最高のアフタヌーンティーの作り方第三話 彼女たちのアフタヌーンティー(7)
「ごめん、ちょっと考えごとしてたから......」
「また、新しいプランのことでも考えてたの? リャンインは、本当にアフタヌーンティーが好きだよね」
からかうように覗き込まれ、涼音は少々緊張を覚える。
外資系ホテルのプランナーに就任した彗怜は、艶やかな黒髪を高く結い上げ、一層あか抜けて綺麗になっていた。
「好久没見了(久しぶり)」
前の席に腰を下ろし、彗怜が長い脚を組む。
「......好久没見了」
涼音もかろうじて答えた。
本当に、どういうつもりなんだろう――。
屈託のない笑みを浮かべている彗怜に、改めてそう思わずにはいられない。
先日、彗怜からメールが届いた。開いてみると、誕生祝いのメッセージカードだった。
〝転職したんだね〟
そう返信すると、すぐに新しいメールがきた。
〝知ってるんだ。じゃあ、もう、これも見ちゃった?〟
新着メールには、帰りの電車の中で読んだ、あのネットニュースのアドレスが添付されていた。
もちろん、彼女が企画したクリスマスプディングはイギリスの正統なデザートで、涼音の専売特許ではない。だから、この件で彗怜を責めるのはお門違いだということくらい、重々承知している。
でも、それならそれで、なにか事前に一言あってもよかったのではないだろうかと、涼音は今でも思っている。
こんなふうに、今になって、自分を呼び出すくらいなら。
それでも涼音は、「今度の休みに会いたい」「休みは自分が涼音に合わせる」と告げてきた彗怜を、無視することはできなかった。
「もう、なにか頼んだ?」
「まだだけど」
「それじゃ、偵察ついでに本日の特製菓子(スペシャリテ)でも注文しようよ」
涼しい顔でメニューを見ている彗怜の横顔を、涼音はそっと窺う。そこに、悪びれたものは微塵もない。
どこかで裏切られたような気分になっている自分のほうが、間違っているのだろうか。
スタッフを呼んでオーダーを済ますと、彗怜は正面から涼音を見た。
「リャンインは、私を怒ってるの?」
単刀直入に切り込まれ、涼音は返す言葉を失った。
途端に、彗怜が噴き出す。
「リャンインは正直者。私はリャンインのそういうところが好き」
ひとしきり笑った後、彗怜は表情を引き締めた。
「でも私は、なにも悪いことはしてない。リャンインのボツになった企画を、もっとシーンに合った場所に持っていって、プランを実現させただけ」
彗怜の言うことはもっともだ。火を灯して食べる少々刺激的なプディングは、外資系ホテルのラウンジのほうが客層に合っていると、彗怜は元々指摘していた。
「怒ってはいないよ」
正直者と笑われたついでに、涼音は率直な気持ちをぶつけることにする。
「ただ、事前に転職のことを教えてほしかった」
「なんで?」
ところが即座にそう返され、戸惑った。
「なんでって......」
「友達だから?」
曖昧に頷くと、彗怜はふっと冷めた笑みを漏らす。
「老好人(お人よし)......」
「え、なに?」
意味が分からず聞き返した涼音にかまわず、彗怜が続けた。
「私はリャンインが好きだよ。だから、アドバイスもしたし、中国語も教えた。でも、立場は違う」
「立場?」
「私、ずっと、桜山ホテルの正社員になりたくて、登用試験も何度も受けてた。でも、結局、サポーター社員のままだった」
淡々と告げられ、涼音は言葉を呑む。
初耳だ。
母語の中国語はもちろん、英語も日本語も流暢に操るトライリンガルの優秀な彗怜がサポーター社員でいるのは、小さな子供を持つ彼女自身が、残業のない勤務形態を選んでいるからだと思い込んでいた。
「香織(シャンチー)が産休を取ることになって、私は期待したよ。でも、シャンチーは、私を後任に推薦しなかった」
綺麗にエナメルを塗った指先が、涼音に突きつけられる。
「代わりにリャンイン、あなたがきた」
茫然とする涼音を前に、彗怜は肩をすくめた。
「シャンチーはいい社員。ちゃんと会社のこと、考えてる。元々正社員のリャンインを異動させるほうが、会社にとっては楽だものね。でも、きっと、それだけじゃない」
彗怜が、少し意地の悪い笑みを浮かべる。
「シャンチーは、私が怖かったんだ」
「怖かった?」
思わず聞き返せば、「そう」と深く頷かれた。
「リャンインに会って、一緒に働いてみて、それがよく分かった。だって、リャンインは老好人(ラオハオレン)だもの。絶対、シャンチーを出し抜いたりしないでしょ」
答えられない涼音の前で、彗怜は腕を組む。
「正社員はいいよね。産休もとれるし、育休もとれる。前のホテルでも契約社員だった私は、最初の子供を産んだとき、なかなか保育園が決まらなくて、結局契約解除されるしかなかったんだ。でも、正社員が手厚い保護を受けている間、その穴埋めをしているのは一体誰? 契約や派遣の非正規スタッフなんじゃないの? そういうことを抜きにして友達ごっこできるほど、私は好人(ハオレン)(いい人)じゃない」
注文したカフェオレとスペシャリテの柿のタルトが運ばれてきて、彗怜は一旦、言葉を切った。
柿のゼリーよせを載せたタルトは見た目にも美しかったが、涼音はそれを楽しむ気分にはなれなかった。
ラウンジは香織を中心に一つにまとまっていると、ずっと疑うことがなかった。誰よりも頼りになるサポーター社員の彗怜が、心にそんな思いを秘めていたなんて、想像もしていなかった。
だが、正社員である自分が、サポーター社員に頼るという事態こそが、そもそも間違っていたのではないだろうか。
彗怜が言うように、正社員とサポーター社員では、給与も、保険も、待遇も違うのだから。
「でもね、シャンチーは正しいよ。私が後任になったら、絶対、シャンチーを出し抜くもの」
タルトにフォークを差しながら、彗怜が続ける。
「だけど、それは当たり前のこと。シャンチーが休んで子育てしている間に、こちらは必死になって働くんだもの。立場が変わるのは当たり前」
きっぱりと告げてから、彗怜はタルトを口に運んだ。
「あ、面白い、食感。これ干し柿なんだ」
彗怜の呟きに、涼音もフォークを手に取る。一口食べてみたが、残念ながらあまり味がしなかった。
「リャンインは随分頑張ってアフタヌーンティーの開発をしてるけど、来年、シャンチーが戻ってきたら、あっさりその立場を受け渡すつもり?」
タルトをもそもそと食べていると、再び彗怜が問いかけてきた。
〝今回、私は思い知ってしまったの。会社から一歩外に出ると、私はただの〝高齢出産者〟なんだって――〟
香織の呟きが甦り、涼音はどう答えてよいのか分からなくなる。
産休中の香織も、決して楽なことばかりではないようだった。香織は香織で、悩み苦しんでいる。
けれど、香織が戻ってきたら、また一緒に楽しく働こうと単純に考えていた自分が、急に幼稚に思えてきた。
重ねてきた努力を認めて、香織は自分を後任に抜擢してくれたのだと、ずっと信じていた。
でも、それだけではなかったのかもしれない。
優秀で野心家の彗怜ではなく、自分を後任に選んだのは、香織自身の保身のためでもあったのかも分からない。
涼音の心が重く沈んだ。
「無理に答えなくていいよ。それはリャンイン自身の問題だから」
タルトを咀嚼しながら、彗怜があっさりと首を振る。
もう、それは、自分とは関係のないことだと考えているようだった。彗怜はどこまでも冷静で論理的だ。
「それと、リャンイン、余計なお世話かもしれないけど......」
タルトを食べ終えた彗怜が、紙ナプキンで唇をぬぐう。
「飛鳥井さんがDXなこと、公にしないほうがいいと思う」
思いがけない言葉に、涼音ははじかれたように顔を上げた。
「知ってたの?」
「この前、二人が話してるのを偶然聞いちゃったんだ」
パントリーでのあのやり取りを、バックヤードから出てきた彗怜に聞かれていたらしい。
「差別はね、あるよ」
彗怜がじっと涼音を見つめた。
「皆が皆、リャンインみたいに老好人(ラオハオレン)なわけじゃない。自分の身近な場所に差別がないと思っているのは、これまで誰にも差別を受けたことがない、びっくりするほど心が健康な人だけだよ」
ずっと理詰めで話してきた彗怜の口調が、ふいに暗く揺れる。
「うちの子はね......。幼稚園で中国語を喋っただけで、友達どころか、先生からまで仲間外れにされたことがある」
ほんの一瞬浮かんだつらそうな表情に、涼音はハッと胸を衝かれた。
こんなに優秀な彗怜がこれまで正社員になれなかった理由は、その国籍とも関係があるのだろうか。
「私は日本語も英語も喋れて優秀だって、皆が褒めてくれる。でもね、その気になって、皆と同じ場所に立とうとすると、〝それは違う〟って、いきなりシャッター下ろされちゃうようなこと、これまでも一杯経験してきた」
淡々とした口調だったが、そこには異郷に生きる人の悔しさが滲んでいた。
「でも、だからこそ、どこの世界でも多様性(ダイバーシティ)なんていう口号(スローガン)が流行するんだよ」
彗怜は口角をきゅっと引き上げる。
沈鬱な面差しは幻のように消え、もう強(したた)かな呉彗怜に戻っていた。
「私はそれに乗っかって、転職したわけだけどね。外資は年俸制だから、日本企業みたいに保障は厚くないけど、能力次第で賃金は上がるから、今は満足してる」
カフェオレを飲み干し、彗怜は真っ直ぐに涼音を見据える。
「老好人もいいけど、リャンインも、自分の努力を誰かに利用されないようにね。正当な報酬を得られない努力はしては駄目。それは、リャンインにとっても、他の人たちにとっても、結局、よい結果にはならないんだよ」
その眼差しには、強い意志が滲んでいた。
「今日は私のおごり。クリスマスプディングのアイデアをもらったお礼。私はこれでやっと、リャンインを本当に友達だと思うことができるようになった。リャンインが私を嫌いになっても仕方がないけど、私がリャンインを好きなことに変わりはない」
涼音の答えを待たずに、彗怜は伝票を手に立ち上がる。
「それだけは伝えておこうと思ったの」
言うなり、彗怜はさっさと会計に向かっていった。
ラウンジでいつも見ていた背筋の通った後ろ姿を、涼音はただ黙って見送ることしかできなかった。
Synopsisあらすじ
老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?
Profile著者紹介
古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。
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