最高のアフタヌーンティーの作り方第四話 彼たちのアフタヌーンティー(7)

 その晩、達也は一人でラウンジの厨房に残り、来週から始まるイヤーエンドアフタヌーンティーの素材をチェックしていた。
 段ボールに積まれた山もりの柚子が、爽やかな香りを漂わせている。
 そのうちの一つを、達也は手に取ってみた。ひんやりとした柚子には、ずっしりと重みがある。しっかり中身が詰まっている証拠だ。
 達也は結局、高知産の柚子を選んだ。高知県馬路村(うまじむら)は、昔から良質な柚子の産地として知られている。へたの切り口はまだ青く、瑞々しい芳香が鼻腔をくすぐった。
 柚子は捨てるところがない。皮はもちろん、搾りかすや種からも、上質の水溶性食物繊維(ペクチン)が取れる。このペクチンは、コンフィチュールを作るときに再利用する。
「タツヤ!」
 ふいに呼びかけられ、達也は振り返った。
 ラウンジの入り口から、ブノワ・ゴーランが顔をのぞかせていた。
「メイ アイ カム イン(おじゃましてもいいかな)?」
「シュアー(もちろん)!」
 丸椅子に座っていた達也は、立ち上がって腕を広げた。
 ゴーランは、ホテル棟のアンバサダースイートに滞在している。ラウンジの厨房にまだ明かりがついているのを見つけて、入ってきたのだろう。
 元々、ゴーランの部屋に、来週から使う柚子を届けるつもりでいた。良いついでなので、今見てもらおうと、達也はゴーランを招いた。
「いい柚子だねぇ」
 達也が差し出した柚子に、ゴーランが満足そうな笑みを浮かべる。
「僕は日本のフルーツの中で、柚子が一番好きだよ」
 今回、イヤーエンドアフタヌーンティーのコラボメニューとして、ゴーランは柚子のコンフィチュールとマカロンを作ることが決まっている。
 達也から手渡された柚子の香りをかぎながら、ゴーランは、現在、抹茶に続いて柚子がヨーロッパのスイーツ界に旋風を巻き起こしつつあることをひとしきり話してくれた。
「柚子は日本のフルーツの中で、一番、ナチュラルなものだと僕は感じる。本来、フルーツはこれくらい不揃いなものだよ」
 段ボールに積まれた大小の柚子を、ゴーランが指し示す。
「でも、日本の百貨店やスーパーで売っているフルーツは、なんであんなに粒や形がそろっているんだろう」
 ゴーランは微かに眉根を寄せた。
「きっちりと形のそろった、傷一つないフルーツがパッキングされているのを見ると、僕にはそれがナチュラルなものではなく、工場で作られた製品(プロダクト)のように見えてしまう」
 成程――。
 達也は頷いて、段ボールに積まれた不揃いな柚子を見やる。
 それが市場のニーズだからかもしれないが、日本の売り場の果物や野菜は、とにかく形や大きさが綺麗にそろっているものが多い。よくよく考えてみれば、確かに不自然だ。
「若い頃、僕は日本の田舎町(カントリーサイド)に滞在していたことがあってね」
 そう言えば、そんなプロフィールを読んだ覚えがあった。
「どちらにいらしたんですか」
「イバラキだよ」
 ゴーランの返事に達也は驚く。
「僕は茨城の出身ですよ」
 達也の言葉に、「オウ!」とゴーランも眼を丸くした。
 茨城と言っても達也の実家からは離れていたが、二十代の頃、ゴーランは知人のつてで常陸太田(ひたちおおた)の葡萄農園内のカフェで働いていたことがあるそうだ。
 そこでゴーランが一番驚いたのは、形が悪かったり、少しでも傷ついていたりする葡萄は、ほとんど売り物にならずに捨てられてしまうことだった。
 味は変わらないのに、信じられないことだとゴーランは首を横に振った。
「それに、日本のフルーツは、びっくりするほど糖度が高い。あんまり糖度の高いフルーツは、スイーツの加工には向かないと僕は考える」
 たとえば、と、ゴーランは続ける。
「日本のチェリー......サトウニシキは、そのままで食べるのが一番美味しい。あんなに糖度の高いチェリーは世界でも珍しい」
 達也は「ええ」と頷いた。
 対して、酸味の強いフランスのグリオットチェリーは生食には向かない。だから、コンフィチュールにしたり、コンポートにしたりして食べるのだ。
「杏子でも、林檎でも、日本のフルーツは糖度が高すぎて、フルーツ本来の酸味や渋味が感じられない。そのまま食べるには、とても美味しいけれどね」
 ゴーランの話を聞きながら、「だから柚子なのか」と、達也は納得した。 
 酸っぱすぎる杏子や林檎は、農業の発展と共に、日本ではほぼほぼ淘汰されてしまっている。昔ながらの味わいを残しているのは、薬味や加工に使われることが多い柚子くらいだ。
「タツヤ」
 ゴーランが改まったように達也を見た。
「僕は、プロヴァンスに果樹園つきのパティスリーを持っている。そこでは、そのまま食べたら口が曲がるほど酸っぱい杏子や、苦いくらい渋い葡萄が、季節ごとにどっさり実をつけるんだ」
 温暖な気候の南仏の広大な農園。そこで獲れる果物やハーブでフランス菓子を作っているパティスリーの様子を、達也は思い描いた。
 不揃いの杏子を大きな鍋で砂糖と煮つめて、コンフィチュールを作る。葡萄を枝ごと天日に干して、ドライフルーツを作る――。
 地産地消。昔ながらの田舎町のパティスリー。
 そこで働くことは、きっと、西洋菓子を作るパティシエにとって、欧州の食文化を学ぶ貴重な財産になるだろう。
「いってみたいな......」
 気づくと、自然に言葉が零れ落ちていた。
「歓迎するよ」
 すかさず帰ってきた言葉に、達也はハッと眼を見張る。
「既に日本の老舗ホテルのシェフ・パティシエになっている君にこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、君はまだ若い。いくらでも経験を積める年齢だ。それに、もしDXだということで、なにかをあきらめているなら、そんな必要はまったくない」
 さらりと放たれた言葉に、達也ははじかれたようにゴーランを見返した。
「どうして、それを......」
「七年前のパリの製菓コンクールで、君を見た」
「ああ」
 達也の唇から、うめくような声が出た。
 コンクールのプロフィールに勝手にDXであることを明記され、火がついたような勢いで広報に抗議をした当時の記憶が甦る。
「オウザンホテルからインビテーションをもらい、シェフ・パティシエの名前のリストを見たとき、すぐに分かった。タツヤ・アスカイ。僕は、君を覚えている」
 ゴーランが、正面から達也を見た。
「あのコンクールは、工芸技術だけじゃなく、味覚の部門もあっただろう。そこで君の作品に高得点をつけたのは、この僕だ」
 当時の記憶がみるみるうちに押し寄せてくる。
 初めてのパリ。初めての国際コンクール。
 胸を躍らせて臨んだのに、現地の記者たちからDXについてばかり質問され、耐え切れずにプレスルームを飛び出した。表でタクシーを拾おうとしたものの、どうすればよいのか分からなかった。標識や看板のローマ字が、うねうねと動いて見えた。
 中国系アメリカ人のシェフ・パティシエに引率されてやってきた自分は、一人ではタクシーも乗れないのだと思い知らされた。
 たった数日間滞在したパリで、自分は心を閉ざし続け、なにも吸収することができなかった。
 あのときの審査員ブースに、ブノワ・ゴーランがいたのか。
「カシスとアニスのムースを使ったアントルメだったね。カシスリキュールがよく効いていて、実に美味かった」
 ゴーランの言葉が、達也の胸を深く打つ。
 悔しさしか覚えなかった彼の地で、あの日の自分を覚えていてくれた人がいた。DXのパティシエとしてではなく、あのとき自分が作ったアントルメの味を、評価してくれた人がいた。
〝こんなに美味しいケーキは初めてだ!〟 
 かつての恩師、直治と共に被災地の避難所を回ったときに聞いた声が、達也に製菓を一生の仕事にしようと決心させた。
 だけど、そのためにも、やり残したことがあるように思えて仕方がなかったのは、自分が西洋菓子の本場であるヨーロッパの厨房と、その背後にある食文化に直接触れたことがなかったせいだ。
「タツヤ、考えてもごらんよ」
 ゴーランが少しいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「まったく漢字(チャイニーズキャラクター)を読めない僕は、この国ではDXと一緒だ。だからと言って、茨城の観光農園のカフェでコンフィチュールやソルベを作っていたとき、大きな不便を感じたことはなかったよ。スタッフにはあらかじめ説明しておくし、君の語学力なら、厨房ではなんの不自由もないはずだ。僕も母語は英語だから、少々ぎこちないフランス語でも、スタッフは分かってくれるはずだし」
 歓迎すると言ったのは、決してただの社交辞令ではないようだった。
「日本人パティシエの正確で繊細な手仕事を、現地スタッフにも少し学んでほしいと思ってたところなんだ。日本の市場は、僕にとっても大きなマーケットだからね」
 正直なところを告げて、ゴーランは達也の肩を叩く。
「このホテルのシェフ・パティシエ並みの賃金を払えるかどうかは保証できないけれど、もし、休職制度があるなら、そういうことも含めて選択肢の一つに入れてもらえたら嬉しいよ。もちろん、返事は今すぐじゃなくていい。でも、君に少しでもその気があるなら、ゆっくり考えてみてはくれないか」
 柚子を片手に、ゴーランは軽やかに手を振った。
「お休み(ボンニュイ)、タツヤ。来週からの仕事、楽しみにしてるよ」
 踵を返して去っていく長身の後ろ姿を、達也はぼんやりと見送る。あまりに突然に色々な情報が降ってきて、すぐに心を整理することができそうになかった。
 一つ息を吐くと、思いのほか大きな音で響き渡る。
 とりあえず、そろそろ帰ろう。
 今はなにも考えられない。ゴーランが言ったことは、追々検討していけばいいだろう。
 柚子の段ボールをシンクの下に押し込み、達也はバックヤードへ足を向けた。
 半開きになっているバックヤードの扉を勢いよくあける。誰もいないと思っていたその場所に、幽霊のような人影が佇んでいることに気づき、達也はもう少しで大声を出しそうになった。

最高のアフタヌーンティーの作り方

Synopsisあらすじ

老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?

Profile著者紹介

古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。

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