最高のアフタヌーンティーの作り方第四話 彼たちのアフタヌーンティー(1)
しっとりとしたローストビーフに、茹でても噛み応えのあるメークイン。
甘みと酸味が絶妙なザワークラフトには、クミンのアクセント。
セイボリーの残り物を使ったサンドイッチとはいえ、秀夫の賄いは常に一味違う。
ローストビーフの表面に塗られているのは、マディラソースだろうか。
スー・シェフの朝子から追い立てられるようにして遅い昼休憩に入った達也は、賄いのサンドイッチのライ麦パンを少しめくってみる。
ローストビーフの表面からは、やはりマディラ酒の香りがした。マディラ酒は、モロッコの沖合にあるポルトガル領マディラ島産の甘口ワインだ。
牛筋を煮詰めたフォンドボーとマディラ酒を合わせたマディラソースは、フランスの肉料理には欠かせない。見方を変えれば、マディラソースを使うことで、シンプルな料理でもすぐに華やかなフレンチ風になる。
コーヒーを一口飲み、達也は椅子の上で軽く伸びをした。既に三時を過ぎているせいか、バックヤードには誰もいない。人気(ひとけ)のないバックヤードの静けさが、達也は嫌いではなかった。
サンドイッチを咀嚼しながら、再びぼんやりと思いにふける。
最近達也は、高級路線にせよ、ファミリー向けの少し手軽な路線にせよ、美味しさの決め手は「後味」にあるのではないかと考え始めていた。言葉で表すなら、美味しかったという「余韻」と、もっと食べたいという「持続性」。
そのために大切なのは、良い食材を選ぶことにつきる。どれだけ調理の技術を駆使したとしても、畢竟、料理は食材でできている。
こう言ってしまうと身も蓋もないかもしれないが、その次に有効な手段があるとすれば、恐らくそれは酒を効果的に使うことだろう。
これは調理にも製菓にも共通するセオリーではないかと、達也は考えていた。特に洋酒のほろ苦さと強い香りは、深くて長い余韻を生む。
その点、桜山ホテルの厨房の洋酒類は豊富で贅沢だった。さすがは老舗ホテルの厨房の棚といったところか。
このところ、達也はドライフルーツと洋酒を組み合わせたアントルメ(ケーキ)作りに凝っている。もう少しすると始まるクリスマスシーズンのアフタヌーンティーでも、良質なラムでふっくらと炊いた三種類のレーズンを使用した、芳醇な風味のシュトーレンを作るつもりだ。
クリスマス、か――。
十一月に入ってから、ホテル棟とバンケット棟、両方のロビーに豪奢なクリスマスツリーが飾られているが、気温の高い日が続き、一向に冬らしくならない。
温暖化のせいで、日本の四季も相当曖昧になっている。
四季折々の美しさが楽しめるように、桜山ホテルの日本庭園にはイロハモミジやハウチワカエデなど紅葉の美しい木々がたくさん植えられているのだが、ラウンジの大きな窓越しに見える木立は未だにほとんど色づいていなかった。これでは、オータムアフタヌーンティーも味気なく感じられてしまうのではないかと、少々心配になるほどだ。
サンドイッチを食べ終えた達也は紙ナプキンで指をぬぐい、ロッカーから持ってきた全体会議の資料と、報告書のファイルを手に取った。
今月の中旬から、ラウンジではクリスマスアフタヌーンティーの提供がスタートする。現在育児休暇中のベテランスタッフ、園田香織の後任として、バンケット棟からホテル棟のラウンジに異動してきた遠山涼音の発案により、今年、桜山ホテルでは、初めてツーラインのアフタヌーンティーが登場する運びとなっていた。
一つは、雪をテーマにしたホワイトアフタヌーンティー。
もう一つは、これまで人気のあったメニューが再登場するクラシカルアフタヌーンティーだ。
再登場メニューに関しては、常連客によるアンケートと口コミサイトの評判を涼音が精査したデータをもとに、調理班の達也と秀夫で最終調整を行い決定した。
本来、クラシカルアフタヌーンティーは、常連向けのサービスを念頭に置いていたのだが、 雪どころか、冬らしさもない天候も関係しているのか、一見のゲストからも予想以上の予約が入っているそうだ。
当初達也は、繁忙期にツーラインを回すことになる調理班の現場スタッフの負担が気になっていた。けれど、スー・シェフの朝子などは、却ってこの企画を歓迎してくれた。毎シーズンごとに使い捨てられていくメニューを考案するより、桜山ホテル名物の桜スコーンやヨモギスコーンのように、プティフールにも定着できるメニューが今後増えるのではないかというのが、その理由だ。
自分が発案した和三盆糖を使用した米粉のガトーが復活することを、朝子は心から喜んでいた。
否定から入るより、まずは現場の意見をきちんと聞いてみるべきだったのかもしれないな......。
〝妙な爪痕を残そうとするな〟と、新任の涼音を厳しい言葉で牽制してしまったことを、達也は今では少なからず反省していた。最初こそ、無駄に張り切ってばかりいるように感じられたが、遠山涼音には本当に企画力がある。
桜山ホテル名物の桜アフタヌーンティーに、なにかもう一つ、特色のあるメニューを加えられないか――。
調理班の達也と秀夫が持ち掛けた難しいお題にも、涼音は見事に応えてくれた。
来年の春、桜アフタヌーンティーには、ちょっとした〝仕掛け〟メニューが入る予定だ。
こうしたアイディアが出てくるのも、彼女が本当にアフタヌーンティーを好きで、また、ラウンジのゲストをよく観察しているからだろう。
社内の接客コンテストで優勝したこともある涼音は、洞察力に長けている。
ひた隠しにしている達也の〝負荷〟も、あっさりと見抜いたほどだ。
あれには、正直、参ったけどな......。
達也は口元に、苦い笑みがのぼる。
自分は、懐に踏み込むのも、踏み込まれるのも、どうにも苦手だ。
達也自身が、己の抱えている〝負荷〟を、周囲に打ち明けていないせいもあるだろう。しかし、それを正直に共有することで、損なわれるものがあったのもまた、動かしがたい事実なのだ。
グレーゾーン。
かつて友人だと思っていた同僚にぶつけられた言葉が甦り、胸の奥に鈍い痛みが走る。
もう、あんな思いはしたくない。
過度な同調も、協調も必要ない。
幸い桜山ホテルは経営母体が旧財閥の流れをくむ観光会社のせいか、正社員にさえなれば保障は手厚く、人事考課もそれほど厳しくはない。年俸制の外資系ホテルに比べれば、職場環境は穏やかで安定している。
分業制で淡々と仕事をこなす〝ホテルスタッフ〟が多いこの職場を、だから達也は気に入っていた。
でも――。
最近、達也は時折、妙な衝動を覚えることがある。その衝動の正体は、自分でも判然とはしない。否、突き詰めて考えることを、無意識のうちに避けているのかも分からない。
しかし、本当にこのままでいいのか。
自問している自分に気づき、達也は我知らず眉を顰める。
桜山ホテルに招かれ、シェフ・パティシエを務めるようになってから、そろそろ五年が過ぎようとしている。ひょっとすると自分は、ここでの穏やかな環境に慣れ過ぎているのかもしれなかった。
いいじゃないか。別に不満はないのだから。
それに、学ぶべきことはまだたくさんあるはずだ。
胸の奥底で燻るわだかまりを振り払うように、達也は全体会議の資料に眼を移す。
桜山ホテルでは、年末年始の特別イベントとして、バンケット棟のレストランに、マンハッタンでミシュランの二つ星を獲得したフレンチの名店のオーナーシェフ、ブノワ・ゴーランを招聘することになっていた。フランス系アメリカ人のゴーランは、南仏に果樹園を併設したパティスリーを持つパティシエでもある。
翻訳されたプロフィールを読むと、若い頃、日本に長期滞在していたこともある、かなりの親日派らしかった。イベント期間中は、ラウンジのアフタヌーンティーでもコラボメニューを出すのだが、ゴーランが事前に指定してきた素材は日本の代表的な柑橘である「柚子」だった。
その他のコラボ企画として、バンケット棟のレストランのシェフ・パティシエと共に、達也はクロカンブッシュの制作に参加することも決まっている。
クロカンブッシュは、小さなシューを高く積み上げ、飴などの糖衣で固めた飾り菓子だ。日本ではフランスのウエディングケーキとして知られているが、実際には洗礼式や誕生日など、様々な祝い事に頻繁に登場する。
飴細工(ピエスモンテ)の国際コンクールで競い合うのも、大抵はこのクロカンブッシュだ。日持ちがする上、ヌガーや砂糖菓子を用いた装飾のバリエーションが豊富なため、各国のパティシエたちが製菓技術を披露するのに、もってこいの題材なのだ。
特別イベントの期間中、バンケット棟のレストランホールに、ゴーラン氏制作のものを中心にした三つのクロカンブッシュが並べられ、来客たちの眼を楽しませるという趣向だった。
イベント期間の終了時には、それぞれのパティシエが木槌で自作のクロカンブッシュを割り、来場者にプレゼントするという催しも企画されている。
やれやれだな......。
純白のパティシエコートに身を包み、木槌を手に愛想笑いを浮かべている自分を思い浮かべ、達也は一つ息を吐く。
ラウンジだって、忙しい時期なのに。
もっとも、イベントの主役は来日するゴーラン氏だ。自分は粛々とホスト側のパティシエの役割を務めるだけだ。それに、ブノワ・ゴーランのピエスモンテの技を間近に見られる恰好のチャンスでもある。
〝共にピエスモンテの国際コンクールに出よう〟
外資系ホテル勤務時代、そう励まし合っていた同僚の顔が浮かび、再び胸の奥がちくりと疼いた。
あの頃は、自分がその相手から「グレーゾーン」と陰口をたたかれるようになるとは、思ってもみなかった。
いい加減忘れよう。
達也はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干す。
今のところ、自分の「グレーゾーン」が業務に大きな支障をきたしたことはない。それなのに、なぜこうも吹っ切れないのだろう。言った相手だって、もうとっくに忘れているはずだ。
次に報告書のファイルを開き、達也は思わずぎょっとする。
突如、びっしりと小さな幾何学模様が組み合わさったようなものが眼の前に現れ、もう少しでファイルを取り落としそうになった。
息を整え、もう一度そのページを見直す。
自分の脳は相変わらずそれを文字とは認識してくれないが、そのページが英文であることだけはかろうじて理解できた。どうやら朝子が気を利かせて、ゴーラン氏に関する英文資料を挟み込んでくれていたらしい。
達也の場合、難読が顕著に表れるのがローマ字の綴りに限定されているため、随分長い間、識字障害(ディスレクシア)があることは、家族や周囲の人たちはもちろん、自身にも分からなかった。
学校では単に英語の授業を怠けているだけだと判断されていた。
町場のパティスリーで働いていたときなど、簡単なフランス語のメモが読めなくて、悪筆に難癖をつけられているのだと思い込んだオーナーシェフから「ふざけるな」といきなり頭を殴られたこともあった。
今なら、パワハラ案件だよな......。
薄く笑い、達也はファイルを閉じる。
後で朝子にそれとなく確認して、資料がネット検索できるなら、音読機能を使って読んでおこうと算段する。
腕時計を見ると、休憩時間はまだ少し残っていた。
あまり早くラウンジに戻ると、また朝子から苦言を呈されてしまうかもしれない。シェフ・パティシエがしっかり休まなければ、現場スタッフも休めないというのが朝子の主張だ。
スー・シェフの朝子は優秀だ。現場もよく見ているし、達也が気づかないところまで、きっちりとケアしてくれる。
それなのに、英文資料に関しては、余計なことをされたという思いをぬぐい切れないことに、達也は自分でもあきれた。
さすがに狭量が過ぎている。
本当は、もう少し彼女と意思疎通を図るべきなのだろうと、自分でも分かってはいるのだ。
しかし、そのためには......。
そこから先を考えるのが嫌で、達也はファイルをテーブルに伏せた。代わりに、マガジンラックの女性ファッション誌に手を伸ばす。
モード系女性ファッション誌の第二特集は、ホテルのクリスマスアフタヌーンティー紹介だ。
自分の代わりに、今回は朝子に登場してもらった。
〝今年の桜山ホテルのクリスマスシーズンはツーライン〟という見出しの下、きつね色に揚げたクリスピーライスを飾った米粉のガトーを前にした朝子が柔らかな笑みを浮かべている。
他のホテルのメニューにも興味を惹かれ、ぱらぱらとページをめくっていくうちに、もう一人、見知った顔が眼に入り、達也は手をとめた。
一重の切れ長の眼に、シャープな輪郭のアジア系美人(アジアンビューティー)。
シャーリー・ウー。
プロフィールの名前は英語風になっているが、写真に写っているのは、つい最近まで桜山ホテルのラウンジにいた呉彗怜(ウースイリン)だ。
しかも、新任プランナーである彼女の発案として紹介されているメニューは、火を灯して食べる英国のクリスマスプディングだった。
これって、確か......。
達也は小さく眼を見張る。
〝これはアフタヌーンティー発祥のイギリスの正当なクリスマスデザートで、リキュールをたっぷりかけたプディングに火を灯して燃え上がらせるのが......〟
頭の中に、初めてのプレゼンに張り切る涼音の声が響いた。
Synopsisあらすじ
老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?
Profile著者紹介
古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。
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