北条氏康 巨星墜落篇第七回
十二
軍議が終わってしばらくしてから、氏康は綱成を呼び戻した。氏政も同席している。
「不満があるであろうな?」
氏康が訊く。
「いいえ、不満などありませぬ」
綱成が首を振る。
「ただ......」
「何だ?」
「遠山殿と富永殿は死を覚悟しているように見受けられました。それが心配でございます。難しい戦には違いないでしょうが、敵は八千、われらは二万、敵は長尾が来るのを首を長くして待っており、すぐに戦をしたくないのが本音でしょう。死を覚悟しなければならぬほど、われらは追い詰められてはおりませぬ。追い詰められているのは向こうです」
綱成が言う。
「あの二人には余裕がないと言いたいのか?」
氏政が訊く。
「そう見えました。老い先短い年寄りに先陣の功を譲ってくれ、それを冥途の手土産にしたい......そんな言い方をしてくれれば、わたしも大笑いして、喜んで先陣を譲ったでしょう。しかし......」
綱成の表情が曇る。
「そうだな。二人とも思い詰めた顔をしていた。先陣を賜ることができねば、死を賜りたい......そんなことを言い出しそうだった」
氏政がうなずき、氏康を見る。
「父上、これでよろしいのですか?」
「戦も始まっていないのに、二人を死なせるわけにはいかぬ。富永と遠山だぞ。あの一族が、どれほど当家に尽くしてきてくれたと思う」
「お気持ちはわかりますが、戦に温情は無用かと存じます」
「おまえが正しい。わしがいなければ、おまえはそうするべきだった。二人の願いを退け、綱成に先陣を命ずるべきだっただろう。すまぬ、この通りだ」
氏康が氏政と綱成に頭を下げる。
「わたしに頭を下げる必要はありませぬ。わたしは御屋形さまと御本城さまの指図に従うだけでございますから」
綱成が慌てる。
「わたしに頭を下げる必要もございませぬ。父上のやり方に異を唱えるつもりなどありませぬ。どうしても納得できなければ、あの場で申し上げました。父上らしくないやり方だと思ったので、どういうお考えなのか知りたかっただけです」
氏政が言う。
「そう言ってもらえると、わしも胸のつかえが下りる。綱成、頼みがある」
「何なりと」
「明日の戦、遠山と富永が先陣だが、その後の第二陣を汝に任せたい。引き受けてくれるか?」
「喜んで」
「たとえ遠山・富永が苦戦して兵を退くことがあっても、その後ろに地黄八幡が控えていれば、安心ということですな」
氏政がうなずく。
「その方は綱成の後ろ、第三陣にいるがよい」
「父上は?」
「わしは、ここに残る。向こうがどういう策を取るかわかるまでは動かぬ」
「と言うことは、明日は小手調べ、決戦は明後日ということになりそうですね」
「うむ、恐らく、そうなるだろう」
綱成の言葉に、氏康がうなずく。
が......。
その予想は外れた。
十三
正月七日、まだ暗いうちから、遠山・富永の軍勢二千が川沿いに集結する。北条軍の先鋒である。
その背後には、綱成の三千が控えている。
北条軍の総数は二万だから、その先鋒が二千というのは少ない気がするが、これは、まずは小手調べをして、相手の出方を窺ってみようと氏康が考えたからである。
国府台城を中心として集結している里見軍は八千で、北条軍よりかなりの劣勢だし、長尾景虎の救援を待って開戦したいというのが里見義弘の本音だと見抜いているから、
(籠城するのではないか)
と、氏康は見ている。
そうだとすれば、遠山・富永の先鋒が川を渡れば、その近辺に布陣している里見軍は一斉に国府台城に引き揚げるはずであった。
里見軍が籠城するとわかれば、氏康は葛西城から腰を上げ、全軍を率いて渡河し、国府台城を包囲するつもりでいる。
とは言え、それは氏康の見立てに過ぎない。
実際のところ、里見義弘が何を考えているのか、手合わせしないことには判断できない。
それ故、氏康は、わざわざ出陣前の遠山綱景と富永直勝を宿舎に訪ね、
「無理をしてはならぬぞ。敵が攻めかかってくるようなら、守りを固めて、綱成が川を渡るのを待つのだ。綱成の後には氏政が川を渡る。敵を攻めるのは、それからでよい。敵に戦うつもりがなく、国府台城に引き揚げる動きを見せたら、放っておけ。後を追いかけてはならぬ」
と、二人に諄々(じゅんじゅん)と説いた。
綱景も直勝も、
「仰せのままに」
神妙に頭(こうべ)を垂れた。
氏康は、二人に先陣の功名を与えはしたものの、敵と戦うことまでは期待しておらず、期待していないどころか、それを禁じたわけである。
先陣の功名を手にすることで、太田康資を寝返らせてしまったという罪悪感を払拭してほしいと願ったのだ。
二人にも氏康の思い遣りはひしひしと伝わったから、氏康の命令に逆らうつもりなどなかった。
二千の北条軍がからめきの瀬で川を渡った頃、ちょうど夜が明けた。
川縁から緩やかな斜面が続いて丘になっており、丘の上に里見軍の旗が数多く揺らめいている。
すぐに攻めかかってくる気配はないし、かと言って、退却するようにも見えない。
「ここに陣を敷き、地黄八幡を待ちましょうか」
「そうしよう」
遠山綱景と富永直勝が相談する。
この段階では、二人とも氏康の指示を忠実に守るつもりだった。
ところが......。
北条軍が陣地を拵えているとき、敵方から一騎の武者が出てきた。悠然と丘を下って北条軍に接近し、やがて、石を投げれば届きそうなところまで来た。最初は遠いので、それが誰なのかわからなかったが、近くまで来ると、
「おおっ、あれは」
「おのれ」
裏切り者・太田康資なのである。
「おう、そこにおられるのは舅殿ではございませぬか。その横におられるのは、四郎左衛門(直勝)殿ですな? 普通は地黄八幡殿が先陣なのでしょうに、老齢のお二人が先陣とは、もしや、わたしのせいでありましょうか? そうだとしたら実に申し訳ないことです。しかしながら、敢えて申し上げましょう。北条の水は苦くて、まずい。奉公しがいのない御屋形さまですぞ。それに引き換え、こちらの水は甘くて、うまい。越後の関東管領さまも、里見の御屋形さまも物惜しみせぬ、実に気前のいい御方でござる。いかがですか、お二人もこちらにお越しなさいませ。わたしがよしなに紹介いたしましょう。いかがですかな?」
と言うや、康資は音高く、屁を放つ。
そばまで悪臭が漂ってきそうなほど嫌な音である。
「いやあ、これは無礼を! 毎日うまいものばかり食っているせいで、勢いのよい屁が出ますわ」
わはははっ、と笑いながら、またもや放屁しつつ、康資がゆっくりと自陣に戻っていく。
「......」
遠山綱景と富永直勝は顔面蒼白である。
「おのれ、わしらをあそこまで愚弄するか」
綱景が激怒する。
そこに物見の兵が戻ってきて、里見軍は陣払いをして引き上げる様子だと伝える。
「やはり国府台城に引き揚げるつもりらしい。戦もせずに退却するのが悔しくて、わざわざ負け惜しみを言いに来たのでしょう」
直勝が言う。
「そうだとしても、礼儀というものがあるはず。あの男、いつからあんな下品な人間になってしまったのか」
綱景が吐き捨てるように言う。
「元々、そういう人間だったのに、われらの前では猫を被(かぶ)っていたということなのでしょう。そうでなければ、多大な恩義を受けている北条家を裏切ることなどできるはずがない」
「いかにも」
二人が話している間に、丘の上で翻っていた里見の旗が次々に消えていく。里見軍が退却を始めたのだ。
「地黄八幡殿が川を渡りきるには、あと半刻(一時間)ほどはかかりましょうな」
からめきの瀬を振り返りながら、綱景が言う。
綱成の率いる三千は、まだ対岸にいて、ようやく先頭の兵や馬が川に入るところである。
「地黄八幡殿を待っていたのでは、みすみす逃げられてしまいますな」
直勝がうなずく。
「われらが足止めしようではありませぬか」
「しかし、御本城さまは後を追ってはならぬと申されましたぞ」
「追うのではない。足止めするだけでござる。戦をするのは地黄八幡殿がやって来てからでよい」
「なるほど、逃げる敵を攻めるのは、さして難しくもありませぬしな」
二人は、直ちに二千の兵を率いて丘を上り、里見軍を足止めすることにした。
この時点では、この場所に布陣している里見軍は二千足らずという情報を得ており、それならば、二人の率いる軍勢と同じである。
しかも、すぐ後ろに綱成や氏政が控えているのだから自分たちの方が有利である。
里見軍を足止めすることができれば、後詰めの綱成や氏政の軍勢が里見軍に止めを刺してくれる......綱景と直勝は、そんな見通しを持った。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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- 第十四回2025.03.19