最高のアフタヌーンティーの作り方第二話 俺のアフタヌーンティー(1)

 アントルメ(ケーキ類)を作る厨房は、常に十五度以下に保たれている。
 ひんやりとした空気の中、十名ほどのスタッフが黙々と各自の仕事に取り組んでいた。
 真っ白なパティシエコートに身を包んだ飛鳥井達也(あすかいたつや)は、ゆっくりと厨房内を一巡りし、それぞれの工程に、遅れや問題が出ていないことを確認した。
 達也が桜山(おうざん)ホテルのアフタヌーンティーチーム・スイーツ担当のチーフ、シェフ・パティシエになってから三年が経つ。
 達也が初めて就職した町場の小さな製菓店(パティスリー)では、オーナーシェフに怒鳴られながら、弟子たちがすべての下準備を担当したが、中規模以上の店やホテルの厨房では、大抵、分業制がとられている。もちろん、桜山ホテルも例外ではない。
 スポンジやパイなどの生地作りを担当する、トゥリエ。
 トゥリエが仕込んだ生地を焼き上げる、オーブン担当のフルニエ。
 フルニエが焼き上げた土台に、クリームやフルーツなどでデコレーションを施し、仕上げを担当するアントルメンティエ。
 キャラメル、ヌガー、コンフィチュールなどの砂糖が主原料となる菓子を担当する、コンフィズール。
 アイスクリーム(グラス)やソルベ等の氷菓子を担当する、グラシエ。
 桜山ホテルの分業はここまでだが、中にはチョコレート菓子を担当するショコラティエや、デニッシュやブリオッシュ等のパン作りを担当するヴィエノワズリーなどの、本格的な専門職を置いている店やホテルもある。
 聞きなれない名称は、すべてフランス語だ。
 パティシエは、作業のほとんどの工程でフランス語を使う。
 たとえば、「切る」なら「アシェ」、「裏ごし」は「パッセ」、生地にシロップや洋酒をしみこませるのは「アンビバージュ」または「アンビベ」――。
 こうしたことは調理学校でも一通り教わるが、実際に厨房で繰り返し聞いているうちに、あっという間に耳と身体が覚えていく。ここで必要とされるのは、別段語学力ではない。
 日本語や、ときには英語も交え、分離はセパレートから「セパる」、アンビバージュも「アンビベする」等、和製英語や和製仏語が罷り通る。ちなみに、スポンジ生地のことは、ジェノワーズを略して「ジェノワ」と呼ぶ。
 そうかと思えば、日本語の伝統的な呼称も残っていて、カスタードクリームやシロップは、作るや仕込むではなく「炊く」、生地に液体をしみこませる「アンビベ」も、もう一つの言い方では「打つ」とするのが一般的だ。
 要するに、厨房で使用されているのは外国語ではなく、昔ながらの菓子職人の専門用語ということになる。
 町場のパティスリーでは、下働きの最中に、シェフや先輩の手技を盗み見しつつ、一通りケーキの作り方を覚えていく。昔は一つの店では一つのパートしか担当できず、すべての工程を経験するためには、店を転々と移りながら修業しなければならなかったと聞いた。
 現在、分業制がとられた職場では、大抵、何年かごとにローテーションが組まれ、すべてのスタッフが全工程を経験できるようになっている。ところが、桜山ホテルにきて、若いスタッフの中にはそれを望まないものがいることを、達也は初めて知った。
 アフタヌーンティーチームのラウンジスタッフがほとんどサポーター社員と呼ばれる契約社員なのに比べ、調理スタッフの多くは桜山ホテルの社員だ。財閥系の観光会社を母体に持つ桜山ホテルは、給与体制も福利厚生も比較的しっかりとしている。町場のパティスリーで早朝から深夜までこき使われていた達也からすれば信じられない話だが、勤務時間も一日八時間と決められていて、超過の場合は残業手当もつく。個人経営の店で働いたことのない若いスタッフは、それを当たり前だと思っている節がある。
 まあ、俺が以前いた店がブラックすぎたのかもしれないけれど......。 
 達也は薄く苦笑する。
 もっとも、個人オーナーのパティスリーの環境は、どこも似たり寄ったりだ。別段それを不当に感じることもなかった。
 達也が調理学校を出たばかりの頃は、とにかく新しい技術を覚えたくて、ただでさえ忙しいのに、寝る暇も惜しんでオーナーや先輩たちの試作を手伝った。いち早くケーキ作りのすべての工程を習得し、シェフとして独り立ちしたかったからだ。 
 だが、ライフワークバランスを重視する二十代のスタッフの中には、慣れない工程で残業や苦労を強いられるくらいなら、毎日八時間、ひたすらに生地をこねることを選ぶものもいるようだった。菓子職人の意識より、ホテル勤務の会社員としての意識のほうが強いのだろう。
 それが良いことなのか悪いことなのかは、達也には分からない。
 今のスタッフたちは勤務態度はまじめだし、生地をこねる単純作業も製菓の大事な工程であり、重労働であることに変わりはない。
 少なくとも、直前に自分がいた外資系ホテルの厨房の雰囲気に比べれば――。
 思い出したくない記憶が甦りそうになり、達也は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
 やめよう。今更、そんなこと。
 達也は小さく首を横に振る。
 桜山ホテルのシェフ・パティシエに迎え入れられたのは、半ば偶然のようなものだったが、自分は現在の環境に満足している。ホテル勤務しか知らない若いスタッフたちからは時折肩透かしを食らうこともあるけれど、サブ・チーフであるスー・シェフはしっかり者だし、なにより、ホテルアフタヌーンティーの老舗でもある桜山ホテルには、スコーンや焼き菓子の伝統的な配合(ルセット)に、学ぶ点が多くあった。
「シェフ」
 スー・シェフが、見本用に盛りつけたスイーツの皿を持ってくる。
「チェックをお願いします」
 皿を差し出すスー・シェフ、山崎朝子(やまさきあさこ)は、アフタヌーンティーチーム在籍十年になる女性パティシエ(パティシエール)だ。一見女性的に思われる製菓の仕事は、実際には一日中立ちっぱなしで生地をこねたり、オーブンから重たい鉄板を取り出したり、何キロもの小麦粉や砂糖の袋を担いだりする、相当の体力が必要となる重労働だ。そのため、一昔前はほとんどの菓子職人が男性だった。
 しかし最近では、朝子のようなパティシエールの台頭が目覚ましい。単純作業をよしとするのは男性スタッフばかりで、女性スタッフは全ての工程に積極的で貪欲だ。達也が率いるアフタヌーンティーチームのスタッフの半分も、三十前後の女性たちだった。
 彼女たち曰く、製菓の仕事は重いものを持ったりする重労働以上に、常に低温に保たれている厨房の〝冷え〟がつらいらしい。朝子も、下半身に二重にエプロンを巻き付けていた。
 達也は差し出された皿を受け取った。
 ゴールデンウイーク明けの今日から、名物の桜アフタヌーンティーに代わり、新緑をイメージしたグリーンアフタヌーンティーが始まる。
 柑橘系の爽やかな香りを持つハーブ、ヴェルヴェーヌとレモン(シトロン)のジュレ。
 フレッシュな杏子と、抹茶クリームのガトー。
 ライムとスピルリナのグリーンマカロン......。
 初夏の旬の素材をふんだんに使った、見た目にも爽やかなプティ・フールが美しく並んでいる。
 今回、達也が特に力を入れた特製菓子(スペシャリテ)は、信州産のルバーブを使ったクレームブリュレのタルトレットだ。ルバーブは蕗と同じく葉柄(ようへい)を食用とする野菜だが、さっぱりとした果実のような酸味を持ち、ヨーロッパではコンポートやジャムなどの菓子作りに広く使われる。輸入物の冷凍品が通年出回っているけれど、どっしりと太く、鮮やかな紅を帯びた酸味の強い新鮮なルバーブが国内の市場に出るのは、初夏のこの時期だけだ。
 達也はスプーンを手に取り、狐色にカラメリゼされたカスタードクリーム(クレーム・パティシエール)の表面をつつく。
 クレーム・パティシエール――フランス語で、菓子職人のクリーム。
 カスタードクリームは、その名が示すように、パティシエにとって欠かせないものだ。シュー・ア・ラ・クレーム、エクレール、ジブースト、クレームブリュレ......。カスタードクリームの美味しさがすべてを決める菓子は多い。
 パリッと割れたカラメルの下から、バニラビーンズの粒が散ったリッチなクリームがとろりと溶け出す。さらにその奥から、ルビーのようなルバーブのコンポートが顔を出した。
 ルバーブが綺麗な色を保っていることが、このタルトレットの要だ。卵色のクリームと、ルバーブの紅のコントラストが美しい。
 その点で、まずは合格だ。
 一さじ含めば、シャリッとしたカラメルの苦みが緩やかにほどけるのと同時に、瑞々しい酸味の利いた爽快な甘みが口中いっぱいに広がる。バニラの香りも充分に立っていて、切れのいい後味も申し分なかった。
「うん、問題ない」
 達也が頷くと、朝子がホッとした表情を浮かべる。
「この調子で、本日もよろしく」
 短く告げて、達也は朝子に背を向けた。
「はい」
 背後で朝子が答え、持ち場に戻っていく気配がする。
 本当なら、もう一言、二言、言葉を添えたほうがよいのかもしれないが――。
 シェフになって三年が経つ今でも、達也はスタッフたちと一定の距離を置いていた。一昔前のオーナーシェフのようにスタッフを怒鳴りつけたりもしないかわりに、今どきの若手シェフにありがちな厨房スタッフへの仲間意識も持っていない。
 仕事は仕事。淡々と流れればそれでいい。
 もう、誰かを信じることも、疑うことも、したくない。
〝私たち、同じチームなんですし、ちゃんと話していただければ、もっと色々なことがスムーズに......〟
 ふと、先日の遠山涼音(とおやますずね)の声が耳の奥に響いた。
 涼音は、現在産休に入っているベテランラウンジスタッフ、園田香織(そのだかおり)の後任として今年からアフタヌーンティーチームに配属されたサービス課のスタッフだ。
 元々バンケット棟で宴会を担当していた涼音は、アフタヌーンティーに特別な思い入れがあるらしく、妙に張り切っては様々な新プランを提案しようとする。
 仕事は熱心だし、悪い人間ではないと思う。
 努力さえすればすべてはかなう――。
 しかし、本気でそう信じているような涼音の健全すぎる真剣さが、達也は当初からうっとうしかった。
 なにも知らないくせに。
 どれだけ努力したって、どうにもできないことはある。
〝やっぱり、ロンドンとかパリとかに、留学されてたんですか〟
 邪気のない表情でそう聞かれたときも相当腹が立ったが、それ以上に――。
〝飛鳥井さん、読字障害(ディスレクシア)ですよね〟
 正面からぶつけられた言葉が甦り、達也は我知らず唇を噛む。
 自身ですら長年見当がつかなかった症例を、あんなにあっさりと指摘されたのは初めてだ。
 達也の場合、日本語の読み書きには大きな支障がない。だから、自分をはじめ、両親も学校時代の教師も、誰も根本的な問題に気づくことはなかった。
〝隠す必要なんて、まったくないと思います〟
 なんでもないことのように続けられ、最初は呆気にとられた。
 それから段々、黒雲のような苛立ちが湧いてきた。
 たかだか数か月、同じチームで働いているだけの人間に、一体なにが分かるというのか。
 遠山涼音は、社内の厳しい接客コンテストで優勝している。それだけに、対人における様々な知識があるのかもしれない。だからと言って、こちらの心の中に土足で踏み込むような真似は許さない。 
 だけど――。
〝大丈夫です。お話ししてください〟
 澄んだ大きな瞳でこちらをまっすぐに見つめ、落ち着いた口調で語りかけてきた涼音の様子を思い起こすと、また違った複雑な感情に囚われる。
 きっかけは、テレビの収録直前に、一緒に番組に出るクレア・ボイルからの直筆メッセージを広報課から渡されたことだった。普通に考えれば、簡単に読めるメッセージだ。だが、自分には......。
 収録時間が迫り、半ばパニックを起こしかけていたときに、涼音がバックヤードに入ってきた。明らかに異常な言動をしていた自分に、涼音は驚くこともなく、冷静に対処してくれた。
 あのとき、バックヤードに入ってきたのが涼音でなければ、どうやって事態を切り抜けていただろう。
 いや。
 たとえメッセージを読むことができなくても、多少収録がぎくしゃくするくらいで、たいした支障は出なかったに違いない。
 だから、別段恩義に思う必要などないのだ。
 込み上げてくる余計な感情を振り払うように、達也は一つ息をついた。
 ガスバーナーを手に取り、自らスペシャリテの仕上げに加わる。達也の参加に、仕上げを担当するアントルメンティエのスタッフたちの間に、ピリッとした緊張が走った。
 クリームの表面に中南米産のブラウンシュガー、デメララ糖をまんべんなくふりかけ、ガスバーナーを均等に動かして、表面を綺麗にカラメリゼしていく。カラメリゼは、表面のパリッとした食感を失わないよう、ゲストに提供する直前に行うのが肝心だ。
 達也たちが作る酸味のあるスイーツに合わせるのは、食事系を調理する向こうの厨房でシェフの須藤秀夫(すどうひでお)が指揮を執るイワシやサーモンを使った北欧風のセイボリー。
 デイルやバジル等たっぷりのハーブにニンニクを効かせたサルサヴェルデと呼ばれるソースを用いたイワシのカナッペや、サーモンとそら豆のキッシュは食べ応えもあって美味しかった。この時期北欧では鉄板のザリガニのカクテルは、日本人向けにむきエビに変更したと言っていたが。
 むきエビのカクテルを、秀夫は普通のパンではなく、ブリオッシュに詰めていた。
 甘いお菓子にも使うブリオッシュを用いているところが、独特で面白い。
 アフタヌーンティーチームのシェフ・パティシエとして桜山ホテルに招かれることが決まったとき、コンビを組むセイボリー担当のシェフが一度定年退職したシニアスタッフだと聞き、達也は当初戸惑った。事実、秀夫は達也の父親よりも年長だ。外資系ホテルはともかく、達也が長く身を置いていた町場のパティスリーには根深い縦社会の雰囲気があった。
 だが、初めて会ったときからずっと、秀夫は達也の意見を尊重してくれている。
 アフタヌーンティーの主役は、やはりスイーツだからと、割り切っているからかもしれない。互いに余計なことは話さないけれど、達也にとって、秀夫は決してやりにくい相手ではなかった。
 それぞれの厨房で作られたスイーツとセイボリーは、配膳室(パントリー)でシルバーの三段スタンドに配される。本場のイギリスでは、焼き立てのスコーンは別皿でサービスするため、二段スタンドが使われることも多いようだが、日本では三段スタンドこそがアフタヌーンティーのシンボルとなっている。
 実際、銀色に輝く三段のスタンドは、アフタヌーンティーが最も華やかになる演出だ。
 見た目の豪華さもまた、ホテルアフタヌーンティーならではのサービスと言える。達也もそこは、桜山ホテル伝統のスタイルに従っていた。
 何気なくパントリーを見やれば、ティーポットを温めている涼音の姿が視界に入る。涼音は今日もしっかりとポットを温め、丁寧に紅茶を淹れていた。
 あれ以来、涼音とは仕事以外では言葉を交わしていない。
 なにかを話したそうな視線を感じることはあっても、達也が徹底的に避けていた。
 なにが、チームだ――。
 仕事は明快であれば充分だ。
 同調圧力のようなものは好きじゃない。
 涼音の姿から眼をそらし、達也は手元のバーナーに意識を集中させた。

最高のアフタヌーンティーの作り方

Synopsisあらすじ

老舗ホテルで働く涼音は、念願叶って憧れのマーケティング部サービス課、アフタヌーンティーチームに配属された。
初めてアフタヌーンティーの企画を出すことになるのだが?

Profile著者紹介

古内一絵(ふるうち かずえ)
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。第五回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。
「マカン・マラン」シリーズが、累計10万部を突破するヒット作になる。他に『銀色のマーメイド』『十六夜荘ノート』(中央公論新社)がある。

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