが、二十一世紀の現在も、多くの接客業の女性たちは空腹と戦いながら立ち働いている。
 でも――。
 ほんのひとときであっても、こうして手入れの行き届いた日本庭園を眺めていられるのは、やっぱり幸せだ。着替えが面倒だと、瑠璃やほかのスタッフたちはたとえ時間があってもバックヤードから出ようとしない。パリピを自称する瑠璃などは、昼食よりも一分でも長く寝ていたいと、大抵テーブルに突っ伏しているが、涼音は時間が許す限り、外の空気を吸いたかった。
 だって、こんなにすてきなんだもの。
 紅茶を入れたポットと、賄いの入った紙袋を傍らに、涼音は改めて周囲を見渡した。桜山ホテルのガーデンスタッフたちは、四季折々の趣を一層引き立たせるための工夫を怠ることがなく、毎日のように新しい発見がある。
 たとえば、夏の間だけ小道の両側に吊るされる、たくさんの江戸風鈴。
 涼音も全体会議で初めて知ったのだが、型を使わずに、宙に浮かせて硝子を吹く「宙吹き」と呼ばれる手法で作られる江戸風鈴は、一つとして同じ音色のものがないそうだ。また、切り口は、わざと磨かずに「切りっぱなし」にする。そうすることで、自然界の音に近い〝揺らぎ〟が生まれ、夏負けした心身の治癒効果につながるという。
 江戸風鈴の音色は、鈴虫の声の周波数とほぼ同じだという報告もあるらしい。
 それでこんなに涼しい気分になるのかな。
 沢の音に交じり、からりころりと鳴り響く音色に、涼音はうっとりと耳を澄ます。
 風鈴は元々中国から伝来してきた鐸(たく)の一種だが、魔除けとして使われていたそれに納涼の用法を見出したのは、日本人独自の感性だ。
 金魚、花火、朝顔、西瓜、ひまわり......。
 色褪せを防ぐために硝子の内側から描かれた様々な模様も可愛らしく、江戸風鈴の小道は、日本人はもちろん、外国人ゲストたちからの評判も上々のようだった。
 さて、そうのんびりはしていられない。
 涼音は紙袋からサンドイッチを取り出した。
「うわー、美味しそう......」
 思わず頬が緩んでしまう。
 ライ麦パンに、ミラノサラミ、チェダーチーズ、紫キャベツのヴィネガー蒸し煮(ブレゼ)をたっぷりと挟んだサンドイッチはボリュームもあり、見た目にも美しい。セイボリーの残り物の食材で作っているとはいえ、秀夫特製の賄いは、毎回、贅沢な美味しさだ。
 大きく口をあけてかじりつくと、バターに混ぜられたマスタードがピリッと鼻に抜けた。
 サラミ、チーズ、ブレゼのバランスが絶妙で、そこに新鮮なサラダ菜とマスタードの辛みが後を引くアクセントを加えている。
 これは、とめられない。
 涼音は暫し、無心でサンドイッチを頬張った。
〝こういうのって、マインドフルネスとも言いますね〟
 半分程食べ終えたとき、ふいにソロアフタヌーンティーの鉄人の言葉が脳裏に浮かんだ。
 余計なことはなにも考えずに、ひたすら美味しいものを満喫する――。それが、眼の前のことに集中して自らを解放する、最近流行りの瞑想法に近しいと、鉄人は語ってくれたのだ。
 その発見は、涼音にとってもとても嬉しいものだったのだが......。
 涼音の心に、ふと小さな影が差す。
 この夏、前任者の香織(かおり)とパティシエの達也(たつや)が中心になって開発した白桃のアフタヌーンティーが、例年のマンゴーを中心にしたトロピカルアフタヌーンティーを超えるヒットとなった。特に、イギリスの名門ホテルの料理長がオーストラリアの歌姫ネリー・メルバに捧げたのが由来とされる、完熟した白桃とバニラアイスとラズベリーソースを組み合わせた特製菓子(スペシャリテ)、ピーチ・メルバのフレッシュな味わいが、老若男女を問わず大きな評判を呼んだ。
 けれど、そこに常連客だった西村京子の姿はなかった。
 あの日以来、京子は一度もラウンジを訪れていない。
 ラズベリーソースのかかったピーチ・メルバを一さじすくって口に入れるたび、幸せそうに目蓋を閉じる京子の姿は、見てきたように想像ができるのに。
 足早に去っていこうとする京子の背中を追いかけた日のことを、涼音はぼんやりと回想する。
 あの日、差し出したプティ・フールの詰め合わせを、京子はなかなか受け取ってくれなかった。
〝もう、私がここへくることは、ないと思います〟
 悲しげに告げられた言葉を思い返すと、今でも胸がしくりと痛む。
 あんた、まさか一人でアフタヌーンティー食べてんの?
 え、嘘でしょう? どれだけ友達いないの。
 なに、ぼっちでこんなところにきてるわけ?――。
 あのとき、同僚と思われる女性たちから、京子が次々とぶつけられていた言葉の礫(つぶて)。
 それだけで、彼女たちの会社での関係性が透けて見えた。
〝私って、本当に駄目なんです〟
 四月の半ば、八重桜の下で初めて言葉を交わしたとき、京子は深くうつむいていた。その背後には、京子をそんなふうに思い詰めさせる職場の環境があったのだろう。
 人間関係はどこでも複雑だから、本当のところまでは涼音には分からない。
「同じ虐げられし非正規」と語っていた女性たちには、彼女たちなりの言い分があるのかもしれない。だが、徒党を組むようにして、京子を嘲笑った態度だけは許せなかった。
 涼音は京子を援護したつもりだったけれど、しかし、それがよかったのかどうかも、今となっては定かではない。
〝もう、お分かりでしょうけれど、私、職場でうまくいっていないんです〟
 半ば押しつけるようにして差し出したプティ・フールの詰め合わせをためらいがちに受け取りながら、京子は眼元を赤く染めた。
 非正規組の結束を強めるためにと、就業後、頻繁に行われる「女子会」という名の愚痴大会。
 最初は、上司や職場の環境が攻撃の対象だった。
〝でも、私、非正規組が集まって愚痴ばかり言い合うのって、なんか、益々憂鬱になるような気がして慣れなくて......。元々、話も合いませんし......〟
 彼女たちから距離を取り、翻訳の勉強を始めたところ、いつの間にか、攻撃の対象が自分に変わっていることに気がついた。気取っている、陰(いん)キャのくせに、と背後で囁かれるようになった。職場での情報を教えてもらえなかったり、伝言をとめられたりして、結果、それが仕事上のミスにつながることまであったという。
〝それでも、私、ここがあるから平気だったんです〟
 そのとき、京子は初めて涼音の眼をじっと見た。
〝私、気づいたんです〟
 彼女たちに付き合ってチェーン店で飲んだり食べたりしていたコーヒーやお菓子の約十回分で、このラウンジにくることができる。きちんとやりくりすれば「非正規組」でも、それくらいの贅沢はできるのだと。
 一人でホテルのラウンジに足を踏み入れるのは不安だったけれど、それも窓辺で優雅にティーカップを傾けるソロアフタヌーンティーの鉄人の存在が払拭してくれた。
「非正規組」だって、「陰キャ」だって、節約したお金で、思う存分、豪華なアフタヌーンティーを堪能できる。
 そう発見した途端、仲間外れにされることも、陰口をたたかれることもたいして気にならなくなった。
〝あの人たちに内緒で、一人で豪華なアフタヌーンティーを楽しむ......。それこそが、私にとって、最高の贅沢でした。私にはここがある。そう思うと、つまらない仕事でも、頑張れたんです〟
 涼音の眼を見つめて、京子は続けた。
〝私、いつも一人なのに、遠山さん、必ず窓側の眺めのいい席に案内してくれましたよね。お気遣いがすごく嬉しかったです。おかげさまで心からくつろげました〟
 京子の声に、深い溜め息が交じった。
〝でも、もう、ばれてしまった......〟
 寂しげに、京子は眉根を寄せた。
 秘密のアフタヌーンティー。
 アフタヌーンティーが貴婦人アンナ・マリアの秘め事から始まったように、その秘匿性こそが、京子にとっての「最高のアフタヌーンティー」につながっていたのだろう。
〝だから、ここへくることは、今後二度とないだろうと思います。ごめんなさい〟
 最後に深々と頭を下げて、京子は立ち去っていった。一度もこちらを振り返ることはなかった。
 遠ざかっていく小さな背中が、今も脳裏から離れない。
 初めてヒントをくれた人だった。
〝いいですね!〟
 ツーラインというアイデアを思ついたとき、瞳を輝かせて親指を突き立ててみせた京子の様子が、昨日のことのように甦る。
 涼音の案が、調理班の達也と秀夫の同意を得て、初めて承認された。今年のクリスマス、桜山ホテルでは、ホワイトクリスマスをイメージしたホワイトアフタヌーンティーの他に、これまでに人気のあったメニューを中心としたクラシカルアフタヌーンティーが登場する。
 両方のラインに共通する特製菓子(スペシャリテ)は、バッキンガム宮殿のレシピを参考にした、ビッシュドノエルだ。こちらも涼音が出したアイデアをもとに、現在達也が配合(ルセット)の最終調整を行っている。
 広報課によれば、ツーラインというアイデアは、メディアからの反応も悪くないという。
 だが、そこに、一番きてほしい人の姿を見ることはないのだろう。
 涼音の唇から、重い息が漏れた。
 ひときわ強い風が吹き、江戸風鈴が一斉にからころと鳴り響く。我に返った涼音は、慌てて残りのサンドイッチを口に入れた。本当はもっとゆっくり味わいたのだが、そろそろラウンジに戻らなくてはならない。繁忙期を過ぎたとはいえ、現在、ラウンジは人手不足だ。
 この夏、涼音にとって、もう一つ残念な出来事があった。
 古株のサポーター社員呉彗怜(ウースイリン)が、突然辞めてしまったのだ。サポーター社員はパートタイムと同じ契約待遇なので、涼音たち正社員のように、退職の事前通知や引き継ぎの義務があるわけではない。ある日、いきなり辞めてしまうスタッフがいることも否定はできない。
 だが、常に冷静で的確な判断ができ、且つ、英語も中国語も堪能な優秀なベテランスタッフだった彗怜の不在は、ラウンジにとって大きな痛手だ。
 せめて一言、知らせてくれればよかったのに。
 涼音の胸を一抹の寂しさがよぎる。
 意見が対立することがあっても、涼音はいつも彗怜を頼もしく思っていた。合理的な彗怜の考え方は、独りよがりになりがちな自分にとって、勉強にも刺激にもなった。加えて彗怜は、涼音が独学で勉強している中国語の師でもあった。
 私は、友達だと思っていたのだけれど――。
 無論、涼音は彗怜の私生活をそれほど知っていたわけではない。上海出身の華僑の夫と、日本で生まれた女の子が一人いると聞いたことがあるくらいだ。
 きっと、なにか事情があったのだろう。
 ときに冷たく思えるほど論理的(ロジカル)な彗怜は、それを職場の自分たちに説明する必要はないと判断したに違いない。その事情が、彗怜にとってマイナス要素の強いものでなければいいと、涼音は単純に考えた。
 頃合いを見て、メールでも送ってみよう。彗怜とは、いつでも連絡が取れるのだから。
 そう思いつつも、時折、喪失感に苛まれそうになる。
 常連客だった京子に続き、いつも一緒に立ち働いていた彗怜までが去っていってしまうとは、涼音は思ってもみなかったのだ。
 人にはそれぞれ考え方や事情があるのだから、仕方がない。
 口に残ったサンドイッチをポットの紅茶で流し込むと、余韻に浸る暇もなく、ベンチから立ち上がる。降るような蝉時雨と、江戸風鈴の音色に後ろ髪を引かれながら、涼音はホテル棟に向かって歩き始めた。

最高のアフタヌーンティーの作り方

Synopsisあらすじ

老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?

Profile著者紹介

古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー