最高のアフタヌーンティーの作り方第二話 俺のアフタヌーンティー(6)
「お言葉ですが、アフタヌーンティーは、決して社交のものだけではないですよ」
にこやかに、けれど案外強い口調で涼音が茶髪の女性に問いかける。
「お客様は、アフタヌーンティー誕生の秘密をご存じでしょうか」
「......そんなの、知るわけないし」
茶髪の女性は不満そうにコーラルピンクの唇をゆがませた。
「それでは僭越ながら、私が簡単にご説明申し上げます。アフタヌーンティーの歴史を知っていただいたほうが、お客様にも一層楽しんでいただけるものと思います」
涼音が丁寧に頭を下げる。
興味を引かれたように、アフタヌーンティーの鉄人もスコーンにジャムを塗っていた手をとめた。
「イギリスのティータイムの中でも、最も優雅な時間とされるアフタヌーンティーですが、実はその誕生の裏には、意外なエピソードがあるのです」
涼音はあくまでも愛想よく、五人の女性の顔を見回した。
「ときは十九世紀、大英帝国最盛期のビクトリア時代。アフタヌーンティーは、一人の貴婦人の空腹から始まったんです」
その貴婦人とは、第七代ベッドフォード侯爵夫人、アンナ・マリア――。
いつしか達也までが、涼音の流暢な説明に聞き入っていた。
当時、イギリス貴族の食事は一日二回。朝食の後、夜の八時からスタートするディナーまで、なにも口にすることができなかったという。特に、一日中コルセットをつけていなければならなかった女性は、男性貴族のように気軽に間食することも許されなかった。
長い午後の時間を、多くの女性貴族たちは耐え難い空腹と共に過ごすしかなかったのだ。
「そこで、アンナ・マリアは考えました」
涼音が人差し指をぴんと立てる。
アンナ・マリアは人目を忍び、自分専用のベッドルームに紅茶とお菓子をこっそり持ち込んで、たった一人でティータイムを楽しむことにしたのだ。
コルセットを緩め、緊張から解放されながら、誰にも邪魔されずに紅茶と甘いお菓子を心ゆくまで堪能する。
「それは、彼女にとって、あまりに幸せな時間でした」
涼音の解説に熱がこもった。
やがて、アンナ・マリアはこの幸福を、親しい友人たちと分かち合いたいと考えるようになる。そこで、ごく親しい女友達だけを招いて、〝秘密のお茶会〟が催されることになった。
あくまで水面下ではあったけれど、ベッドルームの〝秘密のお茶会〟の評判は、瞬く間に女性貴族たちの間に広がった。
徐々にテーブルが増え、綺麗なクロスを敷いたり、お気に入りのティーポットやティーカップを並べたり、銀のカトラリーが使われたりと、お茶会は華やかさと豪華さを増していく。
そしてついに、場所もベッドルームからサロンへと移り、最後には英国の伝統的な社交の場へと発展していったのだった。
「このアンナ・マリアのベッドルームの〝秘密のお茶会〟こそが、アフタヌーンティーの始まりだと言われています」
涼音は朗らかに告げる。
「だから、アフタヌーンティーは、決して社交だけのものではありません。お一人でじっくり楽しんでいただくこともまた、アフタヌーンティーの本来の在り方なんです」
社会からの解放、社会生活を営む上での交友――。その両方が、アフタヌーンティーの神髄であるのだと、涼音は無理なく説明してみせた。
ふいに、控えめな拍手の音が響く。
ハッとして視線をやれば、ソロアフタヌーンティーの鉄人が穏やかな笑みをたたえて手を叩いていた。
「お騒がせして申し訳ございません」
慌てて頭を下げた涼音に、鉄人はゆっくりと首を横に振る。
「いえいえ、とても興味深いお話でした。それに......」
自分をまったく無視していた五人の女性たちを見回すようにして、鉄人が続けた。
「こういうのって、マインドフルネスとも言いますね」
マインドフルネス――。眼の前のことに集中して自らを解放する、最近流行りの瞑想法だ。
「余計なことはなにも考えずに、ひたすら美味しいものを満喫する......。私はここで、いつもとびきり贅沢な時間を過ごさせてもらっています」
同意を求めるように、鉄人がそっと眼鏡の女性に目配せする。だが眼鏡の女性は、じっとうつむいたまま、視線を上げようとはしなかった。
五人の女性はきまり悪そうに顔を見合わせている。ラウンジが、なんとなくしんとした。
「お客様、お席の用意ができました」
そこへ、なにくわぬ表情をした彗怜がやってきた。
「どうぞ、あちらへ」
彗怜が、鉄人の奥の窓側席を指し示す。
コーラルピンクの口紅を塗った茶髪の女性は、ちらりと鉄人に眼をやった。
ソロアフタヌーンティーの鉄人は、もう周囲に関心がない様子で、杏子ジャムの上にクロテッドクリームを載せたよもぎ入りのスコーンを食べている。
「私たち、やっぱり、あっちの席にいきまーす」
茶髪の女性が白けたような声をあげた。
「こんなとこより、あっちのほうが落ち着くかも」
「そうだよねー」
「アフタヌーンティーの歴史とか、マインドフルネスとか、うちらに関係ないし」
女性たちはぞろぞろと、最初に案内された入口の席に戻り始める。
「かしこまりました」
彗怜が恭しく頭を下げて、彼女たちの後についていった。
スコーンを食べ終えた鉄人は、すっかり自分の世界に入っているようで、目蓋を閉じて紅茶を味わっている。
そのとき、傍らの涼音が小さく息を呑む気配がした。
それまでずっと押し黙っていた眼鏡の女性が、涼音に伝票を差し出している。
「でも、西村さん。まだ、お料理がこんなに......」
引き留めようとする涼音に、眼鏡の女性が硬い表情で首を横に振った。
「お会計をお願いします」
眼鏡の女性の眼差しには、一刻も早くこの場を立ち去りたいという強い悲しみが滲んでいる。気圧されたように、涼音が伝票を受け取った。
テーブルには、食べかけのルバーブのタルトレットが、銀のスプーンが添えられたままの状態で放置されていた。達也の胸が、針で刺されたようにちくりと痛む。
急いで厨房に引き返すと、達也は日持ちのしそうなプティ・フールを見繕って、袋に詰めた。初夏のアフタヌーンティー用に試作した、マンゴーの果肉入りスコーンも追加する。
テイクアウト用の紙バッグにすべてを入れて、達也は再びラウンジに向かった。
ラウンジでは、丁度涼音が眼鏡の女性の会計を終えたところだった。
なにか言いたげな涼音に背を向けて、眼鏡の女性は足早にどんどん遠ざかっていく。
「遠山さん、これ」
レジの前で肩を落としている涼音に、達也はバッグを差し出した。
一瞬ですべてを呑み込んだように、涼音が眼を見張る。達也は大きく首を縦に振って、涼音を促した。
「さ、早く」
涼音に紙バッグを手渡した刹那、達也自身も悟る。
自分が一体誰のために、この仕事をしているのかを。
〝こんなに美味しいケーキは初めてだ!〟
かつての恩師、直治と共に被災地の避難所を回ったときに聞いた歓声が、鮮やかに甦る。
あのとき、老若男女が浮かべてくれた満面の笑みを見て、達也は製菓を一生の仕事にしようと心に決めたのだ。
効率、売上、名声。
当然、そういったことだって大切だ。
最高のアフタヌーンティー。
けれどそれは、自分が作るスイーツを、心から楽しんでくれる人たちのためにあるものだ。
〝私はここで、いつもとびきり贅沢な時間を過ごさせてもらっています〟
先刻の鉄人の言葉。
心底幸福そうにタルトレットを頬張っていた、眼鏡の女性の様子が脳裏に浮かぶ。
「クリスマスのツーライン、考えてもいいかも」
眼鏡の女性を追っていこうとする涼音の背中に、思わず声をかけていた。
「え?」
涼音が意外そうに振り返る。
今、伝えることかと、達也は我ながら呆れた。
だが、今でなければ駄目なのだ。
クリスマスシーズンを狙ってやってくる、大勢のゲストはもちろんのこと。
でも。
西村さんと言ったっけ――。
俺は、ソロアフタヌーンティーの鉄人やあなたのようなゲストのために〝最高のアフタヌーンティー〟を作りたい。
達也が言葉を尽くして説明すれば、朝子たち現場スタッフも、きっと賛同してくれるはずだ。
「常連向けだけだけど」
達也の言葉に、涼音がぱっと瞳を輝かせて頷いた。
紙バッグを手に、眼鏡の女性を懸命に追いかけていく涼音の背中を、達也はじっと見送った。
第三話「彼女たちのアフタヌーンティー」に続く
Synopsisあらすじ
老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?
Profile著者紹介
古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。
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